第7話 毒か薬
ー…テーブルの上の、薬と水の乗った盆を眺めた。
恐る恐る机に近づいて、盆の中の物を確認した。
薬は透明な小瓶に入った青白い粉の様なモノだった。
銀のスプーンと、簡単な手書きの処方書の様な物が添え置いてあった。
貴族の売り物として育てられた私は、文字の読み書きも多少心得ていたので、何とかそれを読む事ができた。
そこには次の様に記されていた…
ー…薬を匙に2杯分、グラスへ落とす。
そこへ浄化された特別な水を波々と注ぎ入れ、ゆっくりと、グラスの中身をこぼさぬ様に匙で2周程グラスの中身を混ぜる。
こうしてグラスの中が透明から緑色に変わったら、3口に分けて全てを飲み干す。
必ず眠る前に飲む事。
水晶で浄化した水以外には溶かし入れぬこと。
と、あった。
私は生まれてから男爵の家に買われる前に、幾度か流行り病に罹った事があったが、こんな不思議な制約の処方がある薬は初めてだった。
それに、水の色が変わるだと?
果たしてそんな魔法の様な事が有るのだろうか?
まるでそれは魔女の薬だ。
疑いつつも、どうにも酷い頭痛と悪寒は治るどころかますます悪化している気さえする所。
それにもし、仮に中の薬が魔女の毒であったとしても、私は殺されても文句など言えないのである。
それでも中々手が出ずにいた。
死を恐れると言うよりも、こんなに私に良くしてくださった旦那様のご期待に添えぬまま死ぬのは、あまりに未練が残る思いだった。
思えばこの屋敷に来て早1カ月が過ぎようかと言う頃か…
旦那様は奴隷の身である私に、上等な衣服を与えてくださり、自室をあてがってくださり、まともな食事をくださった。だのにあの方が私にする命令と言ったら絵を描くことだけである。
その為の画材を揃えて下さり、しかも屋敷内の雑務さえ何も行わなくて良いなどと…
何より、旦那様は私の描いた絵を、あんなに大切そうに眺めてくださった…
男爵の屋敷にいた頃、男爵は私自身への執着ばかりが強く、絵に関してはたして興味を持たなかった。
それでもアトリエを与えられ、絵が描けるのは幸せだった。男爵が私に絵を許していたのは、体良く閉じ込める事ができるからだった。
私は毎日、男爵が屋敷に居る時以外は、屋敷の中を自由に歩かせてもらえず、アトリエに閉じ込められていた。
おかげで私は、自由な時間に見た景色や、奴隷商の男と旅をしていた時に出会った風景を思い出しながら、想像を描く日々を過ごしていた。
男爵は出来上がった絵を特に眺める事も無くなり、私はそれでも筆を離さずには居れなかった。
画商に絵を売らなかったのも、私が外の世界とつながる事を男爵が許さなかったからだ。
今ではどこにあるのかも知れないあの思い出たちが、もし誰かの目に留まって居たら良いのに…と私は夢を見る。
私には絵しか無いのだ。
何も持たずにこの世に生まれ、意思を口にする事も許されずに、ただ飼い殺されて行く運命だと思っていた。
男爵が殺されて、再び売りに出された時、もう二度と筆を握ることなんて出来ないと諦めた。
そんな中、私に筆を与えて下さり、私に絵を描く事を命じてくださるお方に出会えたのだ。
私はこの方の為に望まれた物を差し出したい。
そう思う気持ちがぐるぐると思考を掻き回していた。
けれど、このままではどのみち絵を書き直す事すら出来ない。
もし旦那様が私に死ねと仰るなら、私にはそれしか選択肢はない…
散々迷った挙句、私はとうとう薬を含む覚悟をした。
震える手で銀のスプーンを持ち上げると、小さな匙と思えぬ程に、ずっしりとした重みを感じた。
それから薬の瓶に手をかけた。
瓶にはガラスの蓋が被さっており、ぴっちり封がしてある様だったが、試しにそれを左手でゆっくり持ち上げると、なんの抵抗も無く蓋はするりと外れた。
中に入っている青白い薬は、窓の外の月明かりを受けて、所々キラキラと煌めいていた。
銀のスプーンで薬をサラリとひと匙掬って、グラスの中へ注ぎ入れた。
もうひと匙…
水を注ぐ為、カラフェを手にした。
処方書には確か、‘水晶で浄化した特別な水’とあったが、一見してもただの水にしか見えなかった。
その水をグラスの中へ注ぎ入れた瞬間、薬と混ざり合うやいなや、グラスの中で渦を巻くその水流が、様々な色へ変化していった。
こんな不思議な現象を見るのは生まれて初めての事で、私は驚いたが、それは恐れというよりも、好奇心の様な、いや、初めてキャンバスに絵具を引いた時の様な感動すら覚える光景だった。
水を注ぐ間、グラスの中の小さな水流はキラキラとうっすらとした発光をしながら、色とりどりに変わっていき、私はその光景をいつまでも眺めていたい様な気持ちになった。
ところが小さなグラスはすぐに波々に注ぎ切ってしまった。
私はもう一度処方書を確認し、銀のスプーンを手に取った。
揺らぎが収まりすっかり透明色に落ち着いたグラスの中へ、静かにスプーンを差し入れた。
すると、スプーンの周りの波立ちから再び美しい色が現れた。
私は心を囚われぬ様に意識しながらゆっくりと2周、グラスの縁をなぞる様に混ぜた。
そうすると、まるでスプーンがこの水に魔法をかけた様に、スプーンの軌道から、美しい新緑を明るく薄めた様な緑色に変わっていった。
私はもう毒であろう恐怖など忘れ去り、グラスを両手で優しく包み込むと、ひと口、ふた口…と薬を飲み下した。
不思議と味を感じる事はなかった。
全てを飲み干し、グラスをテーブルに置くと、途端に異様な程の眠気に襲われた。
立って居るのも危うい程の眠気に、何とか抗いながら、テーブルを離れ、ふらふらとベッドへ向かった。
ー…あぁ…私はこのまま……
段々と意識は、薄れていった。もう何も、考えられなかった…。
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