第2話ギルバート Ⅱ

 執事について辿り着いた先はどうやら風呂場のようだ。


執事は案内を終えると扉を締めてどこかへ去っていった。




 数日振りに身を清められて、やっと人心地が着く。



 風呂から上がると私の着ていたボロは屑籠の中だったが、代わりに用意されていた洋服は上等な物だった。


亡き男爵が私に買い与えた洋服と引け劣らない程に。


 着替えの済んだ私を執事が再び迎えに来た。




「こちらへ。」



 玄関を通り過ぎ、先程ジャックが入っていった部屋へ連れてこられた。




 中は来客を迎える部屋の様で、豪奢な照明の下に、大きくて座り心地の良さそうなソファが二対、向かい合って置かれていた。


 その奥には暖炉が煌々と焚き木を燃しており、暖炉の近くには1人掛けの立派なソファが…



ジャックはそこへ腰掛けていた。



 ソファから立ち上がりこちらを向いたジャックは、私を上から下まで眺めた後



 「ふん…さっきよりは大分マシになった。」

と、嘲笑を含んで言うと、視線だけを執事に向けて

「スミス、ご苦労、下がれ。」と短く放った。




 スミスとはこの執事の事だったようで、彼は静かに礼をすると部屋を出て行った。



 私が何も言わずに佇んでいると

「お前、名は何だ。」と、ジャック



 私はしばしの思考の後に


「…今は、おそらく、‘ガブリエル’だと思います…」



「だと思う?何だ、随分歯切れが悪いな。

自分の名を忘れたのか」



 ジャックはいつもの眉をひそめる気難しい顔で聞いた。





 私の初めの名は‘シス’だった。

これは私を育てた奴隷商の男が付けたもので、数字の‘6‘と言う意味らしい。

あの男が赤子から買い上げ育てあげた子供のちょうど6番目と言う意味だそうだ。



 初めの主人の男爵に名を聞かれそう答えた時、男爵はそれを不憫だと嘆いて、私を’ガブリエル‘と呼んだ。


 これは天使の名で、主人は昔どこかでこの天使の絵画を見た時、それは優美な青年の絵画だったと言い、私に名付けた。


 けれど私を’ガブリエル‘と呼んだ主はもう今は亡く、私は一体どちらを名乗るべきなのか、それがわからなかった。

 そう話すと、ジャックは




「ふん…そう言うことか。いいだろう、新しい名は俺が与える。

’ガブリエル‘などお前には大層過ぎる。

 …お前は本日これより’ギルバート‘だ」




 こうして私は、これより先の長い時間を、’ギルバート‘として過ごすこととなった。



 ジャックは続けて訪ねた。

 「お前はどうして俺に買われたのか、察しがついているのか?」と、ジャック。



 「…いいえ。」と答えた。




 男爵の様な特殊な癖があるのだろうか。

何れにしても奴隷を買う様な人間と言うのはマトモではない。


 確か私を育てた奴隷商の男はそんな事を言っていた気がする。


 「お前は絵描きをしていたと言ったな。

それもその絵を手に入れる為に画商が殺人まで犯したと…

 さぞ素晴らしいのだろうな。」



 ジャックは少し顎を上げ、また眉をひそめた。

まるで…こんな奴隷の小僧が本当にそんな絵が描けるものか…と疑う様な目つきである。




 「もし、何か描くものをお与えくださるのであれば、この場で何か描いてご覧にいれます。ご主人様…」




 と、私が言うと、ジャックは目を伏せて身を翻した。




 「いいだろう、紙とペンを用意させる」

 

「それから、俺の事をご主人様と呼ぶのは今後許さない」



 「それではなんとお呼びすれば良いでしょうか…」



 「俺の事は旦那様と呼ぶがいい」


 「…はい、旦那様。」




 ジャックはテーブルに置かれたベルを鳴らした。


 ーチリン チリン…


ベルを聞きつけ、間も無くして執事のスミスが部屋を訪れた。



 「旦那様、どうぞお申し付け下さいませ。」


 

「紙とペンを用意しろ。なんでもいい」



 「かしこまりました。」



 暫くすると執事は上等の羊皮紙と高価そうな万年筆を持って戻った。


 スミスがそれをテーブルに置くと、ジャックは

 


「下がれ。」と一言。



 ジャックは今度は大きな二対のソファに腰掛けた。



 「お前はそちらだ」


と、反対側のソファに座る様促され、私はテーブルを挟んでジャックと向かい合う格好になった。


 

「そうだな…スミスを見たな。あいつを描け。」



 ジャックに命ぜられるがまま、私は執事の姿を思い出しながら羊皮紙にペンを走らせた。



私は執事を細部迄眺めた訳ではないけれど、不思議と目の前に彼がいる様に思える程、記憶が鮮明だった。



少しの後にスミスの肖像を完成させた。


 


「旦那様、描き上がりました。」



 そう言って羊皮紙を差し出すと、ジャックは未だ訝しむ様な表情で、私を眺めつつ、片手で乱暴に羊皮紙を取り上げた。



 私の描いたスミスの肖像を見たジャックの瞳が、ほんの少し見開かれた様に見えた。


 ジャックは肖像をソファの上にひらりと置くと、すっくと立ち上がり私を見下ろした。



 「着いてこい」



 そう言うと部屋の出口に向かって歩き出した。私も直ぐに立ち上がり、ジャックの後を着いて行った。



 薄暗い廊下を左奥へ進むとまた扉が現れた。ジャックはその部屋へ入っていく。



 そこには、大きな窓とカーテン、立派なバルコニーと、その先には広い庭が広がっていた。


 今は初冬で木枯らしが吹き荒び、窓は締め切られていたが、ジャックは構わずに窓を押し開きバルコニーへ出た。


 私もジャックに続いて外へ出た。




 目の前の庭には大きな松の木がそびえており、木の根本にはうっすらと霜の降りた松ぼっくりが転がっていた。



 松の木の少し奥にはテーブルセットがあり、今の風景には寒々しく映るが、よく晴れた春の午後などはあそこでお茶などしたら気持ちが良さそうだ。


 その近くには白い天使の像が水瓶を傾けたポーズの噴水台があり、水をたたえるはずの水瓶には幾枚かの枯葉が溢れるばかりだった。


 さらにその奥には蔦の絡まったアーチがあり、アーチの先はどうやらバラの苗が植っていた様だった。

もう霜の降りる冬季だと言うのに、剪定もされておらず、花壇は荒れていた。



 ひとしきり庭を見て回った後に、ジャックは言った。



 「この庭を描け。」



 「かしこまりました旦那様」



 私がいい終わるかより早く、ジャックは続けた。




 「ただ描けばいいと言うのではない。

描くのはこの風景ではなく、25年前の初夏。この庭の全盛期だ。」



 初め何を言われているのか、さっぱりわからなかった。25年前など私は生まれてさえいないのだ。まして初夏。今は冬の始まりでこの荒れ果てた庭である。


 しかし、私は奴隷として生まれた以上は、主人の言付けは必ず守らなければならないのだ。



 「…承知致しました、旦那様」



 些かの不安はありはしたものの、私には元より選択肢などないのだった。



 「絵に必要な物は何でも与える。入り用は全てスミスに伝えろ。」

 「いつまでかかる」



 しばしの思案の後、1週間の猶予をいただく事にした。



 「いいだろう。1週間の間、お前はこの庭と、この部屋。

そして今から与えるお前の部屋以外の場所へ行く事は元より、それ以外の部屋の扉に触れる事も禁じる。

 用事は全てスミスを呼べ。その他は私が許した時以外は認めない。」




 「心得ました。旦那様。」


 私は胸に手をやり丁寧に頭を下げた。

間も無くして再びスミスが部屋へ来ると、旦那様から何事か言伝を聞いていた。


 その後ジャックは入れ違いで部屋を出て行った。


 

「こちらへ。ギルバート」




 私はまた促されるまま、執事に着いていった。

 

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