第3話 遠吠

 執事に連れられて来たのは屋根裏部屋だった。

ここを私の部屋として、自由に使っていいと言われた。



 中は埃っぽくて、長い間人の立ち入った形跡もない。

 天井には蜘蛛の巣、部屋の片隅に置かれた質素なベッドも埃を被っていた。

 ドアの正面には小さな出窓と、その前には古い書き物机と椅子が置かれており、壁には備付けの小さなクロゼットがあるだけで、他には何もなかった。



 決して清潔な部屋では無いけれど、それでもここに来る前の荷馬車にむき出しの檻の中に押し込められていた時よりは遥かに居心地が良さそうだった。




 私は執事に必要な物を伝えた。

 スミスは、用がある時はこれを鳴らす様に、と、ベルを手渡して何処かへ消えた。




 私は布団の埃を払う為、窓を開けた。冷えた屋根裏部屋に、一層冷たい外の空気が流れ込んできて、私は一瞬肩を竦めた。



 窓の外はすっかり陽が落ちていた。どれくらい経ったろうか、しばらくしてドアをノックされる音が聞こえた。



 ーコン、コン… 



ドアを開けるとそこには執事が立って居た、両手には絵具と筆、彼の後ろにはキャンバスやパレット、イーゼルまであった。


 ここに来た時、町から馬車でかなりの距離があった様に感じたけれど、こんなに早く揃えて戻るなんて…呆気に取られていると、スミスは


 「お受け取り願えますか。ギルバート」


 と、声を掛けられ私はハッとして品物を受け取った。


 「ありがとうございます…スミスさん…」


 心なしか、スミスが少し強張った様に感じた。

 いや、恐らく気のせいだろう…


 画材を全て部屋に入れてしまうと、私はそれらを組み立てた。

 絵具の瓶を少し開くと、懐かしい匂いがした…


 男爵の屋敷のアトリエで、好きに絵を描いて過ごしたあの日々が、酷く懐かしい。ついこの間の事だと言うのに、もう随分遠い昔の事の様だ。

 生まれてから、あんなに長い時間を共に過ごしたのは男爵が初めてだったし、気持ちの良くない事もあったけれど、あの人はあの人なりに、きっと私を愛してくれていたのだろう…


 ー…カシャンッ…パリンッ…


 深夜、自室に籠もっていると、遠くで何かが割れる様な音が聞こえた。屋敷のずっと下の方で…

 何だろう。不思議に思う気持ちもあったが、何しろ私は出入りが制限されている。大人しく絵に集中するより無い。


 私は初めにスミスが持ってきてくれた植物の図鑑を開いた。

 初めて訪れたこの遥か北の町には、見た事の無い植物がたくさんあった。つまり、花をつける植物なのか、そうならそれはどんな花を付けるのか、私は知らないのである。


 旦那様が御所望なのは初夏の庭の絵だ。それを描く為、私は毎日昼間は庭で草木を調べ、夜には与えられた自室で、その見たこともない植物に思いを馳せて、少しずつ丁寧に描き上げていった。




 そうして、旦那様との約束の1週間を迎えた。



 旦那様が普段何処で何をしていらっしゃるのか、私は何も知らなかった。

 この1週間、旦那様とは1度も会っていない。執事のスミスにも、足りなくなった絵具を頼む以外には、私は食事さえ1人だった。


 なので旦那様のお顔を拝見するのも1週間振りの事だった。


 私は描き上げた絵を旦那様に差し出した。



 旦那様はそれを受け取り、1度、ゆっくりと目を閉じてから眺めた。


 すぅっと、小さく息を吸い込んでゆっくりと瞬いた旦那様の瞳には、優しい光が灯った様に見えた。



 旦那様のそんな優しいお顔を見るのは初めてだったけれど、あまり見つめるのは奴隷として無粋なので、私は視線を落とした。


 「…うん、ご苦労だった。ギルバート」




 旦那様にいただいた名前を呼んでもらったのは、名付けていただいて以来、これが初めてのことだった。



 私は、今まで特に何かに揺さぶられる様な思いなど感じた経験が無かったので、自分のコレが何なのか、分からずにいた。


 旦那様はしばらく何かにひたるように絵を眺めた後、すっと立ち上がり


 「今日はもう休め。」


 と、言われた。今度は、スミスの肖像の時と違い、旦那様は私が部屋を出る最後まで、キャンバスを持って居た。


 その夜私は自室に戻りベッドに横たわったが、何だか体の中心が、心臓と言う臓器の辺りがムズムズとして、なかなか眠りに付けずに居た。原因は分からない。



 どれくらい経った時なのか分からないけれど、ふと寝返りを打ったあとの事…





 ーワオォーーーーー…ン



 「……っ?!」


 私は驚いて飛び起きた。


 狼??

何者かわからない、獣の遠吠えの様な声が響いた。


 ここは山の中だ、狼が居たとしても、別に不思議な事では無い。ただ私が驚いたのはそんな事では無い。





 獣の遠吠えが、屋敷の中から聞こえたからなのだ…

 


 


 


 



 


 

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