伝法な人

和泉眞弓

伝法な人

 柿の木か。陽ざしに橙色の実がぽこぽこみのり、深緑の葉は瓦屋根の漆黒に連なっている。対向車と譲り合い棚田がひしめく集落をようやっと抜け、生田目なばためさんの家に到着したのは午後二時だった。前回と同じように奥さんが出迎える。齢八十を越えているはずだが、六十代と言ってもおかしくない肌の色つやで、腰も曲がっていない。あれから二十年経つのに、奥さんの外見がほぼ変わっていないことに、少なからず私は驚いた。

「遠くから、ようきはりましたなあ」奥さんが、横にいる母を労う。

 今回は母を伴っての旅だった。足腰がきくうちに、と、かねてから母が希望しており、古希祝いの旅行でこの地に立ち寄ることにしたのだ。「一度、大学生の時に一人で来させていただきました。あの時はほんとうにお世話になりました」そう言って私が頭を下げると、奥さんは「知らんねえ。そういう人が来はったいうのは憶えとうけど、あなたのことは、知らん」なんでもないように、しかし語尾はきっぱりと言い放った。無理もない。前回はタイトスカート姿だったのが、今回は男性用スーツにネクタイ短髪だ。相応の紆余曲折を経、今の職場では男性ということで通している。続く沈黙は二秒もなかったろうが、ひどく長いものに感じられた。

「ささ、どうぞ」やがて、知らない人である私も招かれ、敷居を跨いで家に上がることを許された。

 早速仏壇に手を合わせさせてもらい、経机きょうづくえの傍に手土産の『マルセイバターサンド』を置く。手土産には仕掛けを施してある。熨斗紙の下には、高齢の伯母から託された『御霊前』の袋、さらに袋の中には福澤諭吉が潜んでいる。傍目にはただの菓子折で、流石の奥さんも気づいていないようだ。よし。今回はうまくいきそうだ。私と母は確信を込めた視線を交わした。

 奥さんがお茶を二つすすめてくれた。本州でいただくお茶は美味しい。大学生の時にも同じことを思った気がする。あの時もやけに口が渇いて、たいそうお茶が美味しかった。

 そんなことを考えていると、生田目さんのご主人が下りて来て、照り返しのように福々しい笑顔をうかべ、迎えて下さった。「お加減いかがですか」母が声をかけると「おかげさんで」と返ってくる。「おかげさんでピンピンしとりますわ。ちょっこし足には残ったけども、医者も驚いとった。手も頭もしゃーんと回る」そう言ってご主人は呵々と笑う。奥さんも「覚悟してくださいなんてなあ、息子も孫もみんな呼ばれて、ああ、いよいよかあ思たら、これやけえのう」何度も話し慣れているのかなめらかだ。「おかげさんでのう、嫁に来てから毎朝の田んぼの世話欠かしたことないけえのう、この年でもピンシャンしとる。長男、次男、三男、息子たちもおかげさんで元気にさしてもらってのう。おかげさんで息子たちの子もみいんな、男の子に恵まれてのう」流れるような奥さんの語りに、母はひかえめに「後継ぎに恵まれて」と相槌を打つ。「おたくは分家じゃけえ。亡くなられた旦那さんは本家のぶんまで、立派なお墓も建ててのう。ようされました」歌うように奥さんが言う。

 ようされたのは生田目さんの方だ。そもそもうちと生田目さんは親戚でもなんでもない。先祖の墓が隣りあっているというだけの関係だ。開拓でひとやま当てようと蝦夷地に渡りそのまま居ついた曾祖父と生田目さんの先祖が約束していたというだけで、うちの先祖の墓を何十年も世話し続けてくれているのだ。盆暮れに贈りものの交流はあるが、一度たりともお礼を受け取ってもらったことがない。二十年前、母から託された『御霊前』も、奥さんにものすごい勢いで三回も押し戻され、年若い私は引っこめざるを得なかった。今回は母にとり最後の訪問になる。何としてでも受け取ってもらわねばならなかった。

 会社の重役をしているという長男さんの運転で、奥さんに道案内をしてもらう。土地勘がないのに加え、車で行けるぎりぎりのさらに奥まったところにあるものだから、案内なしで辿り着くことすらできないのだ。車中、長男さんが陽気に地元のプロ野球チームの話をする。束の間、私は息をつく。

 二つの墓を掃除し、順番に線香を手向け、手を合わせる。私で止めてごめんなさい。二十年ぶりに会う先祖にこうべを垂れる。あの頃は人並みに楽観的な見通しを持ち、何かいいことをしたような気持ちでいた。今思えば浅はかだ。就活のついでと、お嫁にいくかもしれないから今のうちに、と墓参りをすすめたのは母だったのを、唐突に思い出した。

 観光地を案内され、地元の豪勢な夕食を御馳走になり――予想されたが頑として代金は受け取らないのだ――私と母はたいそうなもてなしを受けた。長男さんの喋りに乗せて、車はひたひたとホテルに近づき、正面玄関へと滑りこんでいく。みえない張力が、徐々に高まる。ロビーまで見送って下さるという。先攻、母。かくして、決戦の火蓋は切られた。


「これ、うちからの。本当これで、これで最後だから、もらってもらわないと困るんだわ」

「いいや、頂くわけにはいかん」

 三往復、五往復、だんだん速くなる。まだまだ終わらぬ。ロビーのど真ん中で八十代と七十代が互いのポケットに諭吉を突っ込むべく、ねずみのしっぽ取りのように追いかけあうさまはまるで幼子だ。やがて掴みあい、揉みあう、流血必至の格闘キャットファイトが始まった。


「母さん、がんばれ!」


 声は高く、大きく、フロアに響き、衆目が私に集まった。今だ。奥さんの鞄の隙間に光の速さで母が諭吉を差し入れる。次の瞬間、母は私をたしなめて、諦めたふりで引き下がる。無事に別れて丸く納まる。勝者、母。



「なんか、疲れたね」エレベーターで、どちらからともなく口にする。大きく息を吐くと、ぶら下げた土産物屋の紙袋が重く感じられる。視線を落とすと、諭吉と目が合った。

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伝法な人 和泉眞弓 @izumimayumi

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