第17話 灰色の恐怖
「あれ? 伏見じゃない?」
その声に振り返ったわたしの中にはふたつの恐怖があった。ひとつは、いじめの記憶からくる恐怖。清瀬灰音と小川梅子の姿を見たことで、わたしの心は闇に圧迫されていく。
そしてふたつ目は、撫子ちゃんを目にしたことからくる恐怖。撫子ちゃんは、わたしのことを見てどう思ってるんだろう? 撫子ちゃんは、わたしをどんな目で見てるんだろう? そう思うと、撫子ちゃんと目を合わせることはできなかった。
「やっぱり伏見じゃん! 最近全然学校来なくて忘れかけてたけどさあ、ずいぶん元気そうじゃん? ズル休みとか最低だな!」
清瀬がわたしの方に近づいてくる。
「最低最低!」
小川もその後をついてわたしに向かってくる。
「…………っ」
わたしの心臓の鼓動は強くなり、涙が自然に奥から込み上げてくる。呼吸は荒くなり、まるで暗い密室に閉じ込められたような感覚が襲う。…………なにより、なにも言い返せない自分が悔しい!
清瀬と小川の口撃が続く中で、わたしはゆっくりと、撫子ちゃんの方を見る。それは、助けを求めたものだったのかもしれない。わたしはこの二人には勝てないから、助けて、撫子ちゃん、助けて、と。…………そして撫子ちゃんは、わたしと目が合った瞬間に、目を、逸らした。
「無視してんじゃねえぞ!」
「うっ!」
胸ぐらを強く掴まれて思わず声が出る。わたしは反射的に腕を振り払い、三人に背を向けて走り出す。後ろで笑い声が聴こえる。
「くそっ……!」
涙が、溢れだす。
「くそっ……!」
わたしは、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、家に逃げるようにして帰った。
***
バタンッ! ドサッ!
「うっ、うう…………!」
わたしは家のドアを閉めると、玄関で四つん這いになるように倒れ込み、ひたすら涙を垂れ流した。
恐怖、悔しさ、悲しさ。いろんな黒い感情がわたしの心でごちゃ混ぜになって膨らみ続ける。何度も何度もついさっき自分の目に映った光景が反芻される。
「わたし、わたしはっ…………!」
わたしは…………なにも変わってないっ…………!
わたしはアオイと一緒に、この世に未練を残した人を助けて、いろんな色の心に触れて、感謝されて、そうして自分はもう、これまでとは違うんだ! ただ逃げていただけのあの時とは違うんだ! って、思うようになってた。
でも、それは違かった。さっきのわたしは、昔のわたしと何も変わらなかった。意識は内側、自分の方向に向いて、自分は傷つきたくない、誰かわたしを助けて、って、ただただ周りが変わることを待ってるだけ…………。
「わたし、一体なんのために、生きてるんだろ…………」
黒い闇が自分の体を覆っていく。ああ、これは、あの頃と、自ら命を絶ちたいと思っていたあの時と同じ感覚…………。
一度闇に傾いた天秤は、もはや自分の力では元には戻せなくなっていた。
明るい色の感情は、とめどなく溢れ出る暗い色の感情に上書きされていって、わたしという人間を黒く染め上げていく。
わたしはもう、ここまでなのかな…………。
「そんなところで何をしているんだい、アカネ?」
わたしは声を聴いて、現実に意識が引き戻される。
後ろを向くと、玄関のドアを開けたまま一人の少女が立っていた。
「アオイ……」
***
アオイは、いつもの黒づくめのコートを着て、いつもどおりのポーカーフェイスで、いつものような平坦な語り口で、わたしの背中に声をかけた。
振り向いたわたしの涙でぐちゃぐちゃなった顔を見て、アオイは少し目を見開いた。
「アカ……」
「……ごめん、ちょっと外出てくる」
わたしは玄関先に立っているアオイの横を、アオイと目を合わせないようにしながら通り過ぎ、外に出て早足で歩く。
…………ちがう。わたしのとるべき行動はそうじゃない。戻らなきゃ。戻って、アオイと話さなきゃ。そう、わたしの心の奥から声が聴こえてくる。
でも、その声とは反対に、わたしの足は速度を緩めることなく歩き続ける。
感情が、理性を支配していく。それは、恐怖の感情。わたしは、アオイに……わたしの新しい親友に、今のわたしの顔を見られたくない。見られるのが怖い…………!
さっきと同じように、頭の中でワンシーンが繰り返される。アオイは、わたしの顔を見た瞬間、何を思ったんだろう。心配、してくれたのかな? それとも、気持ち悪いと、思われちゃったかな?
何を考えたところで、足を止めない限りはそれは無意味で、ただただわたしの心が擦り減っていくだけだった。そしてそんなことは、わたしが一番よく知っていた。
「はあ…………」
ため息に近い息を吐きながら、少し足を緩めて空を見上げる。さっきまで街を照らしていた太陽は、いつの間にか雲に隠れてしまっていた。
「わたし、また逃げちゃった……」
ちょっとだけ落ち着いたわたしの心に湧き出てくるのは、行動に対する後悔と、わたし自身の弱さに対する反省。
変わった、つもりだった。自信をつけた、はずだった。アオイに出会ってから、わたしの心のパレットは、明るい色で満ち溢れていた。
でも、今気づいてしまった。わたしに色をつけたのは、わたし自身じゃなかったんだ、って。アオイやアオイと出会ってからわたしが触れあった人たちが、わたしを輝かせてくれたんだ、って。
…………わたしは、まだまだ元のわたしのままだった。
ふと、新しい依頼のことを思い出す。依頼人である秋津くんは、友達に気持ちを伝えようとしてる。死んだ後でもなお、見ず知らずのわたしたちに頼んでまで。
秋津くんは、真正面から友達に向き合おうとしてるんだ。いや、友達に向き合おうとする自分に向き合おうとしてるんだ。
それに比べてわたしは、友達から、自分から逃げてばっかりいる。そんなわたしが、秋津くんの未練を断ち切れるんだろうか。そもそも、依頼を引き受ける資格があったんだろうか。
ポタッ、と頭に触れた冷たい感覚に意識がいく。
「うそ、雨……?」
傘なんて当然持ってない。わたしは走り出して、頭に最初に浮かんだ雨宿りのできる場所まで一直線にダッシュした。
たどり着いたのは、いつもの公園の、屋根がついているベンチ。
「はあ、ちょっと濡れちゃったなあ…………」
と、声を漏らした瞬間に後ろから足音が聞こえる。
「よう」
振り返るとそこには、今日会ったばかりの依頼人が立っていた。
「秋津、くん…………」
***
「どうした?次ここに来るのは明日じゃなかったのか?」
秋津くんはわたしから少し離れてベンチに座る。
「うん、そうなんだけど……」
「……もしかして、声かけちゃまずいやつだったか?だったら俺はこれで……」
わたしの雰囲気を察して、秋津くんは今座ったばかりのベンチから立とうとした。
「あ、待って……大丈夫。むしろ、話を聞いてほしいっていうか……」
友達と向き合えず逃げてしまったわたしが、友達と向き合おうとしている秋津くんと話すことは、たぶん重要なことだ。
「そうか、わかった」
秋津くんは浮かした腰を下ろしてもう一度ベンチに座る。
「ありがとう。それで、話っていうのはね……」
わたしはそれから、たくさんのことを話した。アオイと出会うまでのわたしのこと、アオイと出会ってから今までのこと。そして、さっきのこととわたしの親友だった撫子ちゃんの話。
「わたしは、わたしが思うより変わってなかったし、わたしが思うより弱かったんだよ」
落ち着いてきたわたしは、自分に向かって言ってるのか秋津くんに向かって言ってるのかわからないような口ぶりで呟いた。
「弱い、かあ。弱いっていうなら俺も一緒だ。俺が強かったら、俺は死んでなんかないはずだから」
「でも、今はちがう。後悔があって、それに立ち向かおうとしてる。それはわたしからしたら十分強いことなんだよ」
わたしは、ふーっと息を吐く。
「わたし、どうしたらいいんだろ。このままじゃ、秋津くんの依頼を引き受ける資格、ない気がする」
「資格、ね。俺はそんなもの求めてないし、最初こそ年下でびっくりしたけど、午前のお前を見たら、俺はお前なら頼りにできるって思った」
「え……本当?」
わたしはちょっと意外で驚いた。
「嘘なんかつかねえよ。俺がそう思ったってことは、多少は変わってるってことなんじゃないのか?多分」
「そっ……か……」
「でも、それでもお前自身が納得できないって言うなら、ちゃんと、向き合えばいいんじゃないか?元親友と、現親友に」
「…………」
「俺の依頼は後回しでいいから、お前はお前自身のことにまず向き合えばいい」
「秋津くん……」
不安はある。恐怖もある。それでも、こうして背中を押してくれる人もいる。だったら、答えはひとつしかない。
「…………ありがとう!わたし、行ってくるね!」
何も考えず勢いよく飛び出したせいで、雨に当たるかと不安になった。でも、もう雨は止んでいた。
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