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――僕は一人でも平気だから、と彼は言った。
紫杏と林崎が日直だった日のことだ。二人とも魔法を使わずに作業するため時間が掛かり、帰りはいつも遅くなる。その日は先生に頼まれた仕事も多くて、日が傾くまでには終わりそうになかった。
『日野原さん、先に帰ってもいいよ』
林崎が教室の後ろから声を掛けた。
『ううん、大丈夫。家にはさっき電話したし』
答えたあと、紫杏はふと林崎に尋ねた。
『林崎くんは、おうちの人に連絡しなくていいの?』
林崎は頷いて笑った。
『おうちの人は誰もいないんだ』
『お出掛けしてるの?』
『今日だけじゃなくて、いつもいないんだよ。一人暮らしだから』
『え……』
紫杏の握っていたチョークが、カラカラと音を立てて床に落ちた。
『――そんなに驚かなくても』
『ごめんなさい。だって、林崎くん……家族はいないの?』
『いるけど、遠くに住んでる』
どうして? ――とは聞きにくかった。紫杏の心中を察したように、林崎は続けた。
『僕は一人でも平気だから。保護者がそばにいなくても――家に誰もいなくても、困ることはないんだよ』
確かに、彼ほど魔法が上手なら、日々の生活で困ることはないかもしれない。けれど、そういう問題ではないと思った。
『困ることはなくても、寂しいことはあるでしょ?』
『うん……。でも、仕方ないし』
林崎は声を潜め、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
『実はね――前に通っていた中学を退学になって……それで、家族と離れてこの学校に来たんだ』
紫杏は目をぱちくりさせた。
『冗談……だよね』
林崎は笑っているだけで、肯定も否定もしなかった。そのまま窓際へ歩み寄り、外の景色に視線を注ぐ。
『寂しい時はあるよ。嫌なことがあった日は、特に』
二人の他は誰もいない教室に、林崎の静かな声が響く。差し込む夕日が彼の顔を照らしている。
『だから、だめだなと思った時は、リセットするんだ』
『リセット?』
『ゲームに付いている、リセットボタンのようなもの』
『……全部なかったことにするボタン?』
『そう。リセットボタンを押して――全部なかったことにして、気持ちを切り替える』
自分には絶対に出来ないことだったので、紫杏は下を向いた。
『簡単に言うけど……』
『簡単だよ』
林崎は振り返って笑った。
『……ただ、それでも消せないものはあるんだけどね』
――あの時はわからなかった言葉の意味が、今ならわかる。あんなに近くにいながら、紫杏は林崎のことを何もわかっていなかったのだ。彼の思いも、置かれていた状況も。
もしわかっていたら、何か変わっただろうか。――今とは違う未来があったのだろうか。
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