――三月一日――

 翌朝、紫杏は早起きして、いつものバス停で林崎を待っていた。ちゃんと学校に来るだろうかと、気掛かりでならなかったのだ。彼がバスから降りるのを見た時は、ほっとして涙が出そうになった。

「あ……あの、おはよう」

 紫杏が駆け寄ると、彼はいつものように微笑んだ。

「おはよう、日野原さん」

 そのまま歩き出した林崎を、紫杏は小走りに追い掛けた。

「あの、林崎くん……」

「何?」

「昨日……大丈夫だった?」

「何が?」

「先生に、何て言われたの?」

 林崎が振り返った。感情の読めない笑顔で、紫杏をじっと見つめる。

「……退学だって言われた」

「えっ」

「よそへ行って、二度とこの学校には足を踏み入れるなって」

「嘘」

 林崎は小さく声を立てて笑った。

「……林崎くん、冗談はやめて」

「いずれ冗談ではなくなるよ」

 彼はまた背を向けた。

「僕の本性を知ると、みんな怯えて近付かなくなるんだ。そして僕を排除しようとする――明堂先輩みたいに」

「明堂先輩?」

「知ってるだろう。明堂先輩は僕を、この土地から追い出そうとしてるんだ」

「そんな……」

 ――明堂先輩は林崎くんに、そんなことを言ったの? でも、本気じゃないはず。ただ林崎くんのしていることを止めようと思って……。説明しなきゃ。林崎くんは誤解してるんだ。

「違うんだよ、林崎くん。明堂先輩はちょっと脅かしただけ……」

「これからは本気だって言ったのも、ただの脅し?」

「それは……」

「相手が本気なら、僕も本気にならないとね」

 紫杏は首を振った。

「違うよ……林崎くん、誤解してる。明堂先輩は……」

「あの人は僕の敵だ。――そして、あなたも」

 世界が真っ暗になったような気がした。

「どうして……? どうしてそんな」

「僕は――」

 言い掛けて、林崎は僅かに間を置いた。

「――前の学校を退学になったこと、誰にも話していない……あなた以外には」

 紫杏は一瞬、言葉が出なかった。

 ――学校中にばらまかれた、差出人不明のメール。林崎の悪口を書き連ねた――。

「――あのメールを……私が出したって、林崎くん、そう思ってるの?」

「違うの?」

「違うよ」

 紫杏は必死になって否定した。

「私はあんなメール、送ったりしない。林崎くんから聞いたこと、何も……誰にも話してないよ」

 ――私は、だって、私は……。

「じゃあ、あのメールに、あなたしか知らないはずの内容が書かれていたのは偶然?」

 林崎が静かに問い掛ける。

「バレンタインの日、あなたがあのチョコレートを持って来たことも、明堂先輩が現れる時、いつもその場にあなたがいることも――みんな、偶然……?」

「林崎くん……」

 紫杏はそれ以上言い返せなかった。林崎に離されまいとすることも諦め、歩調を緩めてしまった。

 紫杏の様子に気が付いて、林崎が振り返った。

「別に責めているわけじゃないんだよ。正義と悪なら、正義に味方するのは当然だ」

 ――やめて。

「ただ、忠告して置きたくて。僕は自分の敵に一切容赦しないから、二人きりになるのは賢明じゃないってこと」

「やめて。どうして、そんな風に悪役を演じるの」

「演じたりしてない。これが地なんだ」

「違うよ。私の知ってる林崎くんは……」

「それは嘘だって――忘れろって、この間言ったよね」

「嘘なんかじゃない!」

 紫杏は夢中で叫んだ。涙が溢れそうなのをぐっと堪え、まっすぐに、林崎を見つめる。

「私にとっては真実だから、絶対忘れない」

 林崎は少し驚いた顔をし、「そう」と呟いた。

「日野原さんは、か弱いと思っていたけど……案外強いんだね」

「強くなんかないけど、か弱くもないよ」

「そうみたいだね」

 会話が途切れた。いつの間にか、二人は昇降口の下まで来ていた。

「……そうだね。半分は真実だったかもしれない」

 林崎は校舎を見上げ、何かを思い出そうとするようにじっと目を閉じた。

「以前、僕が通っていた学校にね――あなたとよく似た女の子がいたんだよ」

「……え?」

「その子は、魔法が下手で、泣き虫で、いつも自信がなさそうにしてた」

 一歩一歩、階段を上がりながら、一言一言、噛み締めるように林崎は語った。

「見るからにか弱いのに、強い部分もあった。僕がクラスで孤立した時、それまでと変わりなく接してくれたのは、彼女だけだった――」

 紫杏は階段の下に立ったまま、動くことも出来ずに林崎を見ていた。

「――あなたによく似た、本当によく似た子だったんだ。だから……少し、重ねていたのかもしれない」

 涙が込み上げて来た。息が出来ないくらい苦しかった。紫杏は懸命に、声を絞り出した。

「林崎くんが私に優しくしてくれたのは、その子に似てたから?」

「うん。でも、錯覚だったよ。――あなたと彼女は別人だ」

 ゆっくりと振り返り、彼が紫杏に向けた眼差しは、とても冷たかった。

「だから、忘れて。僕も忘れるから」

「林崎くん――」

「全部忘れる。ずっと、そばにいたいと願っていたけれど、それは叶わなかった。彼女はもういないし、あの頃の自分も、もういない。もう、戻れないんだ」

「林崎くん!」

 遠ざかって行く林崎の背中に、追い縋るように、紫杏は呼び掛けた。

「林崎くん!」

 彼はもう振り返らなかった。

「林崎くん……」

 紫杏は両手で顔を覆った。

「……ごめんね……。ごめんなさい、林崎くん……」

 あの、バレンタインの日。呪いの仕込まれたチョコレートを、林崎に渡したのは紫杏だ。魔法を掛けたのが誰であれ、実際に彼のもとへ持って行ったのは紫杏なのだ。それは取り消せない事実だった。

 ――私があの時気付いていれば、林崎くんを傷付けずに済んだんだ。

 彼はきっと、信頼していた相手に裏切られたと感じたのだろう。

 だからだったんだ。林崎くんがみんなの記憶を消していなくなったのは、私のせいだったんだ。

『僕はただ、あなたたちの望み通りにしてやろうと思っただけだよ』

 林崎くんが明堂先輩に返した言葉。あの言葉は、私にも向けられていたんだ。明堂先輩も、私も、みんな自分がいなくなることを望んでいる――林崎くんはそう言いたかったんだ。

「違うのに。私は林崎くんのそばにいたいのに。私が望んでいるのはそれだけなのに。私は、林崎くんが、好きなのに――」

 この思いを伝えたくて、彼を追い続けて来た。たとえ受け止めてもらえなくても、それでもいいと思った。ただ伝えたかった。……けれど、もう……。



 紫杏は涙を拭き、林崎より大分遅れて教室に行った。

 覚悟してドアを開けたのだが、昨日あんなに騒がしかったクラスの雰囲気は、すっかり元通りになっていた。クラスメートたちは平常の落ち着きを取り戻し、静香も今日は、けろりとした様子で姿を見せている――それは、どこか不自然に思える光景だった。まるでみんな、魔法に掛けられたみたいな……。

 ――また、林崎くんが魔法を?

 授業中、紫杏は何度となく隣に目を走らせた。林崎は机の上で軽く両手を組み合わせて座っており、その横顔は紫杏を――周りの全てを、拒絶しているように見えた。

「林崎くん……」

 呼び掛けても、返事はない。こちらを見ようともしない。

 ――もう林崎くんに、私の思いは届かないんだ。

 バレンタインに告白しようと決心した、あの時のままだったら……何も知らずにいたなら、紫杏は今朝、林崎に自分の思いを打ち明けていただろう。信じてもらえるまで、「話を聞いて」と食い下がっただろう。けれど、今ではもう、そんなことは出来なかった。彼を余計に苦しめるだけだとわかっていたから。

 ――忘れてしまえれば楽なのに……どうしても、忘れられない。私はまだ、こんなにもあなたが好きで――あなたの、そばにいたいと願ってる。

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