――二月十九日――
そして、土曜日。
両親は朝から不在で、深紅も昼近くになって出掛けると言い出した。
「今日はうちにいるんじゃなかったの?」
「ごめーん、言うの忘れてた。勇と約束してるんだー」
玄関で靴を履きながら、深紅が振り返って笑う。
「またデート?」
「いいじゃない、たまの休みくらい。お父さんとお母さんも、今朝そう言って一泊二日の旅行に出掛けて行ったでしょ」
「夫婦水入らずでね」
「そ、だから私も」
「深紅は休みじゃなくたって出掛けてるじゃない。昨日もおとといも、明堂先輩と」
「恋する乙女ってのは、好きな彼とは毎日でも会いたいもんなのよ」
深紅はバッグを掴んで立ち上がり、ウインクして見せた。
「はいはい……。時間遅れるよ。行ってらっしゃい」
「行って来まーす」
「あ――晩ご飯は?」
閉まる寸前のドアに向かって問い掛けると、「いらなーい」という返事が聞こえ、スキップ気味の足音が遠ざかって行った。
家の中が急にしんとなった気がして、紫杏は壁に寄り掛かった。
「夜まで一人か……」
軽く昼食を取り、部屋を片付けたあとはすることがなくなってしまった。それから冷一に言われたことを思い出し、情報収集でもしてみようかと考えた。
紫杏はマンションを出てバスに乗り、前にいた世界でなじみだった場所をあちこち訪ねて回った。どこも元の世界と、何ら違いがないように見えた。
ただ、一つだけ、変わっている場所があった。――林崎の住んでいた場所だ。
「あ……」
そこは空き地になっていた。
紫杏は泣きたい気持ちになった。来なければ良かった……。彼がいないという事実を、思い知らされてしまった。
――この世界に林崎くんが存在したとしても、それは私の知ってる林崎くんじゃない。私と同じ思い出を共有した林崎くんじゃない。本当の彼と会うためには、元の世界へ戻るしかない――自分に言い聞かせてはみたものの、寂しさは消えなかった。
――林崎くんの笑顔が見たいよ。
紫杏はその道を、何度も何度も行ったり来たりした。教室の空っぽの机と同じ、空っぽの土地。枯れた葉っぱがたくさん落ちている。
「何やってるんだよ」
誰もいないと思っていたので、背後から声を掛けられた時はぎょっとした。
「れ、冷くん!」
「何やってるんだ? こんなとこで」
「冷くんこそ」
「俺は本屋の帰り。――に、お前を見掛けて」
「つけて来たの?」
「お前だって、こないだどっかの奴をつけてただろ」
冷一は辺りを見回した。
「見たとこただの空き地だけど、ここに何かあるのか?」
「……別に」
「だったら、こんなとこでうろうろしてないで、元の世界に戻る方法でも探せば?」
冷一の言い方に、紫杏はかちんと来た。
「冷くんこそ考えてよ。私より頭いいでしょ」
「俺より、魔法の力を持ってるお前の方が何とか出来るんじゃないのか?」
「私は落ちこぼれだって言ったじゃない!」
紫杏は魔法で風を起こし、枯れ葉を舞い上がらせた。葉っぱの群れがくるくると渦を巻き、冷一に降り掛かる。
「お……!」
一瞬むせ返ってから、冷一は紫杏を睨んだ。
「お前……」
紫杏はひるまなかった。他に何かないかと視線を巡らして、今度は小石を宙に浮かべた。
冷一はひるんだ。
「……使うなって言ってるのに……」
「今、使えって言った」
「言ってない」
「言ったもん!」
「おいおい、それ以上大声出すと、人が集まって来ちまうよ」
「冷くんだって大声――」
言葉の途中で、紫杏は固まった。――今のは、冷くんの声じゃない。
紫杏と冷一は同時にぱっと振り返った。
そこに、背の高い少年が立っていた。この寒いのにコートも着ないで、大きなイチゴのソフトクリームを手にしている。
「……明堂先輩……」
冷一が息と一緒に、その名前を吐き出した。
――明堂勇。一学年上の中学三年生で、深紅の彼氏だ。
明堂は快活に笑った。
「こんなところで痴話喧嘩は目立つから、よした方がいいんじゃないかなあ」
「……痴話喧嘩じゃありません」
冷一はむすっと答えた。
「でも、デートしてたんだろ?」
「デートじゃありません」
「照れることないのに。三年のクラスにも噂は流れて……」
「その話はしないで下さい」
「あ、あの――」
二人の会話が途切れるのを待ち、紫杏はおずおずと口を開いた。
「先輩こそ、今日はデートだったんじゃないんですか? 深紅は……? てっきり一緒にいるものと思ってました」
「うん。深紅ならそこにいるよ」
明堂は紫杏に顔を向けた。
「信号待ちしてたら、君たちが見えたからさ。驚かしてやろうかって、深紅が言い出したんだけど――逆に驚かされたみたいだな」
明堂の後ろを見やると、少し離れた電柱の陰に、深紅がへたり込んでいた。
「どうしたの、深紅」
「どうしたのじゃないよ、腰が抜けちゃった。あんた今、落ち葉を操って――目の錯覚じゃないよね?」
深紅はよろよろと立ち上がった。
「やっぱり見られてたか……だから使うなって……」
冷一が感情のない声で呟く。
「ごめん……」
「それ、魔法?」
深紅が紫杏をじっと見て聞いた。
「あんた――紫杏じゃないの?」
「私は紫杏だよ。――深紅の知ってる紫杏じゃないけど」
紫杏はちらっと冷一を窺った。――話してもいい?
冷一は肩をすくめ、頷いた。
四人は近くの公園に移動し、紫杏は冷一に手伝ってもらっていきさつを語った。
「へえー。君、パラレルワールドの紫杏ちゃんなのかあ」
明堂はさほど驚かず、しきりに感心していたが、深紅はわけがわからない様子だった。
「パラレルワールドって何?」
「辞書引け。……うーん、だけど君、こっちの世界の君と全然変わらないよ?」
深紅を冷たくあしらってから、明堂は首を捻った。
「魔法が使えることくらいだよね、違いって言えば」
紫杏も首を傾げた。
「そうなんですか?」
「そうそう、妹の彼に敬語使うとこなんかも一緒」
「だって……先輩だし」
「辞書に載ってないよ、勇」
携帯をいじりながらぼやく深紅に、冷一が近付き、ぼそぼそと説明を始めた。
「パラレルワールドっていうのは、つまり――枝分かれした世界のことだよ」
「はあ? もっとわかりやすく言って」
「だから……何かが起こる度に、『それとは別のことが起こった世界』が生まれて、今俺たちがいるこの世界と並行して無数に存在してるんだ」
「……もっとわかりやすく言って」
「例えば、深紅が紫杏より先に生まれた世界とか、深紅が一人で生まれた世界とか、二人とも生まれなかった世界とか――」
明堂は二人には構わず、のんびりブランコの方へ歩いて行った。片手で鎖を掴み、ゆらゆらと揺らす。
「ふーん、パラレルワールドねえ……面白いなあ」
「面白くないですよ」
紫杏は彼の楽しげな口調を咎めたが、明堂に改める気はないようだった。
「俺も、君のいた世界では魔法が使えたんだよね?」
わくわくと尋ねて来る。
「それは――もちろん。学校中で二番目に優秀な魔法使いでした」
「二番?」
「明堂先輩は、魔法の能力テストで二番だったんです」
「へえー。ちなみに一番は?」
紫杏はほんの少し躊躇した。
「えーと……林崎くんです」
「林崎?」
明堂は眉をひそめた。
「聞いたことないな。誰だ、林崎って」
――やっぱり知らないんだ……。
中学校の名簿を調べても、林崎の名前は見当たらなかった。彼の家もなくなっていた。彼は、どこにも……。
「……いないんです」
声が小さくなる。
「え?」
「林崎くん……多分、この世界に存在しないんです」
「存在しない?」
明堂がおうむ返しに聞き、冷一はぱっとこちらを見た。
「何で黙ってたんだよ」
「え……だって……わざわざ言うこともないでしょ。私が知らないだけで、他にもいない人や違う点があるかもしれないし」
「けど、何が重要かわからないんだ――」
「ちー、ちっと待って」
紫杏と冷一の言い合いに、明堂が割って入った。
「え、それってどんな奴? 何年生?」
「林崎くんのことですか?」
紫杏は明堂に視線を戻した。
「向こうの世界では、私のクラスメートだった人です。中二の初めに転校して来たんですけど」
「こっちではいなかったよね? そんな転校生」
「ああ」
深紅と冷一が確認し合っている。
明堂は思案顔で、人差し指を口元に持って行った。
「何でそいつだけ存在しないんだろう」
「存在はしてるのかもよ。転校して来なかっただけで」と深紅。
「まあな。そのハヤシガキ――」
「林崎です。林崎寛人」
紫杏に訂正され、明堂は言い直した。
「――ハヤシザキヒロトは、紫杏ちゃんのいた世界では魔法のエキスパートだった。魔法が当たり前に存在したその世界で、二年の初めに転校して来た彼が、魔法の存在しないこっちの世界では転校して来なかった――」
「でもあの、さっきも言いましたけど、林崎くんはたまたま私と同じクラスだったから気が付いただけで、他にもいない人、実はたくさんいるのかもしれません」
「そうかもしれないね。うん……だけど気になるな……」
頷きながらも、すっきりしない面持ちで明堂は呟いた。
「林崎――か」
いつの間にか、日が暮れ掛かっていた。
「勇、そろそろ行かないと」
「あ、そうだな」
深紅につつかれて、明堂は顔を上げた。
「俺たち、まだ予定があるんだ。悪いけどこれで」
「あ――はい」
紫杏と冷一も、二人に続いて公園を出た。
「じゃ、紫杏ちゃん。早く元の世界に戻れるといいね」
「……ありがとうございます」
「冷一、ちゃんと紫杏ちゃんを送って行けよ。喧嘩しないで仲良くな――俺たちみたいに」
明堂は最後にそう言い残し、深紅と仲良く手を繋いで去って行った。
「堂々としてるよな」
「噂なんて気にしないから、あの二人は」
「……その話はもういい」
冷一はコートのポケットに手を突っ込んだ。
「さっさと帰ろう、大分冷えて来た」
「うん……」
横断歩道を渡る前に、紫杏はもう一度、さっきの空き地を振り返った。冷一もつられて一緒にそちらを見る。
「元の世界で好きだった相手が、この辺りにでも住んでるのか?」
「そ、そんなんじゃないよ」
冷一があまりに鋭いので、紫杏は慌てて否定した。――嘘は言っていない。好きな人は今、ここには住んでいない。
「私、買い物しなくちゃ。早く行こう」
紫杏が歩き出したあとも、冷一はしばらく首を後ろに向けたままだったが、やがてゆっくりと追って来た。
「そういえば、チョコレートは見つかったのか?」
バスに乗り、一番後ろの席に腰を落ち着けてから、冷一が聞いた。
「チョコレート?」
唐突な質問だったので、すぐには何のことかわからなかった。
「バレンタインのチョコレート。なくしたって騒いでただろ」
「ああ、うん」
「見つかったのか?」
「ううん。探してないし」
「まあ、それどころじゃなかったのはわかるけど」
「違うよ。だって、見つかりっこないんだもん」
紫杏は冷一に顔を寄せて囁いた。
「こっちに来たあとでなくなったんじゃないから。ただ、あっちの世界にはあったものが、こっちの世界にはなかったってだけ」
「ああ……なるほど……」
冷一は目を細め、少し考えてからぽつりと言った。
「なら、渡せたんだな」
「え?」
冷一の顔には何とも言えない表情が浮かんでいたが、紫杏はそれを見逃した。こちらを向いた時、彼はいつもの無表情に戻っていた。
「なかったってことはそういうことだろ」
「どういう――」
大きな声が出てしまい、紫杏は急いで口を押さえた。
「どういうこと?」
「こっちの紫杏はお前と違い、ちゃんと好きな相手にチョコレートを渡したんだってこと」
「渡した……?」
「渡せなくて、自分で処分したってことも考えられるけど」
「そんな……。こっちの私は元々用意してなかったんだよ」
「用意してたよ。バレンタインの朝、手に持ってた」
「えっ――」
また声が高くなる。
「――そうなの?」
「ああ」
「それって、これくらいの大きさで、赤い紙バッグに入った……?」
身振りを交えて確認する紫杏に、冷一は苦笑した。
「そこまで覚えてない。声を掛けられて、ちらっと見ただけだし。代わりに渡してくれとでも言うのかと思って――」
「冷くん、『いちいち相談に来るな、俺は協力しない』って言ったんだよ」
「お前は俺をばか呼ばわりした」
「だって、人のこと落ちこぼれとか、意地悪ばっかり言うから」
冷一の口元から笑いが消えた。
「……そっちでも、同じ会話をしたのか?」
「どっちの世界でも、すぐ喧嘩になるんだね、私と冷くんは」
「……」
それきり冷一が黙ってしまったので、紫杏は窓の外に目を向けた。
――この世界の私が、誰かにチョコレートを渡したなんて……。本当かな。林崎くんのいない世界で、私は誰が好きだったんだろう。林崎くんと会う前、私が好きだったのは――誰だっけ?
考えられない。林崎くん以外の人を好きになるなんて、もう……。
それぞれ物思いにふける二人を乗せて、また暮れる日の下を、バスはゆっくりと進んで行った。
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