5.雨掛
頬を滴る水は、雨か、それとも。
彼が顔を歪ませる。
「苦しい、痛い。なんだ、これは」
「それが『悲しみ』だよ。貴方が忘れていたもの」
「俺はこんな感情は知らない」
「貴方が過去に置いてきた、いや、押し殺したもの。それが『感情』なんだよ」
「こんなものは要らない、知りたくない」
「辛いだけじゃない、それは必ず貴方の道標になる」
私が、仲間に教えて貰ったように。
今度は、私が彼に、心に灯の焔を。
「どうか嘆かないで、苦しいなら私も背負う。だから、前を向いて」
彼が歪めていた顔を上げ、縋るような顔で此方を向く。
様々な感情を綯い交ぜに濡らす姿は、確かに美しかった。
「...お願いだ、助けてくれ...」
背に背負ったあまりにも大きく重い荷物を下ろすように、私の肩を持ち慟哭する彼。
その身体を受け止め、確かに目を合わせ答える。
「必ず、貴方を救う。それが、私が此処に来た意味だから」
そう言うと、彼の目が微かに安堵の色に変わった気がした。
雨は止み、木漏れ日が僅かにその姿を照らしていた。
「...は、ぁ...っ...?!」
急激な意識の覚醒。鬱蒼とした森は消え、先程とは違う視覚が目に飛び込む。
どうやら現実に戻ってきた様だが、時間は経っていない。意識内と現実は時間の流れが違うのか。
横から焦りの混じった声で呼ばれる。
「モークシャ!良かった、声をかけても返事がないから、何かあったかと...」
「エルサ...!今の状況は...?!」
「それが、殺されるっていう寸前に、急に彼が...」
彼女の視線の先を見ると、彼が苦しそうに膝を着き荒い呼吸を繰り返している。
瞳孔は見開かれ、汗が吹き出している様子は明らかに異常だった。
「あの中での影響が...?」
「え、どういうこと...?」
「...ごめんなさい、時間が無い。後で詳しく説明する」
「...悪い影響ではないのね」
「話が早くて助かる」
視線を前に戻す。呻き声をあげていた目が、此方を見て、動揺の色に染まる。吹き上がる殺意。
「ぅ...ぁ、ぁぁああっッ!!!」
そのまま、一直線に此方の喉元を狙い駆けてくる。
エルサが焦りを見せて叫ぶ。
「しまった...!来る!早く逃げて...」
「...大丈夫」
「な...」
彼女の静止を抑えてあえて前に足を進める。
迫る狂刃。
そのまま、喉笛を搔き切られる、
…筈だった。
数ミリの距離もなく静止する刃。
体には傷一つついていない。
彼が何故だ、と顔を歪める。
その時、すとんと軽い衝撃でいとも容易く彼は意識を手放した。
「何がなんだか分からないけど、無茶はしないでくれないですか...?見てるこっちが焦りました」
横を見れば、小梅が微かに顔をひきつらせながら此方を見ていた。どうやら彼に手刀を入れて気絶させたのは彼女のようだ。
「...ありがとう、助かった」
礼を言うと彼女が困惑した顔を見せる。
「いや、説明してくださいよ。アレどういう状況なんです。何もわからないんですが」
さてどう説明するべきなのだろう。自分でも思っまだ理解しきれていない。困った、と思っていたところにコールが来る。
「とりあえず話は後で聞くわ。その前に彼をどうするか、からじゃない?皆を呼んで。話し合いをするから」
「...ええ」
「そうね。あたしみんなを呼んでくるから」
走り去る小梅。
その後ろで、エルサが不安そうな顔をしていたのに気がつく。
「...エルサ」
「...ねぇ、一体」
「...彼の意識に入って、話をしてきた」
「...!」
「...残酷な事を言うけど、昔貴方と笑っていた彼はもう戻らない。彼は過去の彼を殺してしまっていた」
「...」
「でも、彼は最後、笑っていた。貴方が笑顔で良かった、と言っていた。だから...」
「大丈夫」
「...」
「大丈夫だよ、ありがとう、モークシャ。それが聞けたことが私にとって一番の救いだよ」
「エルサ...」
「...さっき彼があんな風にになっていたのも、貴方が?」
「ええ、その『彼』に頼まれたの。今の彼を助けて欲しい、と」
「...そう。私からもありがとう、巻き込んでしまってごめんなさい」
「謝らないで。...私も助けられたから」
「どういうこと?」
「ずっと思っていたの、私が存在する意味。誰かを救う善の巫女として生まれたのに、もう一人の私は人を陥れる。私が善い事を行うほど、片割れは罪を重ねる。なら、私は何もしない方がいいんじゃないかって。」
「モークシャ...」
「でも彼に手を伸ばした時、私は確かに『意味』を感じたんだ。自己満足かもしれない、巫女としての本能かもしれない。それでも、『私は人に手を伸ばしてもいいんだ』って思えたんだ。彼を救った事で、私も救われたんだ。だから、これで良かったんだよ」
「...」
「難しいよね、ごめんなさい」
「...ううん、難しくない。貴方の思い、私には分かったわ」
「...ありがとう」
各々配置に着いていた仲間達が集まる。
審判が、始まろうとしていた。
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