流転 1


 春と秋の二度、軍には新たな兵が入ってくる。そのほとんどは全く心得のない少年兵で、それを鍛え上げて何とか使い物にするのが、城内にある訓練所の役割のひとつだった。カナンは秋から入った新兵たちの訓練に混ざることになり、ウォルテール自身の手からは離れた。

 問題はカナンの訓練にノコノコとついてくるエウラリカの存在である。暇なのか、自分が訓練に参加するわけでもないのにカナンを眺めに来るのだ。随分と気にかけておられるらしい。カナンがエウラリカの気に入りであるという事実は、すぐに多くの知るところとなった。

 そして、遊びに来たエウラリカの相手をするのはウォルテールである。余計な仕事が増やされ、ウォルテールは毎日のように神経をすり減らすこととなった。


「それでね、おとうさまが何でも好きなものを用意してくれるって言ったの。だからわたし、何をお願いしようかとっても迷っているのよ? ねえウォルテール、一体どんなものが……ウォルテール、聞いてる?」

「聞いておりますよ。……何の話でしたっけ」

「ウォルテールったら、もうっ!」

 隣に座ったエウラリカが足をぱたつかせながら、絶えることなく喋り続けている。ウォルテールの意識が僅かでもよそに向くと、すぐさまそれを察して文句を言うのである。堪ったものではなかった。



 訓練を終えたカナンが、汗を拭いながら大急ぎで走ってくる。それを見つけると、エウラリカはぱっと顔を輝かせて地面に降りた。

「終わったの?」

「今日は終わりましたよ」

 カナンが頷くと、エウラリカは満面の笑みで「お疲れさま」とカナンを見上げた。

「帰りましょ」

「はい」

 随分と仲よさげに会話を交わして、そして二人は並んで歩き出した。カナンが一度振り返り、「ありがとうございました」と少し微笑む。ウォルテールは片手をひょいと挙げることで応えた。


(やっと帰った……)

 げっそりとため息をついて、ウォルテールは頭を抱える。エウラリカの機嫌を損ねることは、すなわち皇帝の不興を買うことである。大したことはしていないように見えるかも知れないが、ウォルテールは常に首元に剣先を向けられている気分だった。


 ……向けられているのは剣先だけではない。ウォルテールは背後の気配を探りながら、思わず深々と嘆息した。

(見られている)

 振り返らなくても分かる。例の侍女である。しかし振り返ったら逃げるのは知っている。……ので、ウォルテールは顔を向けずに語りかけた。

「いるのは分かっているから、出てきなさい」

「ヒィ!」


 背後で短い悲鳴が上がる。逃げ出そうとする気配に、ウォルテールは素早く言葉を継いだ。

「アニナ・コルエル。少し前に、城内の侍女から訓練所脇の医務室付きの下働きになっただろう」

「に、認識されている……!?」

 今にも泣き出しそうな声とともに、背後の茂みががさりと揺れた。ウォルテールは体ごと振り返り、茂みに姿を隠してずっと様子を窺っていた侍女を見る。

 アニナは両手に木の枝を持った中腰という間抜けな体勢のまま、緊張した面持ちでウォルテールを見た。


 ラダーム暗殺に際して、アジェンゼ逮捕の立役者のひとりとなった侍女である。……ラダームが好きすぎて夜中の間ずっと部屋を眺めてしまうタイプの娘だ。何でそんな侍女が自分につきまとっているのか。何となく分かる気がしたけれど直視しないようにして、ウォルテールは侍女に向き直った。


「こちらへ出なさい」

「えっと、えっと……はい……」

 波打つ栗毛が特徴的な侍女は、あからさまに焦った顔であたふた茂みから出てきた。ウォルテールは訓練所脇の塀に腰掛けたまま、腕を組んでアニナを眺めた。

「コルエル、と呼んでも?」

「……ぜひ、アニナと……」

 照れたように頬を染めて俯いた侍女に、呆れを一切隠すことなくウォルテールはため息をつく。そういう話じゃない。だがそう呼べと言っているので取りあえず飲むことにする。

「……アニナ、」

「はい……!」

 ぱぁっと顔を輝かせて返事をしたアニナに、ウォルテールは思わずめまいに襲われるような心地がした。


 顔中を真っ赤にして、アニナは両手で頬を挟んで横を向く。

「どどどどうしよう……! 名前を呼ばれてしまったわ……! こ、これってもしかして、もう付き合っているも同然なんじゃない!?」

「違うぞ」

 ウォルテールは努めて冷静な声でアニナの逡巡を叩き落とした。アニナはこの世の全てに絶望したような顔でウォルテールを振り返る。

「フラれた……」

「フってはいないぞ」

 そもそもそういう話ではない。ウォルテールは額を押さえて、長いため息をついた。


「――ともかく、だ」

 ウォルテールは腕組みをしてアニナを見下ろす。アニナは僅かに怯えたような顔をして身構えた。

「これ以上の覗きはやめてくれないか?」

「そ、そんな……!」

 アニナは愕然とした顔でたじろいだ。蒼白な顔で口元を押さえ、ふるふると体を震わせている。

「金輪際近づくなと、そう仰せですか……?」

「いや、用事があるなら覗きじゃなくて普通に話しかけてくれという話だが」

 正直、常に背後に気配を感じながら仕事をするのは、何となく嫌である。というか単純に居心地が悪いし落ち着かない。


 ウォルテールが不満を露わにアニナを見下ろすと、侍女は信じられないというように大きく目を見張って、声もなく立ち尽くしていた。

「……どうした?」

「そそそ、そんな……いつでも側にいて良いってこと……!? そんなのもうプロポーズも同然じゃない……!」

「だから違うぞ」


 ウォルテールは一分の余地すら残さずにアニナの言葉を切り捨てた。……薄々察していたが、この侍女、何か様子がおかしい。

(占い師にでも見て貰うか。絶対に女難の相が出ている)

 寄りつく女にろくなのがいない。ウォルテールは遠い目で空を見上げた。



 ***


 季節は巡り、再び春が訪れた。ちょうどラダームがアジェンゼに殺害されてから一年あまりである。

 このところの皇帝のエウラリカに対する溺愛ぶりは目に余るほどだという。ウォルテールは配属が軍部であるために直接目にすることはないが、官僚である兄や近衛兵の知人から度々その話を聞いていた。

 曰く、皇帝はエウラリカを目に入れても痛くないほどに猫かわいがりし、望むものは全て買い与え、エウラリカの気分を害した人間はすべて容赦ない処罰に晒されるという。

 エウラリカが望めば皇帝は明日にでも皇位を退くだろう。城内では、そんな冗談が冗談でもなく言い交わされていた。


 ウォルテールは自身の執務室で机についたまま、ぼんやりとまとまらない思考を宙に浮かせていた。

 エウラリカを手なずけた者が帝国を手にする。あながち冗談でなくそう思っている人間がいるのは事実だった。とはいえ、エウラリカの遊び相手にさせられた経験のあるウォルテールからしてみれば、それはただの夢物語でしかない。

 そう易々とエウラリカを言いなりにできたら苦労しないのである。


(――エウラリカ様を手なずけた者が、帝国を手にする……か)

 ウォルテールはふと頬杖から顔を上げた。……今、エウラリカの最も近くにいるのは、誰だ?



 息を止めた瞬間、外で鋭い破壊音が響き、ウォルテールはびくりと肩を跳ね上げる。腰を上げて部屋を横切ると、ウォルテールは慌てて窓の外を見下ろした。

 三階にウォルテールの部屋を含むこの棟は中庭に面しており、主に軍部の事務的な側面を担う建物である。夜間ならいざ知らず、日中ならば多くの軍人や官僚たちが行き来する棟だ。その脇で、何やら騒動が起きていた。


 窓枠に手をついて首を伸ばしたウォルテールは、そこにいた少女の姿に息を飲む。

 透き通るような金色の髪を背に流して、少女は肩で息をしながら立っていた。肩幅以上に開かれて地面に突き立てられた両足は、意固地な態度を分かりやすく示している。その足下には砕けた陶器の欠片と土が散らばり、少女はそれを踏みにじるようにして一歩前に出る。

 何が起こっているのか分からず、ウォルテールは眉をひそめた。恐らくエウラリカが地面に叩きつけたのは植木鉢だろう。今更エウラリカが何を持ち歩いていても不思議ではない。が、割れ物を地面に投げつけるとは穏やかではない話だ。


「っ絶対に、いや!」

 エウラリカは歯を剥き出しにして叫ぶ。相対しているのは官僚の数人であり、彼らは苦々しい顔でエウラリカを眺めていた。

「絶対に嫌よ、あんな子を、城に入れるなんて……っ! やだっ!」

 癇癪を起こしたエウラリカは、閑静な城の一角で金切り声を上げる。誰も近寄ることが出来ず、事態は混迷を極めていた。ウォルテールは一瞬躊躇ってから、窓から離れて部屋を出る。


 階段を駆け下りて庭まで降りると、上からは見えなかった野次馬たちが中庭をぐるりと囲んでいた。中庭に面した一階は列柱に支えられて外と繋がった通路になっており、渦中と野次馬を隔てる壁は何もない。非常に悪趣味な構図だった。

 中庭の中央には小さな噴水が設置されており、地面は様々な色のタイルが並べられたモザイク模様になっている。普段ならば城で働く人間たちの憩いの場になっている中庭は、しかし今はまるで見世物の舞台のようだ。

 頭上から覆い被さる曇天の重苦しさも相まって、その場の空気は酷く凝り、張り詰めていた。


「エウラリカ様、駄々をこねている場合ではありません。ラダーム様亡き今、一刻も早くユイン様を城内へ――」

「――その名を、わたしの前で出すなっ!」

 エウラリカはそれまでの金切り声を更に鋭くして怒鳴った。柔らかな少女の輪郭はすっかり消え失せた。肩を怒らせて奥歯まで剥き出しにする姿は、ただの癇癪の域をとうに超えている。


 それは、狂気としか言いようのない有様だった。


「ふざけないで、そんなの、絶対に、許さない……っ」

 あまりの怒りに言葉さえも切れ切れだ。エウラリカは目をぎらつかせて官僚たちを睨みつける。官僚たちは一斉にたじろいだ。エウラリカの周囲には誰もおらず、諫める者はいない。官僚とエウラリカが正面から対峙する構図を止めることが出来る人間は、この場にいなかった。



(ユイン様、か……)

 ウォルテールは野次馬の最後列に立ったまま、腕を組む。話題に上がっている名には聞き覚えがあった。

 ――ユイン・クウェール。新ドルト帝国を治めるクウェール王朝の一人である。現皇帝の二人目の男児であり、体が弱いがために現在は遠く南の離宮で実母と共に生活しているという。とはいえ、それが適当な理由付けであるのは誰の目から見ても明確だった。


 聞く耳を持たないエウラリカに向かって、官僚は必死に語りかける。

「ラダーム様が亡くなった今、ユイン様も次期皇帝となる可能性が十二分にあるのです。ユイン様をこのまま『忘れられた第二王子』として軟禁しておく訳にはいきません。どうかお聞き分けくださいませ」

「嫌よ!」

 エウラリカは拳を握りしめて反駁する。官僚も負けじと声を荒げた。


「どうしてご自身の弟君のことを、そのように仰るのですか!」

「知らない女の胎から生まれた子どもなんて、弟じゃないわ!」


 エウラリカが叩きつけるように叫んだ直後、野次馬の人だかりがざわりと揺らいだ。始め、ウォルテールはそれを、エウラリカの言葉のせいだと思った。――否、そのとき、最もこの場に似つかわしくなく、最もこの場に必要な人が近づいてきていたのだ。


 ウォルテールは息を飲んで、空気が変わった原因を探るように首を巡らせる。

「……皇帝陛下、」

 誰かが呟いた。人混みの一部が分かれて道を作る。その隙間を通って現れた皇帝は、事態を探りかねたように眉をひそめた。


「おとうさま!」とエウラリカは体ごと振り返った。転げるように走り寄って、皇帝の胸に縋り付く。

「ねえ、おとうさま……あの子をここに呼ぶなんて、嘘よね? ね、嘘よね?」

 エウラリカの口調に、先程までの激情は見られなかった。いとけなく甘えるような仕草で、エウラリカは父に擦り寄った。皇帝はエウラリカの背に手を回して、その頭をゆっくりと撫でる。


「エウラリカ……。お前は、母親は欲しくないかい?」

「いらないわ」

 一顧だにせず答えたエウラリカに、皇帝は僅かに困った顔をした。

「わたしは、おとうさまがいればそれだけで良いの」

 エウラリカが囁く。皇帝は眦を下げて笑った。「そうか」と皇帝は微笑んで、頭ごとエウラリカを胸に抱いた。


「――おとうさま。あの人たちね、わたしに酷いことを言ったのよ」

 エウラリカは父の胸元に頬をつけたまま、唖然として立ち尽くす官僚たちを指し示す。皇帝は厳しい表情で官僚たちを見据えた。


「こ、皇帝陛下っ!」

 官僚の中でも最も年嵩の女が、意を決したように歩み出る。

「……恐れながら、申し上げます。ラダーム様がお隠れになった現在、陛下の後を継ぐのはエウラリカ様か、ユイン様のいずれかしかおりません。ユイン様を帝都へ迎え入れ、警備の体制を整えることは火急でございます」

 官僚の言葉に、皇帝は眦を下げた。官僚とエウラリカを見比べるそれは、全くもって困り果てた表情だった。官僚は地面に膝をついて、切実な表情で訴える。

「確かに、陛下の御代において、帝国は一層その力を増しました。並の小国ではもう太刀打ちできますまい、しかし、……私たちは西方にユレミア王国、南方に氏族の連合と相対しております」


 官僚は地面に手をつき、ほとんど額を地面に擦り付けるようにしながら述べた。

「彼らにとって、ユイン様は格好の餌となりましょう。命を狙われるだけではありません。もしもユイン様が他国の手に渡ったら? 私たちは多大な犠牲を払ってユイン様を奪還せねばなりません。あるいは、もしもユイン様が我々の知らないうちに、他国に丸め込まれていたら? 私たちは、他国の間者を自ら皇帝と仰ぎ、その座につけることになりかねない……! ユイン様を帝都の外へ放置しておくことの危険性は、ここでは挙げきれません、」

 タイルの敷き詰められた固い地面に手をついて、官僚が必死に叫ぶ。


「皇帝陛下、ご自分のお立場をお考えください! エウラリカ様だけが陛下の御子ではないのです。――エウラリカ様だけが、この帝国の民である訳ではない!」


 声を上げた官僚に続いて、他の官僚たちも一斉に膝をついて皇帝の前に伏した。口々に皇帝に英断を求める言葉が続く。

 それらの残響が遠くへ消えた頃、エウラリカが、すっと目を眇めた。その右手が、皇帝の腕に添えられる。


 雲が割れた。眩い陽の射す中庭の中央で、エウラリカは静かに微笑んでいた。


「おとうさま。わたし、この人たちのこと、嫌いだわ」

 息混じりに、それでいてその声と言葉はどこまでも明瞭だった。息もつけぬほどに張り詰め静まりかえった中庭の中で、エウラリカだけが自由だった。

「この人たちは、わたしたちの宮殿に必要ないと思うの」

 甘えるように皇帝を見上げて、エウラリカがにっこりと笑う。自分の発言の意味をまるで理解していないような口ぶりで、エウラリカは皇帝の腰に腕を回して抱きついた。


「ね、おとうさま?」



 翌々日、数人の官僚に対する辞令が出た。行き先は国境付近に置かれた支部や、属国及び植民地を管理する当局への出向。

 ――誰の目から見ても明らかな、左遷だった。


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