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 ウォルテールの目論見は外れて、外周三周を終えてもエウラリカはけろっとしていた。僅かに頬を紅潮させてはいるが、今にも倒れ込みそうに疲れ切った様子は全くない。思ったよりも体力があったらしい。

(……仕方ないか)

 内心でため息をつくと、ウォルテールは立てかけておいた木剣を取り上げた。一際短く軽いものを見繕ってある。それをエウラリカに手渡して、自身も木剣を構えた。

 ……取りあえず剣術『ごっこ』をやらせて、この我が儘お嬢を満足させれば良いのである。エウラリカの剣の持ち方にも思うところがあったが、特に指摘もせずにウォルテールは口を開いた。


「それでは様子を見ますから、その木剣で何度か打ち込んできてください」

「どこにでもいいの?」

「はい」

 エウラリカがどんな突飛な行動を起こそうが、対応できる自信はあった。エウラリカは「なるほど」と真剣な表情で頷く。それから一呼吸ののち、エウラリカはふと音もなく身を屈めた。応じて、ウォルテールは木剣を持ち上げる。

(適当に相手をしてやって、頃合いを見計らって負けたふりでもしてやれば良い)


 そんなことを考えながら木剣を構えかけたウォルテールは、次の瞬間、息を飲んで大きくのけぞっていた。



「う、わッ」

 身を低くしたまま、エウラリカは弾むように大きな二歩で距離を詰めてきた。流れるような動きで柄から手を滑らせ、片手の平で剣の尻を支え、そして一分の躊躇いすらなく――ウォルテールの首へ向かって、剣先を鋭く突きあげる。眼前に迫ったエウラリカの双眸が、じっとウォルテールを見据えた。一切の迷いのない動きだった。この王女は初手から、相手の首を狙ってきたのである。


 ざぁっと血の気が引く音が耳の奥で木霊した。息を詰め、ウォルテールは顔を歪める。

 エウラリカの木剣を優しく受け止めてやろうなどという計画は頭から消えた。ウォルテールは咄嗟に腰を反らし、渾身の力でエウラリカの剣を弾く。手加減をする余裕はなかった。



 周囲の音が戻ってきたところで、ウォルテールはゆっくりと剣を下ろした。

「いたたた……」

 気がつけば、目の前には尻餅をついて砂にまみれたエウラリカがいる。我に返って、ウォルテールは顔面蒼白になった。

「エウラリカ様!」

 ウォルテールは慌てて駆け寄り、エウラリカの顔を覗き込む。エウラリカは照れたみたいに笑って首を竦め、頭を掻いた。

「やっぱりウォルテールには適わないわね、えへへ」

「いや……」

 ウォルテールは何と言って良いものか分からず、曖昧に言葉を濁した。


 最初から首を狙ってくるのは、正直、完全に予想外だった。エウラリカがご所望なのは『楽しい剣術ごっこ』だと思っていたから、てっきり大上段に振りかぶった木剣を当てに来るものだとばかり考えていたのである。

(殺す気かよ……)

 思わず喉元に手を触れながら、ウォルテールは自身が弾き飛ばした木剣を拾いに行こうと首を巡らせた。カナンが先に拾っていたようで、砂のついた木剣を手で払いながら所在なさげに立ち尽くしている。


 ウォルテールはカナンに歩み寄り、声を潜めて問うた。

「カナン、エウラリカ様はいつも、こう……お遊びで命を狙ってくるのか?」

 遊びに付き合うつもりで首を取られては堪ったものではない。エウラリカは遊びにまで本気を出す質なのか。これでよくカナンが今まで生き残っているものである。

 カナンはあからさまに反応に困ったような顔をした。白々しく目を逸らして「常人には理解しがたい人ですから」と呟く。エウラリカが気狂いであるのは今更な話だったので、ウォルテールもそれ以上突っ込みはしなかった。


 カナンとウォルテールが顔を突き合わせているところに、エウラリカがひょこりと首を挟む。カナンが音もなく身を引いた。

「何の話をしているの?」

「エウラリカ様がお強いので驚いていたところですよ」

「ウォルテールの方がずっと強いわ」

 エウラリカは変な謙虚さを見せて、にこにこと笑っていた。先程ウォルテールの首元にひたと視線を据え、迷いなく剣を振るったあの姿とは似ても似つかない。まるで別人のようだった。


 ぞくりとウォルテールの背筋に悪寒が走る。ふと思い出したのは、跪くカナンの顔面を蹴り抜いたエウラリカの姿である。人の顔を蹴るという行為には、本来、相当の心理的抵抗を感じるものである。軍人であるウォルテールとて、今まで誰かの顔を蹴ったことなど経験がない。

 普段の姿の裏に隠された、エウラリカの凶暴性が垣間見えた気がした。他者を傷つけることを厭わない、そうした思考回路である。およそ常人のものとは思えなかった。

(俺は、エウラリカ様に剣を教えて良いのか?)

 恐らく、エウラリカの遊び気分はどこまで行っても抜けない。ウォルテールにはこの少女を教育しきる自信がなかった。剣を覚えたエウラリカは何をするか分からない。……そんな少女に、剣術を教えるのはあまりに危険すぎるのではないか?


 一抹の不安がウォルテールの胸をよぎった直後、エウラリカは「あーあ」と大きな独り言を漏らした。独り言の体を取ってはいるが、周囲の人間全員に向けられた呼びかけである。そうした傲慢さがエウラリカの特徴の一つだった。

「でも、ちっとも楽しくなかったわ! ウォルテールのばかっ!」

 ふて腐れたようにエウラリカが頬を膨らませる。ウォルテールは弱り切った表情を作りながら、内心しめたと拳を握った。このままエウラリカが興味を失って帰ってくれれば万々歳である。



「わたし向こうで休んでる!」とエウラリカは不機嫌さをこれ見よがしに表した足取りで、木陰へと歩いて行く。その道すがらに立ち止まり、エウラリカがカナンに向かって何事か言った。少しして、カナンは嫌そうに顔をしかめてウォルテールを振り返る。

「どうした?」

 ウォルテールが声をかけると、カナンは心底不満げに口を開いた。

「……暇なら、僕が代わりに相手をしろと」

 カナンはエウラリカが取り落とした木剣を見下ろして呟く。ウォルテールは一瞬眉を上げ、それから「良いぞ」と頷いた。

「あまり体を動かす機会もないだろう、……その身分では」

「そうですね」

 カナンは目を逸らして頷いた。ジェスタで王子として生活していた頃なら余暇に運動も出来ただろうが、この帝都に奴隷のための運動場があるとも思えない。運動らしい運動と言えば、エウラリカにこき使われて城内を駆けずり回っているくらいだ。やはり、どうにもカナンの体躯は同年代の少年に比べて貧弱に見えた。


 ウォルテールはカナンを上から下まで眺め回してから、「よし」と頷く。木剣を掲げ手招きをすると、カナンはおずおずと木陰から歩み出た。両手でしっかりと鞘を握り、真っ直ぐに見据えてくる眼差しを見て、ウォルテールは少しだけ意外に思った。

「剣を習ったことは?」

「ありません」

「そうか」

 それにしては随分と鋭い目つきだった。思えば、カナンはちょくちょくこうした目をしていた。



 カナンが木剣を振り上げて距離を詰めてくるのを難なくいなして、ウォルテールは小さく頷いた。初心者というのは間違いではないらしい。エウラリカみたいにいきなり首を狙ってくることもなく、ごくごく穏当な手合わせと言えた。

 振り下ろされる木剣を受け止めると、カナンの目が間近に迫っていた。驚くほどに凪いだ眼差しに、ウォルテールは思わず唾を飲む。

(……化けるだろうか?)

 拙い手つきや足捌きだけでは、カナンにどの程度適性があるのか分からない。しかし、この目は……。

(俺には、こんな目は出来ない)

 初めてこの少年を見たときからそうだった。歯を剥き出しにし、外敵への憎悪をありありと表した鋭い視線。暗い色をした瞳は、どこまでも底が沈んでゆくようだった。


 数合ののちに木剣を下ろすと、カナンは音もなく退いた。ふと心細げな表情になってウォルテールを窺ったカナンは、躊躇いがちに口を開く。

「……どうですか?」

「正直分からんな」

 ウォルテールがあっさりと答えると、カナンは無言で頷いたが、少し尖らせた唇には不満が見えた。その表情にちょっと笑って、ウォルテールはカナンの顔を覗き込む。


「カナン。お前は剣を覚えたいのか?」

 正面から問うと、カナンはしばしの間、途方に暮れたみたいな顔をした。それから、ゆっくりと頷く。顔を上げたカナンの表情に迷いはなく、ぐっと引き結んだ唇からは意地にも似た決意が見えた。

「何故だ? 理由がなくとも剣は振るえるが、目的なくして振るう剣は酷く空虚だぞ」

 薫陶ぶって告げる言葉に、ウォルテールは内心苦笑した。エウラリカの我が儘でジェスタに進軍した際、どれだけ剣を抜くのが嫌だったことか。目的もないのに剣を誰かに向けるときの、あのやるせなさをカナンには背負わせたくないだけだった。自分の我が儘じゃないか。


 カナンは真っ直ぐにウォルテールを見上げてから、ふっと視線だけを後ろにやった。その目の先には、木陰で退屈そうにしゃがみ込んでいるエウラリカがいる。

 エウラリカは膝を抱えて地面をじっと見つめていた。長い金髪はいつの間にか解かれ、細く薄い背を滝のように流れ落ちている。丸みを帯びた頬には幼い少女の片鱗が幾分か残るものの、既にエウラリカは若い娘の範疇に入れても良いような年頃だった。

 十六歳。王族ならば結婚していてもおかしくなかった。王族でなければ、既に手に職を持っている者が大半の年齢だ。そんな十六歳の体を持った少女は、地面を歩く毛虫を小枝でつついては虐めて遊んでいた。


(何やってんだ)

 露わになっている膝に顎を置いて、小枝の先をつんつんと毛虫の体に突き立てる。全くもって幼子の児戯である。呆れ果ててため息をついたウォルテールの目の前で、カナンが静かに告げた。


「――僕は、守りたいんです」


 その視線はエウラリカにひたと据えられていた。少年の横顔を見つめて、ウォルテールは息を飲む。

 ……何を、とは、訊かなかった。訊けなかった、というのが適切だろうか。

 愛とも憎ともつかない強い感情を滲ませて、カナンはエウラリカを見据えていた。エウラリカはそんな視線などまるで気づく様子もなく、相変わらず毛虫を小枝で弄んでいる。


 秋めいた風を頬に受けながら、カナンは囁くように呟いた。

「今、あの人の周囲には、誰もいないんです」

「……だから自分で剣を取ろうと?」

「はい」

 ほつれた黒髪がカナンの鼻先をくすぐる。激情にも似た熱を渦巻かせていた双眸は鎮まり、今は何やら、深い危惧を示したような目をしていた。とてもじゃないが幼い少年がするような目じゃない。ウォルテールは宥めるように声を和らげて、カナンの肩に手を置いた。

「カナン。王族を初めとした帝国民を守るのは、俺たち軍人の仕事なんだ。お前が気にすることじゃない」

「でも第一王子は殺されました」

 カナンはにべもなく応えた。図らずもエウラリカと全く同じ言い分である。


 多少背が伸びたとはいえ、カナンは未だに小柄な少年のままだった。その薄い肩に手を置いたまま、ウォルテールは答えに窮して眉をひそめる。

「カナン……」

「もしまた同じような事態になったとき、立ちはだかることが出来るのは僕しかいないんです。――守れるのは僕しかいない」

 酷く思い詰めたような表情に、ウォルテールは思わず眦を下げた。ラダーム暗殺の件は、この少年の心に深い傷を残したらしい。無理もない、と思った。同じ宮殿の中で一人の人間が殺されたのだ。


 哀れみと妙な愛おしさが湧いて、ウォルテールはそっとカナンの頭を撫でた。弟とちょうど同い年の少年は、驚いたように目を見開いた後、首を竦めて大人しく手を受け入れた。

「ウォルテール将軍。……僕に、剣を教えてください」

 強い意志の籠もった目を受け止めて、ウォルテールは小さく微笑む。

「分かった。新兵の訓練に参加できるように取り計らっておこう」

「ありがとうございます」

 少し顔を明るくして礼を言ったカナンを見てから、ウォルテールは木陰のエウラリカに視線を移した。


 エウラリカはついに小枝で毛虫を貫き、息絶えた茶色の塊を無言で眺めていた。冷え切った眼差しは毛虫に一欠片ほどの憐憫も抱いていないことを窺わせた。エウラリカの口元が不快そうに歪む。直後、少女はぽいと枝を毛虫ごと茂みに投げ捨てた。顔を上げてウォルテールと目が合うと、エウラリカはにっこりと、心底楽しそうに無邪気な笑顔を浮かべてみせた。


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