覗き見と木剣 1
ラダーム暗殺の動揺に収束が見えてきたのは、事件から半年ほどが過ぎた頃だった。城内の勢力図は大きく書き換わり、混乱が起きているところはまだ色々あるらしい。……が、権力からなるべく離れているウォルテールには関係のない話である。
最近はウォルテールの周囲も穏やかで、もっぱらの懸念と言えば――背後から突き刺さる、この視線である。
(めちゃくちゃ見られている)
ウォルテールは厳格な表情を崩さないまま、内心でぼやいた。背中にビシバシと刺さって離れないこの視線は、恐らく一人分のものだろう。意を決して振り返る。ヒュッと物陰に頭が隠れるのを見た。やっぱりいる。
(……陰から覗くくらいなら普通に話しかけて良いんだが)
ウォルテールはため息をついて、踵を返して歩き出す。柱に隠れていた人影が慌てたように身じろぎする。
「――失礼、」
「うぉ、ウォルテール将軍閣下……!」
柱に手を当てて後ろを覗き込むと、真っ青な顔で目を回している侍女がいた。
見覚えのある顔である。アジェンゼ逮捕の一因となった証言者の侍女で、……ラダームに憧れるあまり、その部屋を毎日ずっと見張っていたという、とんでもない恋する乙女だ。比較的というか、相当に常軌を逸している。ウォルテールは額を押さえながら、言葉に困って目を逸らした。
「その、えーと……久しぶりだな。……アニナ、だったか?」
「名前!? あ、いや、わ、わたわたわたわたし、ただ、その……!」
「そう焦るな、咎めている訳ではないんだ」
アニナが逃亡しようとするのを引き留めて、ウォルテールは首を傾げる。
「何か用があるんだろう?」
「よ、用! でございますか……!?」
(ないのか……!?)
アニナはあからさまに狼狽え、腰が引けた状態でウォルテールを見上げてくる。青かった顔はいつの間にか赤くなり、かと思ったらまた顔色が悪くなったりと大忙しである。
「えっと、えっとですね、そうだ……お礼をしに参ったんです」
彼女はぽんと手を打って、それから毅然とした表情で告げる。
「私が申し上げることではないのは重々承知の上ですが、それでも……ラダーム様の件がいち早く終結したのは閣下のおかげです。本当にありがとうございました。感謝してもしきれません」
流れるような所作で、アニナが礼をした。その動きだけで、この侍女がよく躾られた名家の出であることが知れる。とはいえ相当危ない一面を知っている身からすれば、焼け石に水だが。
遠い目をしながら、ウォルテールは頭を振った。
「いや、俺はただ職務を果たしただけに過ぎない。特別な礼を受ける義理はないだろう」
「それでも、でございます」
アニナが目を細めて微笑む。波打つ栗毛が一房、頬に落ちた。
「貴重なお時間を頂いて申し訳ございません。それでは、私はこの辺りで失礼させていただきます」
そう言って、彼女は素早く、逃げるようにその場を立ち去った。
(これで用が済んだのか?)
ウォルテールは首を捻りつつ、この再会を特に気に留めることもなく流したのだった。
そんなやり取りがあってから数日が経った頃である。
城内を歩く兄の姿を見つけたウォルテールは、兄の肩に手を置きながら声をかけた。
「お久しぶりです、兄上。最近あまり見かけなかったのでどうしておられるかと思っていましたが」
「ああ……ロウダン。お前は元気そうで何よりだよ」
げっそりと疲れ切った表情でルージェンが振り返る。官僚である兄は、どうやら様々な混乱に巻き込まれて忙しくしているようだった。
「まだ色々と片付きませんか」
「あともう少しってくらいだな。うちの省庁の次官がアジェンゼ元大臣の横領に加担していたみたいで、そのせいで今までの書類を全部検める羽目になって」
「それはそれは……お疲れ様です」
ウォルテールは苦笑して、ルージェンと並んで歩き出した。ルージェンはふと思い出したようにウォルテールを振り返り、「そういえば、」と微笑む。
「お手柄だったな、ロウダン。お前がその日のうちに大臣を捕らえたと聞いたときは何の冗談かと思ったぞ」
「俺自身、思い返しても嘘みたいな気分です。偶然が重なった結果ですよ」
ウォルテールは肩を竦め、小さくため息をつく。ルージェンは声を上げて笑った。
「まあ、そういうことにしてやろうか。賛辞はもう聞き飽きただろう?」
ウォルテールは苦笑して、曖昧に頷いた。兄は弟の背を叩いて、力強く微笑む。
「ともかく、お前はよくやったってことだ。俺はお前を誇りに思うよ」
「ありがとうございます、兄上」
そう言って頭を掻いた、直後。
(……ん!?)
視界の隅に、ちらと侍女の姿が見えた。目を疑って振り返る。ヒュンとその姿が角の向こうに隠れた。
「それにしても、お前のおかげで俺は友人を一人失ったよ」
兄が冗談めかして何やら言っている言葉を聞き流して、ウォルテールは背後を伺う。見覚えのある侍女が見えたのは気のせいだったか……?
「まさかデルギナが横領に関与していただなんて、つゆほども考えなかった。まったく、誰が悪いことをしているか分からないものだな」
ずっと見ていると、徐々に侍女の頭が角から出てくる。はっきりと目が合った。アニナは顔を引きつらせた。
ルージェンは「そろそろ戻らなくては」と時計台を見上げ、片手を挙げる。ウォルテールは視線を兄に向けて頷くが、気持ちはそれどころではなかった。
(気配がする……!)
背中にはビシビシと視線が刺さっていた。笑顔でルージェンを見送ってから、ウォルテールはがばりと振り返る。……侍女の姿は既になかった。
***
そんなようなことが数度繰り返された。アニナはいつの間にかウォルテールの背後を取り、しかし何をするでもなく、話しかけてくるでもなくただ見つめてくる。
(あの侍女、斥候か狙撃手の才能がありそうだな)
今日も背後を取られたまま、ウォルテールは新たに入ってきた少年兵たちを眺めていた。当然のように、武器庫の影からは侍女がじっとこちらを見つめている。話しかけようとしても大抵逃げられるので、ウォルテールはそろそろ諦め気味だった。
(まあ……そのうちとっ捕まえて事情聴取した方が良いだろうが)
侍女が生活に侵食……しはしないが、何となく気配がつきまとうのにも慣れてきたそんな頃、ウォルテールの生活に比較的大きめの爆弾が落とされた。
「こんにちは、ウォルテール! わたしに剣を教えてちょうだい!」
汗臭さと荒々しさが立ちこめる訓練所に、突如として似つかわしくない人影が現れた。その違和感といったら凄まじかった。それまであちらこちらで打ち合いをしていた兵は皆して手を止め、ぽかんとしてこちらを見つめている。
ウォルテールの隣に立って、エウラリカは機嫌よさげににこにことしていた。いつもは裾がたっぷりとした古式の衣装を身に纏っているというのに、今日は随分と気合い十分らしい。まるで少年のような格好をして、長い髪を高い位置でくくっている。
「……エウラリカ様、ご自分が何を仰っているのかお分かりですか?」
どう言いくるめようかと迷いながら口を開くと、エウラリカは「お分かりですわよ!」と目を輝かせた。たまたま近くを通りかかっていた少年兵が、ぽかんとその姿に目を奪われていた。直後、自分の足に砥石を落として悶絶したりなどしている。
エウラリカは胸の前で両手をいじいじと絡ませながら、唇を尖らせて甘えるように喋る。
「この間、お兄様がアジェンゼに殺されたでしょ? それで怖いなーって思って……。だからね、わたしも戦えるようになりたいの!」
「ご自身で剣を取らずとも、エウラリカ様をお守りするのが我々の使命ですよ」
「でもお兄様は殺されたわ」
エウラリカは淀みなくウォルテールの反駁を叩き落とした。ラダームをみすみす殺されてしまったのは軍部にとっても大きな失態である。そこを突かれてしまうと、ウォルテールは黙らざるを得なかった。
「……エウラリカ様が何か怪我でもしようものなら、我々が皇帝陛下に怒られてしまいます」
「おとうさまには許可を取ったわ!」
エウラリカはもうどんな反論も受け付ける気がないらしい。壁に立てかけてある剣を、目を輝かせて見つめている。
剣とは武器である。大抵の場合、人間を切るために作られた刃物だ。そこらの箱入り娘の酔狂で手を出せるような代物ではない。……が、そんな説明がエウラリカに通用するとも思えない。
(……どうせすぐ飽きる。それまで少し遊びの相手をしてやれということか)
皇帝とて、本気でエウラリカが剣士になることなど想定していないだろう。これはただの子どもの思いつきである。適当に相手をすれば満足するはずだ。
(他の連中には任せられないしな……俺が自分で相手をするしかないのか?)
とんでもないことになったものだ。ウォルテールはこっそりため息をつくと、立ち上がった。エウラリカがぱっと顔を輝かせる。その背後では、カナンが驚いたようにウォルテールを見上げている。まさか乗るとは、と言わんばかりの顔である。
ウォルテールはいかにも厳格そうな顔を作って、重々しく口を開く。
「それでは、まずは準備運動から始めましょうか。あそこの訓練所の端で体を慣ら」
「あそこね? 分かったわ!」
ウォルテールが言い終わるよりも早く、エウラリカは大きく頷くとパタパタと走り出してしまった。カナンが「あっ」と声を漏らして、慌てたように駆け出す。泡を食ってエウラリカを追いかけるカナンを見送って、ウォルテールは少しだけ笑った。
(……木剣なら安全か?)
自分の分も入れて、ウォルテールは二本の軽い木剣を見繕うと、先に走っていった二人を追った。
「決めたわ! わたし、ここではウォルテールのことを『師匠』って呼ぶの!」
「また変な思いつきを……」
ウォルテールは眉をひそめたが、エウラリカは胸の前で拳を握り、わくわくと目を輝かせた。周囲の兵たちは、完全に訓練の手を止めてエウラリカに見入ってしまっている。
エウラリカとカナンが並んで屈伸運動をしているのを眺めながら、ウォルテールは再びため息をついた。
(何でこんなことに……)
皇帝の許可が下りているとはいえ、エウラリカにはかすり傷ひとつ負わせるわけにもいかない。常に注意して見ておかなくてはならないだろう。万が一エウラリカが骨でも折ろうものなら、次に折れるのは自分の首だ。
「師匠! 言われたことは全部終わらせたわ!」
少し息を弾ませて、エウラリカが駆け寄ってくる。ウォルテールは厳めしく頷いて、訓練所の外周を示した。
「この周りを、そうだな……三周してきてください」
「分かったわ!」
外周を三周もすれば、疲れて嫌になるはずだ。そんなウォルテールの目論見もつゆ知らず、エウラリカはカナンを引き連れて意気揚々と外周を走っていった。
夏はラダーム暗殺とアジェンゼの尻拭いでドタバタしている間に過ぎ去ってしまい、今は既に秋の入り口である。残暑は少し厳しいものの、真夏のような酷暑ではない。
(秋で良かったな)
エウラリカが真夏に思い立ってしまっていたら、ますます気が気でないところだった。秋ともなれば、流石に暑さで倒れることはなかなかないだろう。
訓練所の向こう側を、エウラリカとカナンがせっせと走っている。いつの間にかカナンはだいぶ身長が伸びたようで、エウラリカと比べると既に頭半分ほど抜けている。カナンは常にエウラリカの半歩ほど後ろをぴたりとつけていた。エウラリカは気づいていないのだろうが、カナンは明らかに手を抜いて走っている。
(エウラリカ様に合わせてるのか)
ウォルテールは訓練所の隅に立ったまま、走ってくる二人を眺めた。
エウラリカは存外綺麗な走り方をしていた。すっと伸びた背筋はほとんどぶれることなく、揺れているのは高い位置で括った髪ばかりである。カナンもそこそこきちんとした走りをしている。
(王族ってのは、走り方まで綺麗なもんなのか? 血統ってすごいんだな)
馬鹿みたいなことを考えながら、ウォルテールは近づいてくる二人に『あと二周』と声をかけようとした。
エウラリカは肩越しに振り返る。カナンは渋い顔をした。
「――と思うの」
「嫌ですよ、何で僕がそんなことしなきゃなんですか」
「あはは」
「笑い事じゃないですって」
エウラリカが長い金髪をなびかせながら、声を上げて笑う。そのほぼ隣を走りながら、カナンがこれ見よがしにため息をついた。随分と気安げな軽口の応酬である。
(いつの間に仲良くなったんだ?)
ウォルテールの知るカナンは、エウラリカ及び帝国に対する憎悪を露わにする苛烈な少年である。口数も少なく、常にエウラリカの背後に立って影のように佇み、周囲を睥睨している少年だ。常に困ったような、不本意そうな顔をしていて、エウラリカにこき使われては城内を奔走する少年。腹の底が読めないような、やや謎めいた奴隷だった。
(一年半も一緒にいれば、それなりに情も湧くか)
ウォルテールは首を傾げながら、ぎこちなく合点した。カナンとエウラリカは年も近いし、まあ……そんなこともあるのだろう。仲が良いに越したことはない。
目の前を通った二人に、ウォルテールは声をかけた。
「あと二周です」
「はーい!」
エウラリカは元気よく頷いて、カナンを振り返る。
「まだ走れる?」
「僕はまだ余裕ですよ」
「ふーん」
エウラリカとカナンは、そんな軽口を叩きながら走り去った。ウォルテールはその様子を驚きつつも概ね好意的に見送って、それから視線をふと他の兵に向けた。どいつもこいつも、珍しい二人に目を奪われて、だらりと剣を下げたまま見物に回っている。全く訓練になっていない。
ウォルテールは一瞬渋い顔をすると、訓練所に雷を落とした。
「自分の訓練に集中できない奴は外周十周してこい!」
思い当たる節のある兵たちは、一斉に情けない悲鳴を上げた。
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