斜陽
ラダームが殺害されてから、数日が経った。ラダームの遺体が彼の私室から運び出されるのを見送ったのち、ウォルテールは部屋の中で立ち尽くしていた。ラダームの墓をどうするかという件に関して、担当者は目を回しているらしい。しばらくは冷暗所に遺体が保管されるという。
(……大臣が処刑されるのとラダーム様が墓に納められるのは、どちらが先だろうか)
あまり口に出しては言えないようなことを考えながら、ウォルテールは事の顛末について考えていた。
(アジェンゼ大臣は処刑が決定している。横領に加担していた人間も全員更迭だ)
王族、それも次期皇帝と目されていた第一王子が殺害されるという前代未聞の事件も、もうじき一旦の区切りがつきそうだった。
ラダームの殺害が発覚したその日の内にアジェンゼを捕縛したことによって、ウォルテールは一躍、時の人となりつつあった。とはいえこれは喜ぶようなことではないし、第一、別に自分は名探偵でも何でもない。
人気のない、冷え切ったラダームの部屋を、ウォルテールはゆっくりと歩き回った。汚れた絨毯の中央は避けて、部屋を見回す。誰が開けたのか、カーテンが一つだけ束ねられ、そこから夕陽が足下に射し込んでいた。斜陽から目を逸らしながら、ウォルテールは開け放たれたままの奥の扉へ歩み寄る。
(……元はと言えば、どうして俺はアジェンゼ大臣にたどり着いたのだったか)
あの、慌ただしい一日のことを思い返した。誰よりも早く自分がアジェンゼの名前を思い浮かべたのは、一体どうしてだ?
扉の先はどうやら寝室のようだった。首を伸ばして中を覗くと、大きな寝台が部屋の中央に据えられている。現場の保存を命じていたからか、シーツなどが替えられた気配はない。
ウォルテールはふと、息を止めた。
(……カナンが、俺に話しかけてきたときだ)
カナンの証言が、側への尋問の間接的な呼び水となったと言っても過言ではないだろう。側近が夜に城を出て行くのを目撃した、とカナンは言っていた。そして彼は告げたのだ。昨日のことは内密に、と。
『ね、アジェンゼ。お願い。お兄さまを叱ってあげて?』
『できるでしょ? ねえ、だめ? わたしがお願いしてるのよ』
『――そうしたら、わたし、きちんとおとうさまに言うわ、あのこと』
ウォルテールはその場に立ち竦んだ。耳の底でごうごうと血が流れた。……まさか。そんな言葉が動機となり得るはずがない。
(『あのこと』とは何だ?)
アジェンゼがラダームを殺したのは横領が発覚したからだ。それが城内で一般的に言われている結論だった。考えても、そこにエウラリカが関与する余地はないように思われた。けれど……本当に、そこに、エウラリカは関係ないのか?
本当に、この件は、ただ横領が発覚した大臣が王子を殺害しただけの話なのだろうか?
夕陽が細く射し込む寝台の上で、何かが一筋、きらりと僅かに光った。ウォルテールは怪訝に眉をひそめ、寝室に足を踏み入れて手を伸ばす。寝台の中央を覗き込む。――細く長い金髪が、ラダームの寝台の上に落ちている。
それを視認した瞬間、背筋にぞっと悪寒が走った。
「――こんにちは、ウォルテール。こんなところで何をしているの?」
刹那、唐突に背後から声をかけられ、ウォルテールは思わず血相を変えて振り返った。どくどくと心臓の音がうるさかった。何の気配も足音もなしに、いつの間にか背後に立たれていた。そこにいたのは静かな微笑みを湛えた少女だった。
寝室へ続く扉の枠に肩をもたせかけて、少女は小さく首を傾げる。長い金髪が、さらりとその頬を撫でた。
「エウラリカ様、」
ウォルテールがその名を呼ぶと、エウラリカは「どうしたの?」と目元を緩める。ウォルテールは寝台を背で隠すように立ち位置を僅かに変えながら、エウラリカを見た。何を言えば良いか分からず、声が喉でつっかえた。
エウラリカはいつもの開けっぴろげな笑顔を隠していた。兄が死んでまだ日も浅い。あまり笑う気になれないのは分かる。
ウォルテールは口が渇くのを自覚した。何とか唾を飲み下し、躊躇いがちに問う。
「……エウラリカ様は、ラダーム様のことがお好きでしたか? 仲はよろしかったですか?」
「好きか嫌いで言ったら、そうね、きっと好きだったわ。だって家族ってそういうものなんでしょう?」
その頬に浮かぶのは、つかみどころのない微笑みだった。
「……でもきっと、仲は良くなかったのね。だってお兄さまはわたしのことがお嫌いだったもの」
淀みなくエウラリカは答える。口元は笑みを形作っているのに、その口ぶりにはまるで感情がこもっていない。違和感を抱く。……まるで、決めていた言葉を口から出しているだけみたいだ。果たして、エウラリカは本心を語っているのだろうか?
橙色の光が、その頬を柔らかく照らし出していた。エウラリカはふいと目線を動かして、扉の枠に触れさせていた肩を離す。この場を立ち去ろうとするかのような仕草に、ウォルテールは思わず声をかけていた。
「エウラリカ様。……このお部屋に入ったことは、今までにも?」
「いいえ。これが初めて」
「そうですか。――それでは、この髪の毛は誰か別の人間のものか……」
寝台の上から長い金髪をつまみ上げて独りごちる。呟いた瞬間、エウラリカが唇をきゅっと引き結んだ。踊るような足取りでウォルテールに向き直り、その視線がひたと据えられる。
「ねえ、ウォルテール。好奇心は猫をも殺すわ」
エウラリカが大きく一歩踏み出し、ウォルテールの指先から髪を取り上げた。それを手の平に握り込みながら、王女はいかにも純真無垢な微笑みで彼を見上げる。
「ウォルテールには、家族はいる?」
「……はい。両親と、兄が二人、妹と弟が一人ずつ」
「きょうだいがたくさんいるのね、素敵だわ」
距離を詰めてきたエウラリカから逃げるように、ウォルテールは一歩下がった。足に寝台が触れる。これ以上は下がれまい。
「じゃあひとつ訊いてもいいかしら?」
腰の後ろに両手を回し、小首を傾げたまま、エウラリカは青い瞳で真っ直ぐにウォルテールを見上げる。ウォルテールは得体の知れぬ恐れに身動きできないまま、無言で応えない。それを肯定としたらしい。エウラリカがにこりと微笑む。
「――家族に恋情を抱くことは、罪だと思う?」
ウォルテールは大きく息を飲んだ。その言葉が言わんとすることを思い浮かべ、目を見開く。ごくりと唾を飲んだ。エウラリカは静かな眼差しでウォルテールの返答を待っている。
「……そ、れは、……許されないことなのではないかと、」
「わたしもそう思うわ」
恐る恐る答えると、エウラリカは項垂れるみたいに頷いた。エウラリカがふと一歩離れ、その表情が困り果てたように曇る。
「それなら、家族に恋をした人間と、それに応じた人間とは、どちらの方が罪深いのかしら……」
開いた距離に冷たい空気が流れたかのようだった。ウォルテールはエウラリカの言葉が暗に意味しようとしていることを探ろうとして、言葉が喉でつっかえる。
エウラリカの双眸が謎めいた光を宿した。その奥に僅かな苦みが混ざった気がした。
「――じゃあ、血が繋がっていなければ、誰を愛しても良いのよね? 誰に恋をしても良いのよね? きっとそのはずだわ。……たとえ、そう、……少しくらい年が離れていたって」
そんな言葉を残して、エウラリカは寝室から出て行こうとする。ウォルテールが呼び止めようと手を伸ばしかけると、彼女は一度だけ振り返った。
その人差し指が、淡い紅色の唇の前で静かに立てられる。
「世の中には公にする必要のないこともあるのよ、ウォルテール。どうか無粋なことはしないでね」
囁くようにそう言って、エウラリカは音もなく部屋を出て行った。ひとり取り残されたウォルテールは、体の末端が冷えて痺れるような感覚に襲われたまま、声を失って立ち尽くしていた。
陽は傾き、もうじき部屋の中は宵闇に落ちようとしていた。部屋が隅からじわりじわりと黒く染め上げられてゆく。暗闇が足を覆う。それを目の当たりにしてもなお、ウォルテールは動けないままだった。
(この、件は、……男二人の話ではなくて、)
男の一人は殺され、もう一人はもうじき処刑される。それで終いのように思われた。役者は全て死んで、芝居は跳ねた。悪を裁こうとした正義の男が殺害された悲劇は、因果が巡ってその下手人が裁かれる、そんな結末で幕を下ろそうとしている。
(……一人の女と、二人の男の話だったのだろうか)
少女は静かに笑うだけ。素知らぬ顔で、ただ、微笑むだけのことである。まさかこの悲劇に彼女が関与しているなど、誰にも知られぬままに。
ウォルテールは床から引き剥がすように足を動かしながら、エウラリカの歩き去った方を見やった。
(――傾国とは、あれのことを言うのだ)
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