3
アジェンゼは既に帰宅した後だった。彼の屋敷は帝都の中心部から僅かに離れた住宅地にある。ウォルテールは兵を引き連れてアジェンゼ邸を訪ねた。
「ロウダン・ウォルテールだ。宵の口に前触れもなく訪問する無作法をお許し頂きたい」
「ウォルテール……将軍閣下でいらっしゃいますね?」
「ああ」
玄関に出てきて応対をしているのは、恐らく家令だろう。初老の男は、何の用件なのか全く見当も付かない様子で、少しだけ目を丸くしている。家令は怪訝そうにしつつも、慇懃な態度は崩さなかった。
「どうぞ、お入りください。主人に用でしょうか?」
「はい」
「かしこまりました」
家令は応接間にウォルテールを案内しながら、通りかかった侍女に小声で何か伝える。侍女は頷いて、足早に階段を上がっていった。アジェンゼを呼びに行ったのだろう。
家令は終始穏やかな調子で、ウォルテール一行を迎え入れた。とはいえ、前触れもなしに軍部の人間が屋敷を訪れたことにやや緊張している様子は見て取れる。
「一体、どのようなご用件で?」
「それは、大臣に直接伝えようと思っている」
「大変失礼致しました。アジェンゼが来るまで少々こちらでお待ちください」
家令は流れるような動きで礼をすると、部屋の隅から茶器を持ってくる。
「ご満足頂けるか分かりませんが、ぜひ晩餐の用意をさせて頂きたく存じます」
「えっ?」
「いや、その必要はない。用が済んだらすぐに帰ろうと思っている」
背後で目を輝かせたデルトを遮り、ウォルテールはにべもなく首を振った。「承知しました」と家令は気にする様子もなく頷く。
(ラダーム様が殺害された件に関しては、城外にはまだあまり知られていない。もちろん城内の人間なら誰もが知っていることだ、既に漏れているとは思うが……)
家令の様子からして、この屋敷の中ではまだ情報は流れていないようだ。もし知っていれば、このタイミングで軍が動いている意味が分かるはずだろう。
……と、そこで、先程の侍女が顔を出した。赤い癖毛を括った、まだ若い少女である。随分と困ったような表情で、家令に囁く。
「すみません、ご主人様からお返事がなく……」
「……私からもう一度お伺いしよう」
家令は僅かに眉をひそめて頷いた。それからウォルテールを振り返り、「もう少々お待ちください」と慇懃に頭を下げる。
応接間を出て行った家令を見送って、デルトの一人が「残念だなぁ」と唇を尖らせた。
「何がだ」
振り返ると、デルトは目を輝かせて拳を握る。
「アジェンゼ邸といえば、結構頻繁に夜会が催されることで有名じゃないですか。最近で言えば、こないだの年末にも開かれたとかって。数年前に俺の友人の従兄が参加したとかで、料理がめちゃくちゃ美味しいって言ってたんですよ!」
「この期に及んで食い意地を張る馬鹿がいるか」
「……申し訳ございません、不謹慎でした」
項垂れたデルトに鼻を鳴らして、ウォルテールは腕を組んだ。
――それにしたって、
(返事が、ない?)
ウォルテールは眉をひそめ、家令が出て行った扉を見やる。……アジェンゼを逃がす訳にはいかないのである。
扉を睨みつけて少しした頃、家令は困り果てたような表情で戻ってきた。
「申し訳ございません、ウォルテール閣下。……アジェンゼは今、誰ともお会いしないと申していまして、」
「……理由は?」
「それは……。ただいま伺って参ります」
「それなら俺も行こう」
ウォルテールは反論を許さない態度で立ち上がる。家令は「それは、」と渋るような様子を見せた。ウォルテールは一瞬だけ躊躇ったが、表情を緩めることなく家令に迫る。
「大臣の部屋は、どちらに?」
「……ご案内致します」
家令は押し負けたように目を伏せ、恭しい仕草でウォルテールを促して歩き出した。
導かれた部屋の扉の前に立って、ウォルテールは少し息を吐いた。兵を引き連れて屋敷の中を堂々と闊歩したせいで、随分と人目を引いてしまった。通りがかった使用人たちは、作業の手を止めて野次馬に興じている。
「……こんばんは、アジェンゼ大臣。ロウダン・ウォルテールと申します。ひとつお伺いしたいことがあって訪問させて頂きました」
ウォルテールは抑えた声で扉に語りかける。向こうではあからさまに動揺したような物音がする。それから足音が近づき、アジェンゼの声がした。
「帰ってくれ。私は誰にも会わないと言ったはずだ」
「いいえ、そうはいきません」
ウォルテールは身を屈め、扉に口を寄せて囁く。
「大臣。あなたが昨晩ラダーム様に呼ばれたという話は、既に聞き及んでおります」
「どうしてそれを……っ!」
「失礼致します」
ウォルテールはアジェンゼの反論を待たずに扉に手をかけ、力を込めて開け放った。
扉の前には、壮年の小男が立ち尽くしている。アジェンゼだ。ウォルテールは素早く部屋の中を見回した。
(……特にそれらしいものは見当たらない、か)
野次馬となっている使用人たちは、顔を見合わせてひそひそと囁きあっている。最初にアジェンゼを呼びに行った赤毛の侍女は、小柄な使用人と顔を見合わせて、驚いたように目を見開いている。
「ええっ、ラダーム様が何者かに暗殺されたの? それほんと?」
それにしたって大きな声である。本人は声を潜めているつもりらしいが、その声は周囲に響き渡っている。侍女はそのことに気づく様子もなく、口元に手を当てて大声で呟いた。
「じゃあ、このタイミングで軍が来るって、」
その一言で、廊下は一気に喧噪に包まれた。それを慌てて部下が鎮め、屋敷の中は再びある程度の静けさを取り戻した。しかし向けられる視線は更に強くなり、聞き耳を立てるように誰もが固唾を飲んでいる気配がする。
(この空気では逃げられまい)
ウォルテールは視線を前に戻した。
「……アジェンゼ大臣、」
見れば、アジェンゼは真っ青な顔で立ち尽くしている。ウォルテールは表情を緩めないまま、一歩踏み出した。
「一つ伺ってもよろしいですか?」
扉を片手で押さえて問うと、アジェンゼはぎこちなく頷いた。
アジェンゼを見下ろし、ウォルテールは慎重に問う。
「……アジェンゼ大臣。ラダーム様が殺害された件に関して、何かご存知ですか」
「私は何も知らん」
アジェンゼは強固に首を振った。ウォルテールは目を細める。
「それでは、ラダーム様の側近が、昨晩この屋敷を訪ねたと言っていたのは嘘なのでしょうか? その件についてどなたかに伺っても?」
家令をちらと振り返ると、アジェンゼは酷く苦り切った表情で「いや」と漏らした。
「……それは事実だ。だが、私は結局ラダーム様のお部屋には伺わなかった」
「しかし、大臣。目撃者がいるのです。貴方と特徴の一致する人間が昨晩ラダーム様の部屋を訪れたと」
侍女は言っていた。足下まである裾、布を頭から被った女の後ろ姿を見たのだ、と。
ウォルテールは目の前にいるアジェンゼを見た。足下まであるようなトーガを身につけている小柄な男である。顔を見れば女と見間違いようはない。……が、後ろ姿ならどうか?
駄目押しのように、ウォルテールはゆっくりと区切りながら再度問う。
「――アジェンゼ大臣。貴方は本当に、ラダーム様の部屋を、訪れなかったのですか?」
ウォルテールが鋭い視線でアジェンゼを見据えた直後、大臣はいきなり踵を返して走り出した。部屋の奥の扉を開け放った後ろ姿に目を剥いて、ウォルテールはすぐさまアジェンゼを追おうとする。しかし鼻先で扉を閉められ、思わず一歩下がった。
それから扉を開けようと手を伸ばした直後、廊下で悲鳴が上がる。
「どけ!」
少しして、離れた廊下でアジェンゼの怒声が響いた。続きの部屋を通って廊下に出てきたらしい。ウォルテールは慌てて廊下へ出る。見れば、アジェンゼが胸元に何かを抱えて廊下を走っている。
「逃がすな!」
ウォルテールはアジェンゼを指して怒鳴ると、その後ろ姿を追って走り出した。兵も一斉に動き出す。
人混みが足止めになるかと思ったが、主人の全力疾走に使用人たちはさっと分かれて道を作ってしまった。それを兵が追う。屋敷の中はやにわに大捕物の様相を呈し始めた。使用人たちのどよめきや悲鳴が響く。
「どけ! 道を空けろ!」
アジェンゼは片腕で何かを抱きかかえ、廊下に出てくる使用人たちをかき分けて階段を降りようとする。そのとき、階下で待たせていた数人の兵が、大騒ぎに驚いて階段の下に出てきた。それに気がついて、アジェンゼが慌てて方向転換しようとする。
「大臣!」
ウォルテールが叫んだ直後、アジェンゼの体がふわりと浮いた。……足を踏み外したのだろうか? アジェンゼはそのまま階段に打ち付けられ、横向きに転げ落ちていく。
(まずい、)
ウォルテールは目を見開いた。玄関ホールを見下ろす手すりに掴まり、下で右往左往している兵に向かって怒鳴る。
「受け止めろ!」
ウォルテールの指示に、階下にいた部下たちは素早く動き出した。階段を転げ落ちるアジェンゼを受け止め、すぐさまその無事を確認する。階段の中ほどで回転を止められたアジェンゼは、ぐったりとして動かなくなった。
ウォルテールは血相を変えて階段を駆け下りる。アジェンゼを抱えた兵が、「一体どうしたんですか」と驚いたような顔をしていた。
「……詳しい説明は後だ、よくやった。大臣は無事か?」
「血は出てませんし息もしています。頭を打ったようなので無事とは言い切れませんが……」
「分かった」
ウォルテールはアジェンゼの頭の脇にかがみ込んで、その顔を覗き込む。固く目をつぶっているアジェンゼを見下ろして、ウォルテールは頭を掻いた。
「あんなに必死になって逃げるってことは、やっぱり何かありそうですね」
後ろからデルトが降りてきて、腕を組む。ウォルテールは無言で頷いた。
「救護室のようなところはあるか?」
家令を振り返って問うと、彼は「少々お待ちください」と言って周囲にいくつか指示を出す。それから彼は「こちらです」と階下を指し示した。
運ばれて来た担架にアジェンゼを乗せようと、二人がかりで兵がアジェンゼの体を持ち上げたときだった。
「……ん? 何だこれ」
アジェンゼの腕から、抱えて運んでいた荷物が転げ落ちた。胸に抱えて持ち運ぶには大きめの布袋である。デルトが屈んで袋を拾い上げ、中を見る。ウォルテールも一歩寄って、デルトの手元を覗き込んだ。
巻いて紐で縛られた羊皮紙と、布にくるまれた何か細長いもの。布に巻かれた方を袋から取り上げる。ずしりとした重みが手に加わった。怪訝に思いながら、ウォルテールは布の端を掴んではらりと開く。
「これは……!?」
ウォルテールは息を飲み、デルトと顔を見合わせた。デルトは蒼白な顔で口を覆っている。
――布にくるまれていたものは、短剣だった。
それも、ただの短剣ではない。鞘はなく、抜き身のまま布に包まれ、そしてその布は赤黒く染まっている。短剣の刃も『何か』が黒くこびりつき、明らかに使用済みであることを窺わせる。
「これって、まさか……」
デルトが声を漏らした。ウォルテールは厳しい表情でアジェンゼを見据えた。
***
急ごしらえの救護室で、アジェンゼは寝台の上に寝かせられていた。その枕元で、ウォルテールは短剣をじっと見つめる。
(この短剣は、)
柄に刻まれた紋章を指で触れ、ウォルテールは重いため息をついた。
部屋の隅では、まだ年若の兵たちが暇を持て余して、短剣を包んでいた布をつまみ上げてひそひそと話している。
「――それにしてもすごいな、これ。きっと絹だぜ」
「大臣クラスになると凶器を隠すのにも良い布を使うんだな」
「俺たち薄給の兵士とは訳が違うんだよ、流石は大臣サマ……」
「お前ら、証拠品に勝手に触るな」
普段の自分の言動は棚に上げて、デルトが下っ端たちに拳骨を落とす。呆れ顔でその様子を眺めていると、直属のこの部下はウォルテールを振り返った。珍しく神妙な顔である。手にしていた紙を掲げたデルトが、躊躇いがちに口を開く。
「ウォルテール将軍、これって、つまり……」
「――横領だ」
低い声でウォルテールはそれだけ答えた。
アジェンゼが落としたのは血に濡れた短剣、そして一枚の契約書だった。
短剣に刻まれているのは帝国の紋章。すなわち、帝国軍が発注、管理する武器である。兵が横流ししたのではない限り、出所は知れている。
「年末、武器庫に侵入者があったな。覚えているか」
「……はい。短剣が一振りだけ盗まれました」
デルトが慎重に答えた。ウォルテールは唇を引き結び、未だ気絶したままの大臣を見やる。……目覚めたら訊かねばならぬことがたくさんありそうだ。
それから、ウォルテールは契約書に目を移す。契約書の角には、明らかに濃い色の液体が染み込んだ形跡がある。……血だ。短剣についているものと無関係とは思えない。
ウォルテールはとんとん、と、上部にかかれた日付を指先で叩いた。
「見ろ――この契約書が記された二日後に、武器庫は破られた。……ただの偶然と思えるか?」
「いいえ……」
ウォルテールは血濡れた契約書を取り上げて、その中身に再度目を通す。その内容は、細々とした取り決めが複雑な語彙で綴られているものだが、端的に言ってしまえば裏取引である。
「……アジェンゼ大臣からの多額の献金と引き換えに、様々な融通を利かせるといった感じか」
しかし、問題はその額である。いくらアジェンゼが大臣で、父祖の積み上げた財もあるとはいえ、これはあまりに大きすぎる。……国家予算レベルの桁だ。
(横領、か)
その辺りは調べれば何かしら出てきそうである。ウォルテールはため息をついて、頭を掻く。
契約書の下部に並んでいる顔ぶれを辿れば、そうそうたる面々である。流石にアジェンゼの他に大臣クラスはいないものの、次官や名だたる名家の跡取り、その他、高級官僚の名前もちらほらと混じっている。
「これは、とんでもないことになるぞ……」
ウォルテールが口元を押さえて呟いた直後、寝台の方から僅かな呻き声が聞こえた。顔を向けると、アジェンゼがゆっくりと体を起こすところだった。
「……取り押さえろ」
デルトに指先一つで指示を出して、それからウォルテールは立ち上がって寝台に歩み寄る。短剣と契約書を突きつけるように掲げて、アジェンゼに声をかけた。頭をさすっていたアジェンゼは、見るからにぎくりとした表情をした。
「このような事故を招いたことを謝罪申し上げます。それで、大臣……これらについて、お話を伺いたいのですが」
慇懃に頭を下げてから、ウォルテールはアジェンゼに厳しい視線を向ける。大臣はぎりぎりと歯ぎしりをして、「私はラダーム様を殺してなどいない」と唸った。
ウォルテールは眉根を寄せて、なるたけ落ち着いた声で問う。
「それならどうして、貴方が凶器を持っているのですか。傷口と照らし合わせてみれば、これが本当にラダーム様殺害に使われたものかどうか、すぐに分かります。アジェンゼ大臣、……早く自白した方が良い」
「違う! ……そ、そうだ! 私は誰かに嵌められたのだ、そうだ、内通者がいた……!」
「嵌められた?」
ウォルテールが顔をしかめると、アジェンゼは我が意を得たりとばかりに勢い込んで頷いた。
「その通りだ! ……確かに私は昨晩、ラダーム様の部屋を訪れた。しかしそのとき、既にラダーム様は殺されていたのだ、」
「それでは、この凶器と契約書は?」
「それは……け、契約書は、ラダーム様の部屋にあったのを、私が持ち帰って、――凶器は、いつの間にか、私の部屋に」
狼狽えたようにぶつぶつと連ねるアジェンゼに、ついにウォルテールは「いい加減にしろ」と机を殴りつけた。激しい殴打音が響き、アジェンゼは目を見開いて凍り付く。
「……そのような作り話が通用するとでも思ったか。そんな、貴方にとって都合の良い言い訳が聞き入れられるとでも思ったか」
低く押し殺した声で、ウォルテールはアジェンゼを睨みつけた。アジェンゼは血の気の失せた顔で声もなくウォルテールを見上げている。
「連行しろ」
ウォルテールはそれだけ言うと、ふらふらと椅子の上に腰を下ろした。抵抗するアジェンゼを兵が連れて行く気配を感じながら、ウォルテールは頭を抱える。
(……ラダーム様、貴方はどうして……)
それほど親しかった訳ではない。心酔もしていない。その死に涙を流すほど打ちひしがれている訳ではなかったけれど、ここに来て、理由も分からぬ喪失感に襲われた。
(彼は、大臣の横領について何らかの手段で掴んだのか? それで大臣を呼びつけて……殺された? 短絡的に決めつけるのは良くないが、出そろっている物品と証言からして、それが一番妥当な説のように思える)
ウォルテールは陰鬱な気持ちをかき消せずに、重いため息をつく。
(側近に口止めをしたのも頷ける。……おいそれと人に言えるようなことではあるまい)
デルトに声をかけられ、ウォルテールはよろよろと立ち上がった。
(……全て終わったら墓参りに行こう。ラダーム様は、花はお好きだろうか)
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