第一王子-暗殺 1
「ラダーム様が殺害された!?」
朝とは言えど、日が昇ってからもう数刻経とうとしている頃だった。血相を変えて執務室へ駆け込んできた部下の言葉に、ウォルテールは椅子を蹴倒して立ち上がった。
「……どういうことだ、デルト」
「お、俺にもまだ委細は」
デルトは震え声で首を振る。「しかし、――いえ、取りあえず、現場へ」
促されて、ウォルテールは椅子を直す手間も惜しんで部屋を出た。
(ラダーム様が、死んだ?)
信じられない。足が震えた。城内は既に騒然としており、誰もが廊下に出て口々に噂を交わしている。
(それでは、次期皇帝は……いや、今考えることではない)
先導するデルトは一言も喋らず、人混みをかき分けて廊下を進む。行く先はすぐに知れた。ラダームの私室である。
ラダームの私室がある棟へ近づくにつれて、人だかりはあからさまに濃くなっていた。
「総員、持ち場へ戻れ!」
ウォルテールは声を張り上げるが、皆、動く様子はない。逆にウォルテールの顔を見咎めて詳細を聞こうと群がってくる始末である。これには閉口した。
「他の者が近づけないよう封鎖しておけ。三……いや、五班ほど呼び寄せてこい」
困り果てたように立ち尽くす兵を捕まえて指示を出すと、兵は飛び跳ねるようにして頷き、人混みをかき分けて走り去った。
「……さて、」
声をかけてくる使用人や官僚たちをいなし、ウォルテールは開け放たれたままの扉の前に立った。
「ラダーム様は、ここで?」
「そのように聞いています」
ウォルテールは「そうか」と応じ、部屋に足を踏み入れる。毛足の長い絨毯に靴先が埋まった。ラダームの部屋に入るのは初めてだったが、おおよそ予想通りの調度と言えた。深紅の絨毯、磨き抜かれた机の後ろには大きな地図が貼られている。地図に打たれたピンは自分が征服してきた国の目印らしい。
壁に掛けられた剣は飾りか本物か。背丈を超すような長槍が壁に立てかけられ、その他様々な武具の類が揃えられている。元々ラダームは城に長居をしない。私室というよりはむしろ執務室と武器庫を兼ねたような部屋だった。
そうした室内の様子を目で浚った直後、むっと、息も詰まるような血の香りがした。戦場ならばいざ知らず、深閑とした宮殿にはおよそ似つかわしくない鉄臭さである。
「ラダーム、様……」
ウォルテールは掠れた声で呟いた。血に固まった絨毯を踏めば、ばりばりと音がする。一分の隙もなく閉じられた厚いカーテンからは、光も風も差し入る余地はない。あえかな呼吸すらも躊躇わせるような重い静寂が部屋に落ちている。熱のない部屋。暖炉は息をせず、燭台は油皿に濁った液体を固まらせて沈黙している。
――部屋の中央には、仰向けに絶命した勇壮な将の姿があった。
大きく見開かれた目。愕然としたような表情には血が散っていた。首筋には目を逸らしたくなるような黒々とした傷口が開き、飛沫を上げた形跡を残している。その肌に触れなくても分かる、虚ろな瞳からは既に生の気配が消え失せていた。傷は首だけではない。胸をも強く貫かれたのだろう、胸元は真っ黒に染められ、上半身を中心に、絨毯に血溜まりが広がっていた。
窓はただ一つだけ開け放たれていた。カーテンが揺れ、華やかな朝日が真っ赤な絨毯を照らし上げる。そのたびに骸の虚ろなさまが鮮明に浮かび上がった。
「事故、ではなさそうですね」とデルトが見れば分かることを呟いた。それでも口を開かずにはいられなかったのだろう。押しつぶすような沈黙はあまりにも耐えがたかった。
「でも、他殺とはまだ決まっていません。城内で殺人事件なんて……起こる訳ないじゃないですか」
部下はむしろ祈るような声でそんなことを言った。ウォルテールはラダームの遺体を見据えたまま、低い声で応じる。
「ラダーム様がご自分で自らの喉笛を裂くと思えるか」
「いいえ。でも、可能性を捨てるのは早計かと」
ウォルテールは全身に汗をかいていた。ひやりと背中が冷える。倒れたラダームの周囲を見回す。
「見ろ――どこにも凶器はない」
「ええ、しかし……この部屋には刃物がいくらだって」
「自分で首に刃を突き立て、それから壁へ剣を戻しに行ったと?」
「……いえ」
デルトは項垂れた。信じがたい、信じたくないという意思をありありと示して、彼は奥歯を噛みしめる。
「ラダーム様の死に、何者かが関与している可能性は高い。もちろん決めつけるには早いが……殺害されたと考えた方が良いかもしれない」
「そんな……。王子が殺されるだなんて……」
デルトはその場で膝をつく。ウォルテールは厳しい視線で、ラダームの遺体を睨みつけていた。
(……一体、誰が)
ラダームが死んで利する者は誰だ。しかし、どうして今。ラダームを弑するのであらば戦地へ刺客を放てば良いことである。刺客を雇うことを厭うたのか。そのような筋と繋がることを危険と判じたか。
ふと、何かが頭の隅にちらつく。――少し前に、何か似たようなことがなかったか? 裏の手段を使えば良いのに、わざわざ面倒なことをしてまで、自分で動いたような人間が、いなかったか。
何かに思い至る寸前、「ウォルテール将軍」と声をかけられたことで、ウォルテールの思考は打ち切られた。
「どうした?」
振り返ると、扉から顔を覗かせた兵が応える。
「……昨晩、この近辺を通りかかったという侍女が来ております。何やらお話ししたいことがあると」
一瞬躊躇って、ウォルテールは「分かった」と頷いた。
部屋の外に出ると、駆けつけた兵が人混みを捌いていた。部屋の前は幾分か落ち着いており、それぞれが自分の職務を思い出したようだった。残っているのは暇を持て余した高級官僚ばかりである。品がないから帰れ、と言いたいが、迂闊なことも言えない。
友人らしきもう一人に付き添われた侍女は、蒼白な顔で俯いていた。ウォルテールは付き添いを帰すと、侍女を別室へ通す。侍女は目で見て分かるほどにぶるぶると震えていた。腰掛けている長椅子までもが揺れそうだ。ウォルテールはその向かいに座り、ゆっくりと息を吸った。
「初めまして。ロウダン・ウォルテールだ」
「あ……アニナ・コルエルと、申します」
振動を激しくしながら侍女は応じた。
「……それで? 『話したいこと』とは?」
なるたけ柔らかい声で問いかけると、アニナはしばらく要領を得ないような言葉をいくつか漏らしてから、おずおずとウォルテールを窺う。目が真っ赤に腫れていた。ラダームの死が判明してからまだそれほど経っていない。そんなに腫れるまで泣くかな、とウォルテールは内心で首を傾げた。
アニナは口を開閉させ、酷く逡巡した様子でたどたどしく訴える。
「その……わたし、昨日……いいえ違うんです、わたしは何も、っ」
「何か証言をしたからといって、貴女を疑う訳ではない。ここで見聞きしたことは誰にも口外しないから、安心して話しなさい」
ウォルテールはほとんど猫なで声のようになって、侍女と目を合わせた。年若い侍女はしばらく胸の前でもぞもぞと指を絡めては解き、絡めては解きを繰り返していたが、ややあってゆっくりと口を開く。
「昨日の夜……わたし、見たんです。ラダーム様のお部屋に、誰かが入るところ」
ウォルテールは思わず傍らのデルトと目を合わせた。――これは、案外重要な証言ではないか?
目配せに気づいたらしい。「えっと……?」と躊躇ったアニナに、デルトが素早く「どうぞ、続けて」と手を出す。彼女は小さく頷いた。
「小柄な人で、……頭から長い布を被っていて、顔も何も見えませんでした。後ろ姿しか見ていないし、体型も服も分かりません。足下しか見えなくて、けど……足首まであるような長いスカートだと思ったんです。だからわたし、女の人が来たんだと思って、すっかりびっくりしてしまって、」
「女?」
ウォルテールは眉をひそめて呟いた。アニナは曖昧に頷いた。
「時間は?」とデルトが問う。アニナは「ええと、」と胸の前で指を絡ませ、視線を膝に落とした。
「ごめんなさい、正確な時刻は分かりません、……でも、お城が業務を終えてから二刻以上は過ぎていたはずです」
なるほど、とウォルテールは頷く。それほどの時間となれば廊下を出歩く者はそういないだろう。大抵の者はとっくに食事を済ませ、寝支度をしている時間帯。宮殿の奥――それも、王族の居室付近をうろついている人間がおいそれといるとも思えない。
……と、そこで当然の疑問が浮上する。ウォルテールは再びデルトと顔を見合わせ、それから侍女をゆっくりと窺った。
「それでは……どうして貴女は昨晩、ラダーム様のお部屋の近くに?」
おずおずと問うと、彼女はあからさまにぎくりとした様子で目を剥いた。いかにも後ろめたそうな表情に、隣の部下が眉をひそめた。
「……そ、それは……言わなければならないでしょうか……」
小さく肩をすぼめ、まるで叱りつけられた子供のように頭を垂れている。思えば、話があると名乗り出たときから、何やら言いづらそうな雰囲気を漂わせていた。よもや訳ありか、とウォルテールは顎に皺を寄せる。
「無理にとは言わないが、……出来れば」
「そう、ですよね」
アニナは真っ赤に晴れた目を瞬いて、それから酷く躊躇してからウォルテールと視線を合わせた。
「あの、本当に、わたし……」
「大丈夫だ、悪いようにはしない。――無論、こんなところでいきなり自供を始めたら貴女を捕らえなければいけないけれど」
笑みを混じらせて告げると、少女は僅かに「いえ」と頬を綻ばせた。それから、彼女はゆっくりと目を伏せる。唇が戦慄いた。瞼が震えた。涙が一筋頬を伝う。
「……わたし、ずっと前から、ラダーム様のことが、憧れで」
侍女はそっと囁いた。不意に潜められた声音からは哀切な調子が滲んでいる。「馬鹿なことをしているとは分かっていました。でも、一目だけでもお目にかかりたかった。だから、」
「だから、部屋の前の廊下に? ずっといたのか」
「二晩に一度ほど」
覚悟を決めたように淡々と応えるアニナの声に、ウォルテールは思わず頭を掻いた。非常識な真似を、と咎めることは簡単だ。だが……。
「それで、……その目でラダーム様を垣間見ることは叶ったのか」
「一度だけ。声を交わすことも、視線を交わらせることもなく、見咎められることもなく……ただ、すれ違っただけですが」
アニナは静かに頭を垂れた。まるで断罪を待つような態度に、罰するつもりのないことをどう伝えるか迷う。彼女は苦悶の色をその目に浮かべていた。
「夜通し泣いたのか」
それだけ問うと、アニナは意表を突かれたように目をぱちくりさせた。ウォルテールが片手で自らの目元を指すと、彼女は少し首を傾げ――それから恥ずかしそうに目を手で隠して横を向いた。
***
これで一つの情報が出てきた。昨晩、ラダームの部屋を訪れた人間がいたのだ。アニナによれば、普段、ラダームの部屋に誰かが出入りすることは稀だという。側近ですら立ち入ることはほとんどないと。断言の根拠には多少思うところがあるが……まあ良い。
(女……)
ラダームの部屋に入ったのが知らない女だと思って、侍女はすぐさま逃げ帰ったのだという。そして自室に飛び込んで、破れた恋を思って夜通し泣いたと。それで翌朝起きてみればラダームが殺害されたと言うじゃないか。侍女は酷く動揺しているようだった。
兵を一人付き添いにして帰したが、さぞや傷心だろうと思いを馳せる。……彼女の異常なまでに執拗な恋には恐れを感じずにいられなかったが。
(俺にはラダーム様の交友関係は分からないからな。恋人がいたのか?)
一旦自室に戻ったウォルテールは、腕を組んで天井を見上げた。取りあえずラダームの遺体は運ばせたが、部屋の中はそのままである。
(もう一度見に行ってみるか)
生憎、部屋にこもったまま推理によって犯人を突き止めることが出来るような、明晰な頭脳は持ち合わせていない。ウォルテールは名探偵ではない。だいいち、じっとしているのはどうにも性に合わなかった。ウォルテールは立ち上がり、重い足取りで部屋を出た。
(ラダーム様が知らない女を部屋に入れるはずがない)
(一年のほとんどを戦地で過ごすラダーム様に、懇意の女がいたのか?)
(その女がラダーム様を……?)
悶々と、まとまらない考えが浮かんでは沈む。結局何の結論も出ないまま、ウォルテールはラダームの部屋の前に立っていた。
――と、兵によって封鎖された廊下の端に、静かに佇む男を見つける。細身で長身の男だ。華奢な印象を受けるその後ろ姿には見覚えがあった。ラダームの側近である。ウォルテールは躊躇いなく彼に近づいた。
「失礼」
声をかけると、側近は泡を食ったように振り返る。慌てふためいたような態度に、ウォルテールは首を傾げる。
「ウォルテール、将軍、」
「一つ訊きたいことがあるのだが」
「わ、私は何も知りません、何も、」
勢いよく首を横に振る側近は、話を聞こうとしない。逃げ腰になっているのを壁際に追い詰めて、ウォルテールは努めて穏やかな声で問うた。
「ラダーム様には、恋人がいたのか」
「こ……?」
側近は呆気に取られた顔で瞬きをした。全く想定外だ、と言わんばかりの表情である。側近も知らないのか?
「そのような方がいるという話は、聞いておりません」
「……そうか」
落胆を隠しきれなかったウォルテールに、側近は「何かあったのですか?」と首を傾げた。言ってしまおうか、とも思ったけれど、やはりおいそれと情報をばらまく訳にもいかないだろう。ウォルテールは「いや」と話を濁した。
「ラダーム様について、知っていることはないか? 昨日、何か変わったことはなかったか?」
そう問うと、側近は酷く心細げな顔をして、ウォルテールをじっと見上げた。何か言おうとするみたいに、その唇が戦慄く。ウォルテールは側近の言葉を待ったが、彼は小さく首を振ったきりだ。
「――いいえ」
囁くみたいにそう答え、側近はそれ以上何も語ろうとはしなかった。
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