3
総会を終え、皇帝が退室すると、議場の空気は一気に緩んだ。ウォルテールも一息ついて、肩の力を抜いた。続いてエウラリカとラダームが立ち上がり、議場を出ようと壇上を降りようとする。
……と、その瞬間、カナンが盛大にこけた。壇から転げ落ち、うつ伏せに床に倒れ込む。
「!?」
ウォルテールは思わず腰を浮かせ、身を乗り出した。一体何をしているのか。
「何だ?」
エウラリカなど視界にも入らないように泰然と歩いていたラダームは、物音に眉をしかめて振り返った。足元で体を起こしたカナンを見下ろし、「お前は誰だ」と険しい目を向ける。
「え、あ……」
カナンは体を起こすと、呆気に取られた顔でラダームを見上げた。訳が分からない、と言わんばかりに口をぽかんと開けるカナンに、ラダームは首を傾げる。
「誰だ、貴様」
カナンは白い石の床に這いつくばったまま、言葉を見つけあぐねるように口をぱくぱくさせていた。何も言葉を発しないカナンの代わりに会話を引き継いだのはエウラリカだった。
「わたしのペットなの。かわいいでしょう?」
うふふ、とエウラリカが頬に手を当てて笑う。「ペット?」とラダームがあからさまに顔をしかめた。
「ええ。わたしのかわいいワンちゃん……あら、間違ったわ。動物扱いは嫌なのよね?」
エウラリカは頬に沿わせていた指先をはたりと落とし、足元に潰れたままのカナンを見下ろす。
「そう――わたしの、奴隷よ」
瞬間、ウォルテールの脳裏に、カナンの顔面を足蹴にしたエウラリカの姿が蘇った。背筋を冷たくしたのは恐らくウォルテールだけだったろう。あの場にいた者で、今ここにいるのはウォルテールとエウラリカ、そしてカナン以外には誰もいない。
「奴隷? 側仕えではなく?」
ラダームは今にも苦言を垂れようとするような顔をして、華奢な妹を見下ろした。武人である兄の威圧的な押し出しに対して、エウラリカの肩幅はあまりに心もとない。が、この王女の表情に臆する様子はおよそ見つけられなかった。甘やかされ、自分の我儘が通らなかった経験をほとんど持たぬ、傲慢で尊大な子供の有様である。
「そのふたつの何が違うの?」
のそのそと立ち上がったカナンに目もくれず、エウラリカはつんと顎を持ち上げて兄と目を合わせた。
「何もかも違うだろう。王族ともあろう者が傍に奴隷を置くなど……。世話をする者が欲しいのなら他の人間を手配してやるから、その奴隷を連れ回すのはやめなさい。みっともない」
エウラリカはしばらく黙って、それから不意に目を潤ませた。はたはたと涙をその頬に流し、ラダームを見上げる。
「――ひどいわ、お兄さま」
酷く情けなく、それでいて胸の底をぎゅっと握り締められるように戦慄いた声だった。
「わたしの、大切な子のことを、そんな風に言うなんて」
エウラリカは片手の甲で、泣き濡れた目を拭う。ひくひくと喉を鳴らしてしゃくり上げる。詰るような目線にラダームはあからさまに嫌な顔をした。
「泣いて済む問題ではないだろう、エウラリカ。そんな身元も知れない奴隷なんぞを側に置いて、恥をかくのはお前だけではないんだぞ」
身元が知れない、と言ってはいるが、知れたら知れたで大問題である。そもそもエウラリカ自身がカナンの出自をちゃんと理解しているのかすら怪しかった。
「どうしてそんなことを言うの?」
エウラリカはラダームの言葉を理解しようとする様子もなく、肩を跳ねさせてすすり上げる。ラダームは聞こえよがしに舌打ちをした。
「――ともかく、この奴隷は俺が預かっておく」
「いやっ!」
ラダームがカナンの腕を掴み上げた直後、エウラリカは鋭く叫んだ。
「やだやだやだやだ! 何でそんなことを言うの!?」
突如として癇癪を起こして地団駄を踏んだエウラリカに、周囲からの愕然とした視線が突き刺さる。ウォルテールも我が目を疑って瞬きをした。
エウラリカは顔を真っ赤にして、強く握り締めた拳をぶるぶると震わせる。
「お兄さまのいじわる……馬鹿っ!」
ついにエウラリカは腰布に挟んでいた扇を大きく振り上げてラダームに投げつけた。それが頬に当たるより早く、ラダームは扇を叩き落とす。
床に扇が転がった。ラダームはしばらく沈黙し、エウラリカをじっと見据えていた。
「――いい加減にしろ、エウラリカ」
低い声で唸り、ラダームは手を振り上げる。それを制止する人間は誰もいない。皇帝は既に退室した後である。
ばしん、と乾いた音が響く。
「きゃ……っ」
頬を叩かれて、エウラリカが床に倒れ込んだ。ぶたれた頬に恐る恐る触れ、呆然としたようにラダームを見上げている。その瞳には見る見るうちに涙が盛り上がり、唇が声もなく歪んだ。
「おにい、さま、」
エウラリカが声を戦慄かせる。部屋の中はしんと静まり返っていた。国の重鎮が勢揃いした議場で、これはあまりにも酷い醜態だった。もう十五、六にもなろうというのに、目を疑うほど未成熟なエウラリカの様を目の当たりにして、唖然と絶句している官僚も多い。
カナンがエウラリカに手を伸ばしかけた。その指先が触れるよりも早く、エウラリカは立ち上がり、逃げるように議場を出ていってしまった。取り残されたカナンは一人で立ち尽くし、憤然と肩を怒らせているラダームを一瞥する。
「失礼致します」
小声でそう告げて、カナンはかがみ込んだ。ラダームに礼をしたものかと思ったが、カナンは床に落ちていたエウラリカの扇を拾っただけだった。体を起こすと、彼はそのまま議場を出る。扉を閉める直前、小さく礼をしたきりだった。
凪いだ視線は、まるで臆することなくラダームを見据えていた。
***
議場はざわついていた。三々五々、参加者は顔を見合わせながら議場を出てゆく。そんな中ウォルテールは人混みに紛れて一人で議場から出ると、他の人間とは真逆の廊下へ足を踏み出した。
(どちらへ行ったかな)
周囲を見回しながら進むが、気配がない。ウォルテールは首を傾げる。
カナンは確かにこちらの方向へ行ったはずだった。
(……追いかけてどうするんだ、俺)
災難だったなとでも言いに行くのだろうか? カナンに対して何を言えばいいのか分からない。が、ウォルテールは自分があの少年を気にかけていることを自覚していた。
年末、ポネポセアの花を巡って家庭内が対立した際、その解決の手助けとなったのはカナンである。ちらと零した愚痴について調べ、わざわざそれを知らせに来てくれた。
そんなことを回顧しながら歩いていたウォルテールは、ふと曲がり角の側に人影を見つけ、足を止めた。
黒髪をくくった後頭部が見える。小さな肩に乗った頭は、どうやら俯いているようだった。
(カナン、)
ウォルテールは数秒の間その後ろ姿を眺めてから、足を踏み出す。「カナン」と呼びかけて肩に手を置くと、彼はほとんど飛び上がるようにして振り向いた。
「こんなところで何を……」
言いかけた直後、カナンは口の前に人差し指を立て、必死の形相でウォルテールを黙らせた。慌てて口をつぐむと、カナンはあからさまに困ったような顔をしてウォルテールを見上げる。
「――お兄さまのことなんて嫌いよ」
ひくりひくりとしゃくり上げる泣き声が聞こえて、ウォルテールは反射的に体を強ばらせた。間違いなくエウラリカの声だった。独り言の声量ではない。誰かと話しているのか。角の向こうで、エウラリカが何者かに兄への恨み言を連ねていた。
「ねえ、あなたはわたしの味方でしょう?」
念を押すような問いに、掠れた声が答えた。「ええ、そうですとも、エウラリカ様」
(男、か?)
エウラリカに特段親しい男がいた記憶はない。否、城内の老若男女を思い浮かべても、エウラリカと親しい人間など、ウォルテールには思い当たる節はない。誰にでも親しげに振る舞う一方で、エウラリカの表層を剥いだ一枚奥は、誰にも知れなかった。
「お兄さまはいつだってわたしのことを叱ってばっかり。たまにはお兄さまだって怒られてしまえば良いんだわ」
潤んだ声でエウラリカが囁く。エウラリカと相対している男は深いため息をついたようだった。ウォルテールは身を乗り出して会話の相手を覗き見たい気持ちと、秘め事を見ているかのような後ろめたさの板挟みになっていた。
――期せずして、会話の相手はすぐに知れたのだが。
エウラリカは甘えるように告げた。
「……ねえ、アジェンゼ。お兄さまに言っておいてくれる? エウラリカはとっても傷ついていて、とっても悲しいんだって」
(アジェンゼ!?)
ウォルテールは思わず口を押さえた。アジェンゼとは、大臣の一人である。国内の陸路や水路、そうした交通に関する諸々を司る省庁の長だが、その任についてからもう十数年が経とうとしている古株だ。十分に老いた男で、エウラリカとは祖父と孫娘ほどに年が離れている。彼がエウラリカに取り入ろうとしているのは公然の事実で、エウラリカを通じて皇帝に取り立てて貰おうという意図が見え透いている小男だった。
(驚いたな、アジェンゼが一方的にエウラリカににじり寄っているだけかと思ったら)
エウラリカもまんざらではないらしい。アジェンゼに随分と懐いた様子で、舌足らずにいくつかの我が儘を垂れていた。
「――そうしたら、わたし、きちんとおとうさまに言うわ、あのこと」
声を潜めて、エウラリカが告げる。何気なく足下に視線を落としたウォルテールは、少し先に二つの影が伸びているのを見つけた。一つは小柄なエウラリカのもの。もう一つは――恐らくは、アジェンゼの。
影が近づく。ウォルテールは息を飲んだ。脳裏に赤い花の影がちらつく。
「ね、アジェンゼ。お願い。お兄さまを叱ってあげて?」
エウラリカがそっと首を伸ばす。
「できるでしょ? ねえ、だめ? わたしがお願いしてるのよ」
幼子の我儘を真に受ける者はいない。筋の通らない児戯に付き合う道理はない。――もしそれが、何にも喩えることの出来ない美しさを持つ王女の言だとしても?
ウォルテールはカナンを見た。彼は角の向こうを向いていた。何が見えているのか、その横顔は鋭く張り詰めている。端正な鼻筋に皺が寄せられる。――まるで飢えた犬のような目をしていた。
(……俺は、何も見ていない)
ウォルテールは内心で呟く。エウラリカとアジェンゼの逢瀬のことも、それを見据える奴隷の視線のことも、何も知らないのだ。その方が良い。
逃げるようにその場を去っていた。カナンの目に追われていることには気づいていたが、振り返ることも出来なかった。そのまま別棟の執務室へ転がり込み、机に肘をついて頭を抱える。
「一体、俺は何を見てしまったんだ……?」
頭がぐるぐるしそうだ。めまいにも似た混乱に叩き落とされ、卒倒してしまいたくなる。ただ、今見聞きした事柄をおいそれと誰かに話すことは出来ないという確信だけはしていた。
その日はずっと、何も手につかなかった。幸運なことに、戦線に出ていない際のウォルテールの職務はほとんど城内の管理に留まっている。この間のように『武器庫への侵入者がいた』として年末に呼び出されたりするなど、例外中の例外である。普段は特段忙しい訳でも、重要な仕事がある訳でもない。総会後の午後いっぱい、ウォルテールが上の空であることに気づく者は誰もいなかった。
仕事を終え、食事を済ませ、官舎へ戻り、寝支度をして眠りにつく。妙なものを目撃した以外は何も変わらない。終わったあとに一悶着はあったが、総会自体は滞りなく終わったし、問題は何もない。
ウォルテールはそう、思っていた。
――翌朝、ラダームが遺体となって発見されるまでは。
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