2


 第一王子が戦地から帰還してから、半月ほどが過ぎた。冬の寒さが緩み始めた頃、宮殿では総会が執り行われる手筈となっていた。

 凱旋の祝賀会において、王族内の対立が明らかになったのはまだ記憶に新しい。誰もが様子を窺うような態度で辺りを窺っていた。……あれからラダームとエウラリカが顔を合わせるのは、これが初めてである。


(また喧嘩を始められたら面倒だぞ)

 早めに自席についていたウォルテールは、机の上で指を絡ませながら会場を見回した。広い大議場、向かって左側の段の最前列である。総会で発言をする予定はないが、立場上、このような席次になってしまった。ラダームを除いて、将軍位に就いている人間としては一番の若造である。気が重い。

 最前列だけに、議場に入って来る面々がよく見えた。顔見知りに会釈を返していたウォルテールは、ふと「あ、」と声を漏らした。



 開け放たれた扉から順に官僚達が入って来るのに紛れて、エウラリカが近づいてきていた。退屈そうな表情で目を伏せ、不貞腐れたように唇を尖らせている。その背後では気配を消した少年が付き従っており、ぴたりとエウラリカの後ろにつけていた。

(随分と雰囲気が変わったものだ)

 ジェスタを征服し、カナンが帝都に連れてこられてから、およそ一年弱が過ぎた。あの頃はまだ紅顔の少年とも言えるような小柄な子供だったが、いつの間にやらしなやかに手足の伸びた少年となっていた。それにしたって子供であることに変わりはないが。


 エウラリカは大股で部屋を横切って、突き当たりの王族の列に入り、自分の席にどすんと腰掛ける。粗雑な振る舞いは、自分が不機嫌であることを殊更に知らしめるような幼さが透けて見えた。

 頬杖をついて退屈そうに黙り込んでいるエウラリカの斜め後ろに、カナンはひっそりと佇んでいる。


 特にこちらを見て目を合わせるつもりはないらしい。ウォルテールはその場で小さく伸びをすると、立ち上がって一旦議場を出た。

 扉を出て正面にあるバルコニーに出て、ウォルテールは手すりに背を預けて空を見上げる。初春の風はまだ頬を撫でるには冷たかったが、震えるほどでもなかった。

(……ジェスタを落としたのは、去年の今頃だった)

 ジェスタはここより北に位置し、山間地に王都を構えた国であることも相まって、実際には帝都より多少寒冷だが、――春の風を受けると、どうにも記憶が蘇った。



(そろそろ議場に戻るか)

 立ち上がり、バルコニーと廊下を繋ぐガラス戸に手をかけたとき、ラダームが別の通路から姿を現した。ラダームは入る前に大議場を見回し、妹を明らかに視線に入れた。が、エウラリカは兄にまるで反応を示さず、天窓の向こうの空を眺めている。

 その態度を見て、ラダームも興味を失ったようにふいと目を逸らした。仲が良いとはお世辞にも言えない様子である。

(困ったものだ)

 ウォルテールは内心で嘆息し、ガラス戸を押し開く。


 ――と、扉の軋む音に気づいたのか、ラダームの視線がウォルテールに向けられた。ウォルテールは思わず体を強ばらせた。ラダームはウォルテールを眺め、僅かに首を傾げた。

「もしや、貴君がウォルテールか」

 目を細めて放たれた言葉に、ウォルテールは慌ててガラス戸から手を離し、「はい」と居住まいを正す。「そう畏まるな、こちらへ来い」と手で示され、彼は恐る恐るバルコニーから歩み出た。


 ラダームは議場前の吹き抜けの中央に仁王立ちし、尊大な笑みを湛えてウォルテールを見据える。

「貴君の名前はかねてから伺っている。素早い進軍に優れた将であると」

「……過ぎたる評価でございます」

 ウォルテールは固い動きで頭を下げた。彼が決して嬉しそうでないことに気づいたらしい、ラダームは声を上げて笑う。

「そう不安げな顔をするな、褒めているんだ」

 言いつつ、ラダームはウォルテールに一歩近づいた。


 顎を撫でながら、ラダームはウォルテールを見据える。

「貴君が落としたそうだな。帝都へ帰還する前に寄ってきた――何といったか、あの小国」

「……ジェスタ王国、ですか」

 ウォルテールは慎重に答えた。実際のところは、他に答えはありえなかった。ウォルテールはあまり積極的に他国に打って出て、領地を拡大することはしない。ここのところ侵略した国と言えばジェスタだけだ。

 ラダームに気づかれないよう、ウォルテールはそっと、視線だけでカナンを窺う。カナンはこちらを見ておらず、エウラリカの視線を追うように外を眺めていた。ひとまず胸を撫で下ろす。


(ラダーム様は、エウラリカ様の奴隷がジェスタの王族であることを知らぬのか)

 第一王子の振る舞いには、カナンを意識した様子は一切なく、むしろ、議場に入るために通りかかる官僚や高位武官達へ向けられたものであるという印象が強かった。


 大きな動作で、ラダームが両手を広げる。

「視察に行って驚いた。ジェスタの王都は、何と綺麗な街並みであることか!」

 はっきりとした声で放たれた国名に、カナンがぴくりと顔を動かしてこちらを見る。それを視界の隅で確認して、ウォルテールは内心で冷や汗を垂らした。

「城には傷一つなく、図書館も、随分と立派にそびえ立っていた」

 あまりカナンの方ばかりを確認する訳にもいかず、ウォルテールはラダームに向き直って「はい」と頷く。

「あの街は歴史も古く、」

 言いかけたところで、ラダームは「は、」と息を漏らして口角を上げた。話を遮るようなそれに、ウォルテールは思わず目を瞬く。ラダームが笑った。


「ジェスタの王都は、何とも綺麗な都だった――まるで、戦などなかったかのように。そのことに俺は心底驚いたのだ、ウォルテール」


 ラダームは大きく足を踏み出し、ウォルテールの目の前から、吹き抜けの中央まで歩み出た。床に描かれているのは、帝都を中心とした大陸の地図である。それを強く踏みしめて、ラダームはウォルテールを見据えた。

「聞くところによれば、貴君は王族を全員生かしたまま、この帝都まで連れてきたそうだな」

 どこか否定的な言い方だった。ウォルテールは慇懃に頭を下げ、「昔よりよく使われる手法です」と短く応じる。


 歴然たる力量差を見せつけ、反抗の意志を殺ぐ。そうした目的で、帝都を目の当たりにさせ、皇帝に自らの口で忠誠を誓わせるのだ。

「……我が帝国の、圧倒的な栄華への揺るぎない自負がなくば、そのような手段を採ることはありますまい」

 目を伏せたまま、ウォルテールは努めて穏やかな声で告げる。ラダームは「ふむ」と眉を上げた。



「……もしも王族の一人が反旗を翻し、挙兵したら? よもや帝国軍が負けることなどあろうはずもないが、損害は避けられないだろう。その償いはどうする」

 ラダームの問いに、ウォルテールはしばし沈黙した。

(この方は、俺のやり方にご不満がおありなのだ)

 本当に問われているのは、有事の際の償いをどうするかという話ではない。ウォルテールは無言で数秒ラダームを見つめ、ゆっくりと口を開いた。


「ラダーム様は、侵略した国を、跡形もなく蹂躙すべきと思われますか。反乱などという考えも起こらぬほどに、完膚なきまでに叩き潰すべきとお考えですか」

 ……言い終えてから、危険な橋を渡っていることに気づいた。まるで口ごたえをするようなことを言って、不敬だと断罪されるやも知れぬと思った。

 体を固くしたウォルテールを眺めて、ラダームはすっと目を眇める。

「――ああ、いかにも」

 迷いなくそう答えたラダームに、ウォルテールは思わず目を伏せた。



 ラダームは足元の地図を踏みしめ、超然と笑う。

「未開の地に帝国の恵みを享受させてやる。それが帝国の長――すなわち大陸の覇者となる者の務めだ。禍根を残し、火種を燻らせるなど、怠慢以外の何ものでもない」

「そのために、王族を一族郎党……」

「ああ、その通りだ」

 ウォルテールは、愕然としたまま、ラダームを見つめた。同じ将軍位に就いていても、その姿勢は自分とはまるで違う。

(これが、俺にないカリスマ性なんだろうな)

 呆然と、そんなことを考えた。自分でも気づいているのだ。ロウダン・ウォルテールという男は、あまりにも凡庸すぎた。何をするにも中途半端で、奇跡にも近い様々な偶然がなくば、こんな地位に就くはずもない、突出したところのない人間だ。


 ラダームは床の地図を指した。

「帝都が大陸のどこにあるか、貴君は承知の上だろうな」

 その指が向く先には、帝都を表す印が記されている。円になった、議場前の小さな広間。吹き抜けの上から冷たい空気が降り、ウォルテールはぶるりと体を震わせた。

 円の中心に燦然と輝くのが、帝都の印――月を抱く太陽と、それを支えるように囲む二本の蔦。蔦は月の下で絡まり合い、ひとつになる。紛れもない、新ドルト帝国の紋章である。


「ジェスタにある、あの図書館、何といったか――大陸中央書庫?」

 ラダームは頬を吊り上げ、嘲笑するように一歩踏み出して地図に足を強く置いた。その足の下には、ジェスタ王国の都が記されている。

 ラダームは目をぎらつかせながら嘲笑した。

「俺が都もろとも燃してやろうと思っていたのに、貴君に先を越されてしまった」

「……そのように先を争うようなものではありますまい」

「しかし、既に帝国に下った国に火を射かけるのにはそれなりの理由が必要となろう。もう遅い」


 ウォルテールは何も言えずに立ち尽くした。ラダームは目を細めて鼻を鳴らす。

「大陸『中央』書庫? 辺境の小国ごときが笑わせてくれる。――大陸の中央とは、この帝都をおいて他にあるまい。正しい血統からなり、臣民からの信も厚い、『然るべき』皇帝の君臨する帝都だ。いずれは大陸全土を支配する、光輝あるこの都こそが中央だ」

 ラダームは眩いばかりの自負を滲ませて笑った。


「俺はじきにこの大陸の覇者となる」

 力強い目をしていた。猛禽とも獅子ともつかぬ鋭い双眸で、ラダームはウォルテールを射抜いた。


「ウォルテール、その意味をよく考えろ。俺は、自分の部下は自分で選ぶぞ」

 自身の甘っちょろさを鋭く追及され、ウォルテールは思わず黙り込む。ラダームはそれ以上多くを語ることなく、悠然と微笑んでいた。



「ラダーム様、そろそろ総会の時間にございます」

 ひょろりと背の高い、華奢な男が声をかける。今まで吹き抜けの隅の方で待機していたらしい。ラダームは振り返り、「そうか」と頷く。

「また機会があれば語らおう。貴君とは話してみたいことが沢山ありそうだ」

 そう言って、きっちりした足取りで議場へ入っていったラダームを見送り、ウォルテールは半ば放心状態で息を吐いた。


(ラダーム様が即位されたら、俺は左遷か?)

 下手をしたらそれも有り得そうだ。ラダームの口振りからして必ずしもそのつもりではないだろうが、立ち回り次第では十分に可能性のある想像だった。そのための警告だろう。

(将軍から降ろされて城内の閑職にでも回されるのも、案外いいかも知れないが)

 小さく頭を掻いて、ウォルテールはラダームについて議場へ戻った。


 ***



 明るい、透き通るようなエウラリカの髪に比べて、ラダームの金髪は些か精彩を欠いた。ラダームが真剣な表情で耳を傾けているのとは対照的に、エウラリカは天窓から落ちる光を浴び、目をつぶって沈黙していた。

 総会の最中の居眠りである。本来咎められるべきそれが、やけに絵になるのだから堪ったものではない。長い睫毛が光にきらめき、顔の輪郭を柔らかく包む和毛が身動ぎの度に揺れて輝いた。

 息をする度に、ふわりふわりと生え際の産毛が浮く。まるで幼子のようにあどけない表情をしていた。その背後で、カナンが影のように静かに佇んでいる。



「――次いで、決算に関わる報告へ移らせて頂きます」

 聞き覚えのある声が議場に響き、ウォルテールは視線をエウラリカたちから発言者に移した。

 書面を手に立ち上がった、三十路をやや越した細面の官僚。――ウォルテールの長兄、ルージェンである。彼は訥々と決算に関する説明を読み上げる。


 と、そのとき、しゃらりと鈴の音が響いた。それは今までにも、静寂という名の僅かな喧騒――呼吸音や衣擦れ、咳払い、そういった特筆すべきでもない物音に溶けていた、ささやかな音である。

 見れば、カナンが首元から手を下ろすところだった。そうして、ウォルテールはその喉元に小さな鈴が取り付けられていることに気付く。……まるで猫の首輪だ。カナンはそれを手で揺らして鳴らしたのである。

 直後、ぱちりとエウラリカが目を開いて顔を上げた。その様子はいかにも居眠りから覚めたばかりの学徒のようで、目を瞬いて周囲を見回す様は、まさにといった感じである。


(驚いたな)

 ウォルテールは目を見開いて、エウラリカとカナンの主従を見やった。

 カナンはエウラリカを心底憎んでいるはずだった。数度言葉を交わした印象からも、この王子――元王子と言うべきかも知れないが――が、無邪気に自分を奴隷に所望したエウラリカを好ましく思っているとはとても思えなかった。

 しかし今のカナンの振る舞いは、まるでうとうとと微睡に落ちようとするエウラリカをそっと起こすようなものである。

(いつの間に手綱を握っていたんだ)


 エウラリカはカナンの鈴の音で目を覚ましたのち、きょろきょろと落ち着きなく周囲を見回した。居並ぶ大臣やその他官僚たちの顔ぶれを眺め、それから決算書に関して報告を続けているルージェンに目を留める。

 しかし、深い青色の瞳はすぐに、ふいと興味なさげに宙に浮いた。カナンはエウラリカを鈴の音でさりげなく起こしたのちはすぐに目を伏せ、沈黙している。それらのやりとりはまるで児戯のようだった。大人に隠れてこっそりとじゃれ合うような、秘め事めいた愉悦の漂う表情だ。


(なるほど、もしかしたらこの二人は俺が思っているようなあり方ではないのかもしれない)

 日々、エウラリカの無茶ぶりにも近いような我儘に振り回される、苦労性の少年。そう思っていたカナンの双眸に、今までとは違う何かを感じた。

 その髪と同じように、真っ黒な色をした瞳。目元に落ちた影は柔らかく、静かに瞬きを繰り返されている。



 ――もしも王族の一人が反旗を翻し、挙兵したら?


 不意に、ラダームの声が脳裏に蘇る。思わずウォルテールは無言のまま目を見開いた。

(……そんなはずは、ない)

 エウラリカに目を取られ、ほとんどの人間はカナンになど気を留めることはないだろう。まさに影のようだった。物言わず、じっと、輝かしいエウラリカの傍に立っている。会場を見渡すカナンの眼差しは、ひたすらに静かだった。


(出来るはずもない)

 味方など誰一人として存在しないこの帝都で、カナンはただの奴隷だった。奴隷にしてはやや厚遇が過ぎる気もするが――それでも首に嵌められた首輪を見れば、彼が何者かの配下であることは知れる。



 暗愚で幼稚なエウラリカを操ることなど、赤子の手をひねるより容易いことのように思える。それは、エウラリカの実情を知る人間なら誰しもが抱く感想だった。その事実が突如として真に迫り、ウォルテールは息を詰める。


 ……もしも、エウラリカを、まるで糸繰り人形のように操れる存在があったとしたら?



 そんな馬鹿げた思考に落ちかけたウォルテールの耳に、エウラリカの咳が聞こえた。

 乾いた響きから、それが空咳であることは知れた。乾いた風の吹きすさぶ冬から三寒四温、気候は一進一退を繰り返している。

 エウラリカが体の強い少女であるという印象はあまりなかった。その体は華奢で、いかにもか弱そうに見えた。風邪でもひいたか、とウォルテールは眉を上げる。


 小さく咳払いを漏らしたエウラリカを、その背後に立ったカナンが見下ろした。それからすいと目線を上げ、総会の成り行きを見守るように姿勢を正す。うなじで緩く結われた黒髪が首筋を辿り、小さなひと房が頚椎を覆っていた。

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