第一王子-凱旋 1
第一王子の凱旋。その報せに、宮殿のみならず、帝都全体が沸き立っていた。
「ウォルテール将軍! ラダーム様が帝都へ入られたそうですよ!」
見るからに浮ついた様子の部下が顔を出す。デルトという名の部下である。年齢の割にそこそこ有能だが、どうにもおちゃらけた様子が玉に瑕だった。
デルトの報告を受けて、ウォルテールは顔を上げた。第一王子が『用事』を終えたという報せを聞いた年明けの頃から、既にひと月以上が経っている。「思ったより遅かったな」と呟くと、デルトは頷いた。
「ジェスタの方まで視察に行かれたと聞いています」
その言葉に、ウォルテールは思わず眉をひそめた。……ジェスタは自分が攻め落とした土地である。終戦から一年も経たないうちに視察に行くなど、まるでウォルテールの制圧に問題があると言わんばかりの行動だった。
(いや、考えすぎだ)
ウォルテールは首を振り、馬鹿げた考えを振り除けた。
――ラダーム・クウェール。新ドルト帝国を治めるクウェール家の直系第一子である。優れた体躯と戦の才に恵まれ、自ら将軍となって他国を次々と攻め落としている。その手腕から帝都内での人気も高く、久方ぶりの凱旋である今回も、さぞかし盛り上がるだろう。沿道に民衆が群がり熱い歓声が上がる光景は、容易に想像がついた。
(次期皇帝はラダーム様だろうな)
ウォルテールは頬杖をつきながら、部屋の壁に貼ってある大陸の地図を横目で見る。ラダームが将として国外へ打って出るようになってから、地図は改訂に次ぐ改訂が追いつかないほどに様変わりしていた。正確に言えば、帝国が凄まじい勢いで拡大しているのだ。
(天賦の才だ。……俺が戦に出ても、軍はあれほどまでの力を発揮しないだろう)
ウォルテールは小さく嘆息する。……自分が軍人に向いているのか判然としないまま、こんな地位まで来てしまった。
ウォルテールが戦において、常に何かしらの葛藤を抱えていることを、兵は敏感に察しているはずだ。ラダームにはそれがない。まるで疑いなく、揺るぎない固い意志でもって、兵を動かしているのだろう。
「俺は、本当に適性があるんだろうか……」
元はと言えば、エウラリカに懐かれたのがそもそもの始まりである。初めはただの中隊長だったのが、エウラリカの我儘に付き合っている内に、いつの間にか将軍にまで上り詰めてしまった。頭痛がしそうだ。将軍位に就いているのは、自分を含めても現在五人しかいない。
かつての同僚たちは『とんでもない幸運じゃないか』と揶揄まじりに言うが、ウォルテールにしてみれば筋の通らない出世でしかなかった。身の程に合わない地位である。
「……こういう地位は、本当に向いている者だけが就くべきものだな」
地図をあっという間に塗り替える、輝かしく誉れ高き第一王子。その姿を思い浮かべながら、ウォルテールは彼を迎える為に立ち上がった。
***
自分がジェスタ侵攻を終えて帰ってきたときとは大違いである。城門前を埋め尽くす凄まじい大歓声に、ウォルテールは思わず苦笑した。
玄関ホールの片隅で柱に寄りかかり、外を眺めていると、ふと肩に手が乗った。
「凄い人気だな」
声をかけられて振り返ると、長兄であるルージェンが立っている。腕を組んで目を細め、眩しげに観衆を眺めていた。
「お前が帰ってきたときとは大違いじゃないか」
「俺も同じことを思っていたところです」
頭を掻きながら応えると、ルージェンは声を上げて笑った。
「お前は随分ひっそりと帰ってきたからな、ロウダン」
「……あまり大っぴらにするような侵攻ではありませんから」
ウォルテールが声を潜めて呟いた言葉に、ルージェンは笑いを収めて目を瞬く。問いたげな視線は分かっていたが、わざわざ自分から積極的に言うようなことでもあるまい。ウォルテールは苦笑ひとつで話を終えようとしたが、ルージェンは低い声で彼に告げた。
「そりゃそうだ」
「え?」
ウォルテールが眉をひそめてルージェンを見やると、この長兄は薄らと笑みを浮かべていた。
「いくら侵略に成功したとはいえ、王女の我儘で一国を落としたとは、流石に公表しづらいもんな」
「……ご存知でしたか」
どこかから聞きつけて来たのだろう。ウォルテールはばつが悪いような思いで目を伏せた。ルージェンはウォルテールの背を叩き、「俺もたまたま小耳に挟んだだけだ」と唇の前で人差し指を立てた。
「さあ、ラダーム様の御成りだぞ」
ルージェンは芝居がかった調子でそう呟き、それからウォルテールに向かって微笑んだ。
「じゃあ、俺は用事があるから、」
「そういえば、兄上」
ひらりと手を振って立ち去ろうとする長兄を呼び止めて、ウォルテールは「義姉上はお変わりありませんか」と問う。ルージェンはすぐに破顔し、「ああ」と頷いた。
「体調は良好だし、経過も順調らしい。お互いに忙しくてなかなか都合が合わないかも知れないが、生まれて少ししたら抱きに来ると良い」
年末にちょっとしたいざこざがあったから大丈夫かと懸念していたが、どうやら特に尾を引く問題は残っていないらしい。
「俺なんかが抱いたら怯えて泣かれそうですね」とウォルテールが苦笑すると、ルージェンは「まさか」と笑み混じりに応えた。
「小さな子供は人の本質を見抜くとよく言うからな。きっとお前は大丈夫だよ」
軽くウォルテールの背を叩いて、「じゃあな」と片手を挙げる。しなやかな動きでルージェンが立ち去るのを見送って、それからウォルテールは視線を城門へ戻した。
観衆の中に頭一つ抜けて、騎馬に乗った一群が近づいて来ている。
「……ラダーム様、か」
柱に隠れるように立ちながら、ウォルテールは腕を組んで呟いた。
***
晩餐会は豪勢に催された。長い卓が並び、奥の机には高位の人間がついている。ウォルテールも中ほどの席を宛てがわれて、ラダームの見える位置に座ることとなった。
「ラダーム様は凄いな、ウォルテール」
「お久しぶりです、レダス殿」
元上司――今となっては同じ将軍位となってしまった、髭面の大男が隣に腰掛けた。レダスは目を眇め、絢爛豪華な大広間を見渡す。
大扉が開かれた。儀礼的な赤色のトーガを身に纏い、精悍な顔つきの青年が、悠然と大広間に足を踏み入れる。ラダームだ。その容姿は、妹であるエウラリカとは似ても似つかない。
(いや、……ある意味ではよく似ているのか)
自分の振る舞いにまるで疑いを持たない、その性質は、ウォルテールには到底手に入れられないものである。
割れんばかりの拍手が響く。ウォルテールも両手を上げて手を打ち合わせ、ラダームを先頭に入ってきた兵たちの帰還を祝福した。
ラダームが片手を持ち上げ、応えるように笑みを浮かべる。歓声が一層高まる。なるほど、これは凄い人気だ、とウォルテールは小さく頷いた。
ラダームが皇帝の前に立つと、部屋を満たしていた熱狂にも似た歓声も鎮まる。長男は父を見据え、よく響く声で告げる。
「ただいま戻りました、父上」
……この第一王子に比べると、現帝はどうにも見劣りするように思われた。皇帝はそれほど体躯に恵まれた訳でもなく、更に言えば――長子ではない。不慮の事故により崩御した兄に代わって、この男は皇帝となった。幼いうちから帝王学に触れてきた訳でもなく、心構えも足りぬままに即位した暗君。ぽっと出の次男坊である。
対して、ラダームは皇帝の長子として生まれ、物心がつくよりも前に、周囲から次期皇帝となることを前提として育てられてきた男子である。本人もそのつもりであることは間違いない。滲み出る威厳は、自負の現れだ。
つまるところ、現皇帝よりも、その息子の方がよほど皇帝らしく見えるようだった。
「大義であった、ラダーム」と皇帝は重々しく応えたが、ラダームの声ほどは通らない。第一王子は僅かな侮蔑を混じらせた目で、父に微笑んだ。
「このように豪勢な歓待、痛み入ります」
ラダームは形式上は恭しく頭を下げ、それから背後の兵を振り返った。
「さあ、盃を取れ!」
ラダームが腹に響くような声で叫ぶ。席についていた兵は一斉に盃を振り上げた。
「我々の栄光ある勝利と新ドルト帝国の更なる隆盛を祝して――」
――乾杯!
一瞬あとにその声が響く、と誰もが思った、束の間の静寂、
「――あら、お兄さま! いつの間に帰ってらしたの?」
涼やかに鐘が打ち鳴らされたようだった。大広間の空気は瞬きの間に一変した。
「……エウラリカ様、」
ウォルテールは思わず声を漏らす。唖然としたような沈黙ののち、ざわめきが広がった。
開け放たれた大扉の中央で、小柄な少女が頬を紅潮させて立っていた。その斜め後ろにひっそりと佇む奴隷の姿には、ほとんどの人間が注意を払わないだろう。
何もかもをかき消すほどに輝かしい笑みだった。改めて、嫌になるほどに美しい王女だと思った。
エウラリカが人前に姿を現すことは珍しい。普段から宮殿の奥に引きこもるようにして生活し、多くの催しも気まぐれに欠席する。その姿を初めて見る人間が大半だろう。会場は一気に動揺に落とされた。
差し向けられる無数の視線をものともせず、エウラリカは静かに微笑んでいる。
「……エウラリカ、」
ラダームは舌打ちせんばかりの表情で呟き、それから素早く「乾杯!」と叫んだが、どうにも息は揃わなかった。ばらばらと盃が打ち合わされ、戦勝を祝う晩餐会の始まりにしては締まらない空気である。
それが、まるで見計らったかのようなタイミングで割り込んできたエウラリカのせいであるのは、誰の目から見ても明らかだった。
当の闖入者はそんなことに頓着した様子もなく――というよりこの異様な空気に気付いているのかも怪しいが、気楽な様子で辺りを見回している。
「あれが、王女様か……」
ウォルテールの隣で、レダスが呟く。妻子を持ち、もうじき孫が生まれようという壮年の男だったが、大きく目を見張って、エウラリカをじっと見つめていた。まさかこれだけで骨抜きにされた訳ではなかろうが、彼は心を奪われたようにエウラリカを見ている。
ウォルテールはレダスから顔を背けながらため息をついた。
(気持ちは、分かる)
ああも隅々まで澄み切った少女は、エウラリカの他にいない。世の中にあんなのが二人といてたまるか、というのがウォルテールの本心だった。
大扉の近く、末席付近にいた兵達は、盃を口に運ぶことも忘れてエウラリカに見とれている。うち一人は盃の縁から酒が零れているのにも気付かずに呆然としていた。
エウラリカが何事かを言い、肩を竦めるみたいにして小首を傾げた。頬を綻ばせてにこりと笑みかけると、末席の兵は慌てふためいて立ち上がり、使われずに伏せられていた盃を差し出す。
とろりとした葡萄酒を盃で受け、エウラリカは大瓶を傾けていた兵に微笑んだ。深い青色をした瞳が緩やかに細まる。真っ向から視線を受け止めた兵は、目に見えて頬を赤らめ、放心したようにエウラリカを見つめた。
(ああして何気なく兵の心を掻き乱すのはやめて頂きたいものだ)
ウォルテールは嘆息し、視線をエウラリカから、その背後に佇んでいるカナンに移した。
下ろせば肩までかかりそうな黒髪を低い位置で一つに束ね、首筋から背中に流している。その雰囲気は硬く、周囲を寄せ付ける気のなさが透けて見えた。
カナンの目はエウラリカには向けられていなかった。会場全体をじっくりと品定めするように視線が走らされ、まるで一人一人の顔を検分しているみたいだった。
すい、と動いた彼の眼差しが、ふとウォルテールに差し向けられる。見ていることが分かるように真っ直ぐ見返してやると、カナンは僅かに驚いたような表情で目を見開き、それからすぐに小さく目礼した。
今や会場中の視線はエウラリカに向けられていた。主役をかっ攫われたラダームに目をやると、この青年は険しい表情で妹を睨んでいる。
エウラリカは盃に口をつけて僅かに葡萄酒を含むと、喉に絡みついたそれを払うように小さく咳をした。盃を背後の奴隷に手渡し、エウラリカは臆する様子もなくゆったりと歩き出す。カナンは無言で盃を受け取り、手に持ったままエウラリカに従った。
「わたしの席はどこかしら?」
慌てて近寄ってきた官僚に、エウラリカが微笑む。官僚はあからさまに焦ったような表情で主賓席を見回した。ウォルテールもつられて自分の左右を見た……が、空いている席はない。晩餐会の初めには用意されていた席は、ラダームの側近が伝えてきた指示により、少し前に片付けられていた。
「エウラリカ様、その……」
言葉を選ぶように口を開きかけた官僚から目を離し、エウラリカは席を見渡して、――ぎゅっと唇を噛んだ。
「ひどい……どうしてわたしの席がないの!?」
エウラリカは顔を赤くして叫んだ。背後でカナンが目を見開く。
「エウラリカ様、これは、」
「わたしのところには誰も連絡に来てくれなかったわ! わたしのことを仲間はずれにしようとしてるのね!」
癇癪を起こしたように、エウラリカは服の裾を強く掴んで、声を荒らげた。官僚は「ええー……」と声を漏らす。
「――エウラリカ!」
つかつかと足音を立て、ラダームが妹の下へ歩み寄った。じろりと睥睨する視線の、あまりの冷ややかさに、ウォルテールは思わず首を竦める。
「返事をしなかったのはお前だろう。出席に関して何度も訊きに行ったのに、一度も部屋から出てこなかったと聞いている」
「そんなの知らないわ」
エウラリカは唇を尖らせて反駁する。ラダームは聞こえるように舌打ちをした。
「今朝も、それから昼過ぎにも、俺の側近が訊きに行ったはずだ」
「朝? わたし、朝はいつも湯浴みをしているの。昼は分からないわ。お昼寝をしていたのかも」
エウラリカは悪びれる様子もなくそう応え、拗ねたようにふいと顔を逸らす。それからいくつかの押し問答の末、エウラリカは癇癪を爆発させて叫んだ。
「わたし、お兄さまのことなんてもう知らない! こんな食事会、わたしから出てってやるわ!」
「エウラリカ!」
捨て台詞を吐いて、エウラリカは踵を返そうとした。苛立ちを多分に含んだ声でラダームはその名を呼び、腕を掴もうと手を伸ばす。
「いい加減にしろ、そうやってお前はいつも我儘ばかり言って……!」
エウラリカの細腕を掴んで、ラダームが片手を振り上げた。エウラリカの頬を叩こうとするように、その右手が振り下ろされる。
「ラダーム!」
落雷のような大音声が響いた。呼ばれたラダームは動きを止め、愕然と振り返る。
(……何だ、)
椅子を蹴倒すようにして立ち上がり、ラダームを怒鳴りつけたのは、それまで大人しく成り行きを見守っていた皇帝だった。
誰もが呆気に取られて絶句する中、皇帝は表情を和らげてエウラリカを呼ぶ。
「エウラリカ、こちらへおいで」
「おとうさま!」
手招きされて、エウラリカはぱっと表情を輝かせた。ぱたぱたと足音を立てたので、今日はきちんと靴を履いているらしい。
「席がないならここに来なさい。椅子を持ってこさせよう」
甘やかすような声音に、エウラリカも大きく頷く。
皇帝の膝に乗り、エウラリカはその胸に頬擦りをした。皇帝は娘を抱いて、ラダームを見据える。
「余の娘を傷つける者は、たとえ息子であっても許さぬ。――心得ておけ」
「父上っ……!?」
ラダームは目を剥いて、父と妹に食らいついた。その表情は信じられないと言わんばかりに強張り、咄嗟に声も出ないように開口している。
「……父上は、私よりもエウラリカの方が大切だと仰るのですか」
震えた声で、ラダームが呟いた。皇帝は静かな眼差しで息子を見据え、黙って目を逸らした。
(――あれは、国を蝕み傾ける、毒なのだ)
ウォルテールは、ゆっくりと顔を伏せた。無邪気さと表裏一体の我儘は、確実に、少しずつ、……この帝国を食い破ろうとしている。純真さを全面に出した振る舞いやその容姿に多くの人間が惑わされる。が、あれは明らかに、異常者だ。
(……狂っている)
ラダームが目を疑うように絶句する様を横目に眺め、ウォルテールは拳を握り締めた。
皇帝が、美しい一人娘を目に入れても痛くないほどに可愛がっていることは、周知の事実だった。大陸の広い範囲を占める新ドルト帝国、その皇帝とはすなわち巨大な大陸の長である。
皇帝の寵愛を一身に浴び、何不自由無く育った少女がどのようになるかなど、想像に難くない。幼く傲慢な姫君。――それだけならばまだ良かったのだ。
ぼうっとしたままエウラリカを見つめる兵や参列者たちの、惚けた顔を眺め回す。
(……傾国、か)
皇帝の手を取り、ころころと笑うエウラリカの声ばかりが、大広間に響いていた。
(嫌な気分だ。酒が不味くなる)
ウォルテールは会場を見回し、一つの空席に目を留める。席次からして、あそこは大臣たちが並んでいるはずである。大臣たちの顔を思い浮かべて、ウォルテールは小さく眉をひそめた。
(……いないのはアジェンゼ大臣か?)
特に関わりのある大臣でもない。肩を竦め、ウォルテールは視線をまたどこか遠くに投げた。
同様に、カナンの姿が見当たらないことにウォルテールが気づいたのは、晩餐会が嫌なざわめきのまま終わる頃だった。
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