3


 屋敷の中は、久方ぶりの家族の再会だというのに、やたらに重苦しい空気に満ちていた。暖炉の前で黙りこくったままのリュナ。その側にはオーゼルの妻であるティーラが付き添っており、何やら穏やかな声で語りかけているようだった。

 ルージェンとオーゼルは、低めた声で、それでも険悪な空気をありありと発しながら部屋の隅で話し合っている。それを仲裁しようと両親が奮闘しているようだが、今のところ効果はなさそうである。


「兄上……」

 ヘルトがウォルテールの袖を引く。その不安げな表情に、ウォルテールは何とか表情を和らげてみせた。ヘルトの顔を見下ろしながら、ウォルテールはつと別の少年のことを思い浮かべる。――カナンと、ヘルトは、ほとんど同じくらいの年だろう。背丈もほぼ同じ、歳の程も同じ。それなのに、ヘルトは随分と幼く見える。……否、カナンがやけに老成しているのか?


 初めてジェスタ侵攻の際に見たときは、憎しみをありありと滲ませつつも、そこにある種子供ならではの無鉄砲さが透けて見えた。今は……。

(王女に振り回されて苦労しているんだろうな……)

 可哀想に、と心の中で手を合わせて、ウォルテールはヘルトの頭を撫でる。五人兄弟の末っ子は首を竦め、照れたように笑った。



「きっと、今にクナエイアが頭を冷やして戻ってきますよ」

 オーゼルがルージェンの肩を叩いて言った。ルージェンはゆっくりと頷き、「そう……だな」と呟く。

 どうやら話は片付いたらしい。ウォルテールとヘルトは揃って息を吐き、胸をなで下ろした。

「悪い、あのときは咄嗟に頭に血が上って……」

 ルージェンは近くにあったソファに腰掛けて、深々と嘆息する。

「クナエイアが冷静になって戻ってきたら、きちんと話をしようと思う」

「それが良い。きっとあいつも外に出て頭が冷え――」

 ルージェンとオーゼルがそう言い交わした直後、激しい足音が近づき、凄まじい勢いで扉がバァンと開け放たれた。



「花屋に聞いてきたわ! ポネポセアの花にそんな効果はないそうよ!」


 勝ち誇ったような表情と声である。部屋に入ってきた姿勢のまま、クナエイアは盛大に叫んだ。ウォルテールは思わず眉間を押さえて天を仰ぐ。――全然冷えてない!

「お前……」

 ルージェンが唖然としたように呟く。クナエイアは肩に掛かった波打つ栗毛を手で払い、ふんと鼻を鳴らした。

「お兄様とお義姉様のために、わざわざ聞いてきてあげたのよ。そんな謂われのない疑いをかけられて誹りを受けるだなんて、我慢ならないもの」

 よほど業腹だったらしい。嫌味をふんだんに込めた口調で、クナエイアは呆然とする面々を睨めつける。つかつかと大股で部屋の中に入ってくるやいなや、腕を組んで「何?」と高圧的に周囲を見回した。


 クナエイアがちらとリュナの方を見る。元々の発端は、リュナがポネポセアに反応を示したことである。クナエイアの目にはあからさまに苛立ちが浮かんでいた。リュナは上目遣いでおずおずとクナエイアを窺う。

 二人の視線が重なった直後、リュナは気弱な表情をキッと鋭くした。

「そんな、こと、ないわっ……!」

 リュナは自らの腹を押さえながら、立ち上がる。暖炉の中で揺れる炎に照らされて、その表情にゆらりと影が落ちた。彼女は早口に何かを呟く。それはウォルテールには聞き取れないものだった。


「――『ポネポセアは子殺しの薬』。母はよくそう言っていました」

 続けて、リュナが低い声で囁く。気が弱く繊細な質だと思っていたが、胎の子に関わることとなればその通りではないのかも知れない。


「母?」とティーラが小声でオーゼルを窺う。オーゼルは「義姉さんは母の出身が……西方の領地なんだ」と妻に答えた。その言い淀んだ様子に、ウォルテールは小さく頷く。……リュナが漏らした言葉。あれは帝国の言葉ではなかった。と、いうことは、リュナの出身は西方の領地――要するに、植民地なのだろう。とはいえ、その単語をおいそれと口に出すのは躊躇われよう。ティーラは一度目を眇めてから、納得したように頷いた。



「クナエイアさんはご存知でないかもしれませんが、あれは私の生まれた地域ではそのように言われている植物でした」

 リュナはきゅっと唇を噛み、僅かに肩を振るわせながら、クナエイアと相対した。クナエイアは腕を組んだまま、不満げにくいと眉を上げる。クナエイアの好戦的な性質をよく表したその表情に、リュナが目に見えて怯んだ。


「でも、花屋は『そんな効果はない』と言っていました。……もしかしたら、お義姉様の思い違いなんじゃなくて?」

「クナエイア! リュナに当たるのはやめろ」

 ルージェンが妻を庇うように前に出ると、クナエイアは手のひらを上に向け、「はぁ」と聞こえよがしにため息をついた。

「こんな侮辱を受けたのは初めてだわ。私が――甥あるいは姪を、殺そうとするですって? お義姉様がたは、本当にそんなことを思ってらっしゃるの? ……信じらんない」

 攻撃的でありながら、同時に酷く傷ついたような表情で、クナエイアはそう吐き捨てる。険しい目でルージェンとリュナの夫妻を睨みつけると、クナエイアは机の上に置いたままだった鞄を手に取った。


「――帰るわ。今回の食事会は欠席させて頂きます」

 硬い声でそう告げて、クナエイアが歩き出す。それに追いすがったのが両親だった。猫なで声で口々になだめすかしているが、あれでは無理だろうな、とウォルテールは確信していた。クナエイアはやたらと気が強いし、自尊心も高く、おまけに頑固で短気である。どちらも穏やかな性質の両親からこの妹が生まれたのが、ウォルテールには不思議なくらいだった。


「待って下さい、姉さんっ!」

 突如としてヘルトが駆け出し、ひしとクナエイアの腕に抱きつく。クナエイアはぎょっとして弟を見下ろした。

「せっかくの食事会なのに、姉さんがいないなんて嫌です……!」

 ――泣き落としである。

 目を潤ませて縋り付いてくる弟に、クナエイアはあからさまに毒気が抜かれた表情になる。ぽかん、と口を半開きにして、瞬きを繰り返した。


「そうだぞ、クナエイア」とウォルテールも弟に続く。軍人である兄に見下ろされ、クナエイアは目に見えて威勢を失った。

「俺は去年、来ることが出来なかったんだ。お前と会うのも二年ぶりになる。もっと顔を見させてはくれないのか?」

「別に、そういう訳じゃ……」

 クナエイアは小さな声で応えた。しおしおと萎みながらも、その表情には不満が十分に残っている。

「良いから、残れ。ここで逃げたら、この先ずっと顔を合わせづらくなるぞ。それでも良いのか」

 ゆっくりと告げると、クナエイアは唇を尖らせてまま、渋々頷いた。



 ***


 一件落着っぽい雰囲気になってはいるものの、実際のところは何も解決していないのである。屋敷の中の空気は嫌になるほど固く、ウォルテールは今に頭痛がしてきそうだった。


 翌朝、ウォルテールは長兄の屋敷を出て散歩に出た。まだ陽が完全に昇る前で、人気はなく、空気がきんと鋭い時間帯である。

 水路は朝日にきらめき、底まで澄み切った水は新ドルト帝国の繁栄の象徴だ。生まれ育った祖国への誇らしさが胸にこみ上げると同時に、どうしても僅かな苦みが混じる。……こうした繁栄も、すべて、数多くの領土を飲み込んで手に入れたものである。その事実に心地悪さを感じる自分は、実のところ、軍人に向いていないのではあるまいか。ウォルテールはときどき、そんなとりとめのないことを考えることがあった。


「……ん」

 ウォルテールはふと、水路に渡された小さな橋の上で足を止めた。ひとつ先の小路から、見覚えのある小柄な影が出てきたのである。

「カナン?」

 声をかけると、少年はびくりと肩を跳ねさせ、それから驚いたように振り返った。顔を見てみれば、案の定、例の奴隷である。寒いのか、カナンは羽織っていた上着を胸元でぎゅっとかき寄せ、自らの体を抱くように縮こまっていた。


「ウォルテール、将軍」

 その声が自分を呼んだことに、ウォルテールは多少の驚きを覚える。この少年は自分を憎悪しているはずだ、と、ウォルテールは思っていた。それが、まさか名を呼び返し、自分が歩み寄るのを待つように立ち止まっているとは。


「こんな早朝から、一体何を……」

「それはこっちの台詞だな」

 ウォルテールが大股で近寄ると、カナンは顔を強ばらせ、更に小さくなりながら見上げてくる。怖がらせるのは本意ではない。ウォルテールは一歩下がってから、腕を組んで首をひねった。

「また、エウラリカ様の我が儘か?」

 まさかこんな朝っぱらから外を出歩く趣味があるとは思えない。そう考えて放った問いに、カナンは咄嗟に「いえ」と答え、それから曖昧な声で「いや……」と首を竦める。


 あまり触れて欲しくなさそうな顔をしているので、ウォルテールは少し躊躇ってから、話題を変えることにした。

「そういえば、ポネポセアという花は知っているか」

「ポネ……ポ……?」

 ぴんと来ない様子である。それもそうか、とウォルテールはため息をつく。リュナは西方の知識でポネポセアに関して知っていた訳だし、ジェスタ王国は帝国より北東に位置する国である。地域が全然違う。


 ポネポセアについての情報がほとんど何もない現状、事態は何も進まないだろう。深々とため息をついたウォルテールに、カナンはじっと視線を向けた。何か問いたげな表情に、ウォルテールは頭を掻く。



「……なるほど」

 簡単に経緯を説明すると、カナンは肩をすぼめ、背を丸めたまま頷いた。何やら思案するように、遠くをじっと見つめている。その横顔を眺めながら、ウォルテールは長い息を吐いた。白い息がたなびいた。

「結局、そういった訳で、どっちの言い分をことさらに信じることも出来ず、膠着状態って訳だ。居心地悪いことこの上ないよな」


 肩を竦めると、カナンは視線だけをウォルテールに向け、表情のないままに囁く。

「それでも、家族で年を越せるのが、どれほど幸福なことか」

 低く抑えつけられたみたいな声だった。言われて、ウォルテールは自分が甚だしく配慮に欠く発言を連発していたことに気づく。差し向けられる鋭い視線に、ウォルテールは思わず狼狽した。その事実にまた動揺する。……こんな小さな少年に睨み負けるとは。


「――申し訳ございません。身の程を弁えぬ恨み言でございました」

 カナンは慇懃に告げると、不意に体を翻し、小さく頭を下げた。寒さを堪えるように胸元で腕を交差させ、小さく縮こまったまま、少年がじっとウォルテールに向き直る。

「それでは、この辺りで」

 そう、暇乞いをしようとする、その視線があんまり仄暗いので、ウォルテールは思わず口を開いていた。


「俺のことを、恨んでいるか」

 カナンは、唇を引き結んでウォルテールを見据えたまま、眉をぴくりと上げた。

「……そうだろうな」

 馬鹿みたいな問いだと思った。無神経極まりない質問だ。蹂躙した者が、蹂躙された者に、憎しみの有無を問い、あまつさえ気遣うような態度を見せるなんて。

「いえ」とカナンは短く首を振った。先程の曖昧な返答とは打って変わって、ある程度の用意が見える応えだった。


「あなたが、自分の意志で、僕の祖国を攻め落とした訳ではないのですから」


 その言葉が意味することに気づくより早く、カナンは足音をさせずに、滑るようにウォルテールから離れた。足早に立ち去る背中が、角を曲がって見えなくなってから、ウォルテールは我に返る。冷たい風に頬を打たれてぶるりと体を震わせた。

「……帰るか」

 そう呟いて、彼は長兄の屋敷へ向かう歩調を早めた。家族の待つ温かい屋敷へと続く道である。



 ウォルテールが屋敷に戻ったのは、他の家族がぱらぱらと客間から出てくる頃だった。目を擦りながら大あくびをする次兄に軽い挨拶をして、ウォルテールは外套から腕を抜いた。何となく思うところがあって、ウォルテールは口を開く。

「兄上、」

「ん?」

 使用人に外套を預けながら、ウォルテールはオーゼルを呼び止めた。オーゼルは眠そうな目をぱちぱちさせて、ウォルテールを振り返る。


「その、……いつも、ありがとうございます」

「何だロウダン、いきなりそんなこと」

 オーゼルは大きな口を開けて豪快に笑うと、音を立ててウォルテールの背を叩いた。

「何かあったのか? ん?」

 気安い調子で肩を抱いてくる次兄に、ウォルテールは小さく笑う。オーゼルは少し不思議そうな笑顔で、居間へとウォルテールを連れていった。


 居間では、他の家族たちがほとんど勢揃いして、朝食を食べている。ウォルテールとオーゼルが揃って入ってくると、長兄のルージェンが片手を挙げた。弟が顔を輝かせる。両親が穏やかな笑みで二人を迎え入れる。

「……この光景の何と貴重なことかを知っていますか、兄上」


 ウォルテールは掠れた声で囁いた。オーゼルは「おう、もちろんだ」と元気よく応えたが、きっと自分ほどにはそれを痛感してはいないだろうな、とウォルテールは思っていた。

 これは、今までに自分が、数え切れない人間から奪ってきた光景なのだ。それの善悪を問うことは今更しないけれど、……自分がその温かさを噛みしめるくらいは許されよう。


 クナエイアが起きてくる。彼女は居間に入ってきて早々に長兄夫婦と視線が重なってしまって、あからさまに強ばった顔で目を逸らした。けれど、その表情からは険はだいぶ抜けている。ウォルテールを初めとした全員が、こっそりと胸をなで下ろしたようだった。


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