夕七ツ
飴でも買って来てやってくれ。泣き疲れて眠る衣都さんを見下ろして灯籠は言った。
そんな子供騙しなことしたら、衣都さん、また怒るんちゃうの。そう笑った私に、泣かれるよりはその方がいいからよ、と困ったように笑って。
時は夕七ツ。宴会まで休む、と衣都さんは座敷を出た。
私はと言えば「灯籠の使いで」と見世を出て、飴屋を探す。いつもの屋台は今日は運悪く出ていなかった。
どんなに衣都さんが泣こうが、お歯黒溝に女郎の死体が浮かぼうが、乙原は何も変わらない。夜見世のために湯屋へと向かう素顔の女郎たちはやはり到底女には見えないし、働く喜助や若衆の六尺法被から伸びる脚はなまっちろい女のものだ。
衣都さんが言うように、ここはおかしいのだろうか。外の生活はどんなだろう。
客の誰かが言った。灯籠は観音様みたいだって。極楽浄土の夢を見させるんだって。ならば、あの門の先はやっぱり地獄なんじゃないかと思う。少なくとも、女達にとっては。
ぼんやりとそんなことを考えながら歩いていたら、いつの間にか大門まで来ていたらしい。じろりと会所の楼主に睨まれて、慌てて懐から通行切手を取り出した。
普通、女郎や喜助にはそうそう通行切手は与えられない。
年季明けに一度だけ貰えるんだよ、と
答えは簡単、中に灯籠が居るからである。
灯籠が乙原に居る限り、次郎は逃げない。三雲さんのしたり顔が目に浮かぶようで、ひとり、苦笑いを浮かべる。
そんな私の視界を掠めた影。一瞬、幽霊かと思うほどにおぼろげなそれは、背の高い町人風の男だった。
見返り柳かと思った。
乙原には、吉原を倣って大門の先に一本の柳が植えられている。吉原と同じく、女郎に見送られた客がそこで名残惜しげに振り向くことから、「見返り柳」と呼ばれている。
その、揺れる長い枝のように。ゆらりゆらりと覚束ない足取りで歩む男の異様さに、首の後ろが痺れる。
ずり、ずり。やけに重たげな左の草履の音で、彼が右手で懐に隠し持つものがなにか、分かってしまった。
「もし、旦那さん」
「…………」
「乙原での男の抜刀は、死罪ですよ」
そう、振り返る隙すら与えず、男の背に、鞘に入れたままの短刀を押し付けた。一瞬、びくりと震えた背中。振り返ったその伊達男に、思わず声を上げそうになる。
「ああ、本当だ。男の女郎と、女の若衆って噂は嘘じゃなかったんですね」
「……あんた、」
「いいんです。……もう、いいんです」
「あんた、勘右衛門さんか」
「え」
幽霊のようなその男……羽柴家の庭師、勘右衛門はそう、薄く開いた唇を震わせた。
日に焼けた顔。粉っぽい土の香りと、甘酸っぱい花の蜜と青草の香り。土で汚れた指先は、男が庭師であることを物語っていた。
「なぜ、俺の名を」
「衣都さんから聞いた。全部」
「やっぱり、衣都さんはこの中に……?」
「待て待て待て!」
衣都さんの名を聞いた途端、目に殺気を渦巻かせて大門へと向かおうとする男の帯を引く。ああ、くそ。男に力では適わへん。
ずるずると地を引きずられながら、それでも懸命に男を止める。このままでは番所で取っ掴まるのが関の山なのだ。
「落ち着きぃや! まだ無事や、あんたのお姫さんはまだお
「それも時間の問題でしょう!」
「せやけど! 待って! 落ち着いて!」
やっとの思いで止めた男は、日に焼けた顔を苦悶に歪め、そうして蹲る。
握った拳を震わせて、そこから零れ落ちた誰かの温もりを思い出すかのように。
「離さないって、言ったんです」
「……仕方ないやろ。生まれは変えられへん」
「衣都ちゃんは、こんな俺なんかと一緒に逃げると言ってくれたのに、俺は、」
俺は。握り締めた手が、歯を食いしばった頬が、きしんで音を立てる。
それに引っ張られるみたいに、私の胸がまた、きしむ。
「今度こそ、もう、離さないって決めたんです。だから……、俺は、行きます」
「……女連れて逃げるんは並大抵のことやないで。羽柴の家どころか、乙原のモンも追うやろう。地獄の果てまでな」
私の言葉に、勘右衛門が笑う。薄く、息を吐くみたいに。溺れた人間が、喘ぐように。
「衣都ちゃんが居ないなら、同じです」
衣都ちゃんが居る地獄なら、その方がずっといい。まっすぐにそう言い放った男。
それほどまでに人を愛するというのは、どんなだろうか。張り子でも、あぶくでもない愛とは。
男の合わせから脇差を奪う。そうして、自らの短刀を代わりに押し込んだ。
「なにを、」
「長旅に脇差は不向きや。今晩、夜四ツ、引けの頃に大門の先、見返り柳で待て」
「……なにを」
「なんてことないわ」
夢の続きを、見てみたい。それだけだ。
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