昼九ツ
今は昔、乙原が全盛期だった頃は乙原にも太夫が居て、仲之町を道中したという。
女郎の最高位、美と教養を兼ね揃えた太夫は初会の客とは言葉を交わさない。
初会、二会目――裏を返す、とも言ったか――を経て、三回目の登楼でやっと馴染みになり、太夫が客を気に入れば床に入る。
もちろん、今の乙原に太夫は居ないし、そんな習わしもない。
しかし、このご時世にそれをやれと言って来た客が居る。他でもない、灯籠を指名した今日の客だ。
聞けば、その娘は大層有名なお武家様の息女だとか。そんな娘がなぜ、嫁入り前に乙原なんかに? 私の言葉に、
しかし、先方は二日も三日も乙原に通う気はないらしく、一日での床入りを要求した。
昼九ツからの昼見世で初会、暮六ツからの夜見世で二会目のていで宴会を開いて、夜四ツの頃には『
つまり、娘さんは
そうして、時は昼九ツ半。お武家の悲劇のお姫様がどうなったかと言えば、事態は思わぬ方向へと向かっていた。
「絶対に、イヤじゃ」
次郎さん、ちょっといいかい。いやあ、それが、灯籠兄さんもほとほと困っちまってね。
喜助見習いに髪の結い方を教えていた私にそう、襖の間から顔を覗かせた水月は困り果てたように言った。
要領を得ないその言葉に、仕方なく向かった灯籠の座敷にて。
初会の「てい」で愛想なしなのは灯籠であるはずなのだが、そこでむくれていたのは、正しく、件の姫君――大層名門であるという
「男、わたしに指一本でも触れてみよ、この場で舌を噛んで死んでやるからな」
「やめろ、畳を新しいのに変えたばかりだ」
息巻く娘を呆れたように見つめながら、灯籠は小指で耳を掻く。武家のお姫様の前でなんてことを。そもそも、初会は客と言葉を交わさないのがしきたりのはずだ。
「そんなこと言ってる場合か、次郎」
「
「な、次郎。この通りだ」
どうしたもんかね。さして興味もなさそうに小指の先に息を吹きかける灯籠が説明するに、つまりはこうだ。
羽柴家の長女、
「はー、これまたありがちな」
「勘ちゃん、わたしと
「はー、」
二度目の「ありがちな」を引っ込めて、灯籠は饅頭にかぶりついた。
桔梗屋の二階、灯籠の座敷で、私と灯籠、そして羽柴衣都は膝を突き合わせる。
最初こそ疑わしげに私を見つめていた衣都さんも、吹っ切れたのか、饅頭に手を伸ばした。
「それが、こんな……こんな事に、」
「嫁入り前にここに来るってこたァ、訳有りなんだろ? どうした、庭師との密会がバレでもしたか。それで家は大慌てで嫁入り先探して、あんたのその物慣れなさと気位を叩き直そうって躍起になってンだろ」
「……なぜわかるのじゃ」
「はー、ありがちな」
今度は私がそう呟く番だった。そんな私を衣都さんは「黙れ褌女」と詰るが、泣き腫らした目と鼻声では凄んでも怖くはない。
まるで幼子のように鼻をすする女にちり紙を渡せば、衣都さんはそれで盛大に鼻をかむ。そうして鼻を鳴らしながら、豪快に饅頭にかぶりついた。本当にお姫様か、この女。
自棄を起こす衣都さんに、灯籠はやりにくそうに顔を歪める。そして、諦めたように小さく息を吐いて、話し出した。
「お衣都さんよ、生まればかりはどうしようもねェよ。俺が兵庫結って、そこの次郎が褌締めてるみてェによ、あんたは武家のお姫さんなんだ。町娘みてェに、惚れた腫れたの話で茶は飲めねェ。わかんだろ」
「……勘ちゃん、わたしのこと、絶対離さないって……そう、言った」
「その庭師もどうなったか分かったもんじゃねェぜ、主人の娘に手ェ出したんだからよ」
「灯籠!」
衣都さんにそこまで言うのは酷だろう。袖を引いた私を見下ろして、灯籠は舌を打つ。
「どうにかしてやりてェが、あんたが家のために嫁入りするように、俺らもここで見世のために仕事をするしかねェんだ」
衣都さんは何も言わなかった。くしゃりと、手の内でちり紙が潰れる音がする。
「夜見世までに心決めて、あとは目ェ瞑ってりゃあいい。その勘右衛門って男のことでも考えてな、すぐに終わるさ」
「……そのあとは?」
ここで花を散らせて、そのあとは。
嫁入りのことを言っているのだろう、衣都さんは不安げに私達を見つめて、言う。ここを出たあとは何を考えていればいいのだ、と。
「いつ、終わるの」
「……大門の外のことは、」
そう、言いかけて。灯籠は口を噤む。
大門の外。私と灯籠が知る由もない場所。乙原女郎の見せる夢は、大門を潜ればあぶくのように溶けて消える。
そのあと、は。
「……すまねェ」
らしくもなく杯の酒を乱暴に煽って、男は言った。血でも吐き出すかのようなそれに、胸がきしんで音を立てる。
真新しい畳に転がった杯。酒の滴る漆のそれが、男の……そして、女の、血のようで。私は何も言えずに、目を伏せた。
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