昼四ツ



 お歯黒溝はぐろどぶに女郎の死体が浮いた。角町にある桝梅楼ますうめろうのなんとかっていう女郎だという。


 情婦まぶに惚れ込んじまったみたいだよ、と。隣町の置屋おきや喜助きすけが興味本位の下卑た声で囁くのに生返事をして、見世みせの暖簾を潜る。


 なにが間婦まぶや。どんなに好いとろうが、死んだらそこで終いやろう。

 襖を開けて開口一番、詰るようにそう言った私に、窓辺から外の騒ぎを見下ろしていたらしい灯籠とうろうはからからと軽快に笑った。


「違いねェが、それァテメェが門の向こうの女に惚れたことがねェからだぜ、次郎じろう


 そう、おかしそうに黒子のある口元を撫でる男。ここ、桔梗屋ききょうやの看板、座敷持ざしきもちの灯籠は仕度用の鏡の前へと腰を下ろす。


 時は昼四ツ半。早く仕度をしなければ昼見世ひるみせに間に合わないというのに、灯籠は化粧もせず、呑気にあくびを浮かべている。


「そう急くなよ、次郎。張見世はりみせには出なくていいんだろ? ゆっくりやってくれ」

「何遍聞いても奇妙な話やな」

「昼見世のことかィ? 初会だの二会目だの、いつの話だってのな。ま、面目だけは保ちてェんだろ、お武家さんともなりゃアよ」


 まるで水のように指の間からすり抜ける灯籠のしなやかな黒髪にコテをあて、鬢付け油をなじませて横兵庫に結い上げる。

 時折、後ろ手で私に櫛や紐を差し出してくれながら、灯籠もまた、白粉を叩き、紅で自らの顔に化粧を施していく。


 今日、灯籠は張見世には出ない。差紙さしがみ――これもまた死んだ習わしではあるのだが、見世に直々に書状があったのだ。


「昼見世で初会、そのまま夜見世よみせで宴会して床入りてなぁ。娘さんも気の毒に」

「酔狂な家に生まれた事を恨むしかねェよ」


 結い上げた髪に飾り紐をつけ、二枚の櫛と八対の簪をさす。男の灯籠でも首の骨が軋みそうなそれらを、吉原や島原では女がつけているという。

 それが嘘か誠かは私には知る由もないが、本当ならば恐ろしい話だ。


 化粧を終えた灯籠に着物を着せる。胸や肩まではたいた白粉が付かないように大きく襦袢の襟を抜き、着物を重ねた。


 淡い藤色のそれは、金糸で刺繍の施された一等上等な着物だ。同様に、灯籠の持つ一番上質な黒の西陣織の帯を前で結べば、京町二丁目『桔梗屋』の看板女郎、灯籠の出来上がりだ。


 切れ長の目尻を跳ね上げる紅。白い瞼の淵には長い睫毛が並び、伏し目がちな黒の瞳に簾を作る。形のいい薄い唇。そこを飾る紅。


 そこんじょそこらの役者なんかより男前で、きっと吉原や島原の女郎たちより美しい、私の女郎。

 灯籠は今年、十九になった。


 それでなくとも高い上背が、兵庫髷のせいで凄みを増す。灯籠がさすと、べっ甲の簪がまるで後光のようだと客の誰かが言っていた。灯籠は極楽浄土を見せてくれるのだと。


「勘違いすんなよ、次郎。俺らが夢見せてやれんのは、大門からこっち側だけだ」

「……うん」

「その先に何があるかなんて、考えんな」


 今日もまた、乙原の大門は開く。

 女郎たちは格子越しに客に煙管を差し出し、二階に上がる。


 そうして、ひと時ばかりの夢を見させてやるのだ。大門を潜れば覚めてしまう、あぶくのような儚い夢を。


 乙原の客は主に、家や旦那に不満のある奥様方や、夜伽の教育のために連れて来られるお嬢様だ。本気で女郎に入れ込んでいる奥勤めの娘たちもいる。旦那に操立てする気がさらさら無くて、いっそ清々しいくらいだ。

 本来ならば、女房の不貞は大罪。しかし、乙原での行為は「不義密通」に問われないと聞いた。

 これも嘘か誠か確かめる術などないが、誠であろう。でなければ、乙原がこんなにも栄えることはなかったはずだ。


 表向きには吉原島原と並ぶ遊郭である以上、乙原女郎たちは女の格好をせざるを得ないという運びである。


灯籠兄とうろうにいさん、大門が開くよ」


 襖から顔を出した新造しんぞう水月すいげつに「あいわかった」と短く返事をして、灯籠は立ち上がる。

 綿の入った打掛けが翻った拍子に、彼が好んで焚いている香の香りが鼻先を掠めた。


「行って来る」

「へえ、お気張りなんし」


 今日もまた、乙原の大門は開く。

 恋など知らぬ私は、今日もまた、愛の張り子を売りに行く灯籠の背を見送るしかない。




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