終幕—致死量の愛を貴方へ

「ただいま」

その声に「おかえり」と返事を返してくれる声はなく、空っぽの部屋に、そんな言葉が虚しく響いた。うっかり涙を零しそうになるのを堪えて、靴を脱ぎ、部屋に上がる。ぺたぺたという私の足音だけが響くことに虚しさを感じつつ、私はリビングに置いてある大きなソファの上に、ごろりと寝転ぶ。そんなだらしない行為を咎める声も、もう、ない。ついに堪えきれなかった涙がじわりと視界を滲ませたのを感じ、私は慌てて、手の甲で涙を拭きる。ああ、虚しい。虚しくて、寂しくて、寒くてたまらない。


彼女が結婚して、この部屋を出て行ってから、早くもひと月が経とうとしていた。



**

彼女の結婚からひと月経つというのに、私は未だに、このひとりぼっちの部屋に馴染めないままでいる。ここに彼女が帰ってこないという事実を認めたくない、そんな思いが、私の心の中でぐるぐると燻っていた。彼女の声が返事をしてくれることを期待して、帰る度に「ただいま」と声を掛けてしまう。彼女が帰ってくることを期待して、ご飯を2人分、作ってしまう。寂しくなる度に、彼女の声を聞きたくなって、彼女の名前を呼んでしまう。私はいつだってこの部屋の中に、彼女の影を探していて、しかし、そうやって彼女の影を探す度に、彼女がもうここにはいないことを痛感して、ぼろりと涙を零してしまうのだ。そうやって、未練たらしく彼女の影に縋り付くことで、私はどうにか、毎日を生き延びていた。

そうでもしないと、息の仕方さえ分からなくなってしまいそうだったから。彼女のいなくなってしまった私の世界はひどく味気なくて、私は、この世界で生きていく術さえ見失ってしまったような、そんな虚無感を抱いたまま、日々を生きていた。

だから、そんな私が、それを実行に移すのは、時間の問題だったのかもしれない。



**

それを見たのは、本当に偶然だったのだと思う。

きっかけは、やることもなくぼんやりと眺めていた、ドラマの中での出来事だった。

泥沼感が売りの、在り来りな恋愛ドラマだ。その中で、作中の女性が叫んだ言葉に、私ははっとして、テレビに釘付けになった。

ドラマの中で、その女の人は、確かにこう叫んだのだ。


「あなたと一緒に居れないならここで死んでやる」


そう、悲痛さを湛えた声で。確かにそう、言ったのだ。

それを見て、私の中で、何かが弾けたような気がした。そうだ。最初からこうすればよかったのだ。

彼女がいない世界が味気ないというなら。彼女が隣にいない世界に、生きる理由がないと嘆くのならば。

ひとりが寂しいと、涙を流す前に。気が狂いそうな虚しさを、抱えたままで生きる前に。

貴方を愛していたのだと、そう言って。

死んでしまえば、よかったのだ。



**

死んでしまえば、と。そう気づいてしまえばあとは楽だった。彼女に愛を伝えて、それから、なんて。嗚呼、なんて情熱的な最期なんだろう!久しぶりに、私の世界に光が差したような心地がした。いつ決行しよう、そう考えただけで、私の心はいとも簡単に浮き立った。

同僚には「元気になってよかった」と何度も言われた。彼女がいなくなってからの私は、余程元気がなかったように見えたらしい。どの人も安心したようにそう言っていたが、私にとってはどうでもいいことだった。何十人の同僚に安心される事より、彼女への告白を考えることの方が、私にとっては大切なことだった。

彼女への告白は、手紙を送ることにしていた。彼女の新居の住所は、彼女から直接聞いている。死ぬ直前に、ポストへ投函すればいいと、そう思っていた。

死ぬための、告白への準備は、着々と整っていく。あとは彼女への恋文だけ。これさえ用意できれば、長年のこの想いに、ようやく終止符を打てるのだ。

興奮で震える手を叱責しつつ、私はひたすら筆を動かした。大好き、愛してる、そんな陳腐な言葉をひたすら詰め込んだだけの稚拙な恋文だったけれど、それでよかった。

貴方のことを愛していた。貴方が私の世界の全てだった。それさえ彼女に伝われば、私はそれだけでよかったのだ。

そして、ようやく、私の恋文は完成した。封をして、切手を貼って、住所を書いて。それからそれを、近所のポストへと放り込む。

私はそこでようやく、安堵の溜息をついた。


もうこれで、この世界に未練なんてない。



**

かつて彼女が暮らしていた部屋の中央に、椅子を持ってきて立つ。

彼女の残滓を少しでも感じられるこの場所こそ、愛の告白の舞台には相応しいと、そう思ったからだ。すう、と息を吸い込めば、彼女がいつも漂わせていた甘い香りが体内を充たしたような心地がして、こんな時なのに、嬉しくて思わず笑みが零れた。


好きだった。大好きだった。世界で一番、私は彼女を愛していた。

彼女は私の全てで、私にとっての光だった。


「……大好き、だよ」


そんな言葉とともに、ぽろり、とひとつ涙が零れた。その涙が、喜びから溢れたものなのか、はたまた悲しさから流れたものなのか。今の私には、もう分からなかった。

後に残ったのは、彼女を想う、執着じみたこの愛だけ。

だから。どうか。


—願わくば、最初で最期のこの告白が、貴方の心に、一生消えない疵を残しますように。




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