喪失—世界から貴方が消える日に

「私ね、結婚するの」


しあわせそうに笑いながら告げられたその言葉に、私は、目の前が真っ暗になるような心地がした。

彼女は私の友人で、きっと、世界中の誰よりも大好きな人で、そして、私が恋した人だった。彼女のために、自分の人生すら捧げてしまっていいと思える程、恋焦がれていた。

それは、幼い頃からの片思いだった。初めて会った時から、私は彼女の全てに心を奪われてしまっていたのだ。

だから、私はいつだって、彼女がやりたいことに付き合ったし、彼女の行きたい場所へついて行った。高校も、大学も、志望校から滑り止めまで、全て彼女とおんなじにしたし、大学に入る際、彼女がルームシェアをしたいと言えばその相手に立候補した。彼女がルームシェアを続けたいと言うから大学を卒業してからもこの部屋に住み続けたし、彼女のそばにいたいから、職場だって、この部屋から通いやすい場所に決めたのだ。

私は、そんなふうに生きてきた女だ。私の人生に、私の意思なんてこれっぽっちもなかった。彼女と出会ってから、私の世界は彼女を中心に、回り続けていたのだ。

周りになんと言われようと構わなかった。彼女にだって、都合のいい女だと思われてよかったし、むしろそう思っていて欲しかった。

都合のいい女でいい。そんな関係でいいから、私は彼女のとなりで生きたかっただけなのだ。


それなのに。

それなのに、どうして。


そんなささやかな願いでさえ、この世界は、叶えてくれないのだろう。



どうして、と思ったところで彼女の結婚が解消される訳もなく、私はぼんやりと、どこか嬉しそうな表情で、荷物をまとめていく彼女を眺めていた。蕩けるような笑顔を浮かべてひたすら段ボールに荷物を詰める彼女はとても幸せそうで、この表情を引き出したのが自分じゃないことが、どうしようもなく悔しかった。

今は4月。結婚式は6月だと聞いている。花嫁が幸せになれるという言い伝えがあるからだろう。そういうことを鵜呑みにしてすぐに実行したがる彼女は純粋で愛らしくて、昔と変わらない、私の大好きな彼女のままだと思った。

ちらり、と彼女が使っていた部屋を覗き見る。段ボールが積まれた部屋は、随分閑散としており、もうじき、彼女がここからいなくなってしまうという事実を如実に伝えてきた。

ああ、寂しいな。純粋にそう思った。

この部屋から全ての荷物が消えてしまった時、私は、その事実に耐えられるのだろうかと、ふいに、そんなことが頭をよぎった。

「大丈夫よ」

気がつけば、荷物をまとめていたはずの彼女は、私の方を振り向いてにこにこと笑っていた。屈託のない、純粋な笑顔。彼女を構成するあらゆるものの中でも、私がいっとう大好きな笑顔だ。この笑顔を近くで見られなくなるのが悲しくて、じわり、と涙が滲む。その涙を目にしたのだろう、彼女はどこからともなくハンカチを取り出すと、私の目尻に浮かんだ涙の雫を、そっと拭き取った。

「大丈夫。たまには遊びに来るから」

そう言って、また彼女はにこりと笑う。

きっと私が寂しがっていると、そう思ったからこその言葉なのだろう。

その気遣いが、痛いくらいに嬉しくて。

だけどそれなら。私を置いていくのが不安だと言うのなら。どうして、私のことを置いていこうとするの、と。私をひとりにしないでよ、と。そんな本音を口にすることは、できなかった。



「……ただいま」

パタン、とドアを閉める音が虚しく響く。慣れないヒールを適当に脱ぎ捨てて、部屋に上がる。だけどそれを咎める声はもうなくて、その事実に、胸がじくじくと痛みを訴えた。

どさり、と空っぽになった部屋に、手に持っていた荷物を雑に置く。そして、綺麗なドレスが皺になるのも気にせず、床に乱雑に座り込んだ。なんだか酷く疲れていて、何もする気になれなかった。

今日は、彼女の結婚式だった。本当は行きたくなんてなかったのだが、彼女が絶対来てね!と言うから、仕方なく参加することにしたのだ。知らない男のとなりで笑う彼女は悔しいくらいに綺麗で、そんな姿にさえ胸が高鳴る自分に、なんだか無性に腹が立った。

綺麗な彼女の姿を思い浮かべながら、結婚式の会場で手渡された紙袋の中身を漁る。食べ物が入っているなら、早いうちに消化しておかなければならない。そう思いながら、袋の中に入っているタオルやカタログギフトをかき分けていくと、袋の底のほうに、お菓子のような箱があった。手に取って蓋を開ける。

中身はバウムクーヘンだった。まるまるひとつ、箱に収められた甘いお菓子。それを分け合える相手は、もうここには居ない。

ひとりで食べるなら切り分ける必要もないか、と。そう思った私は、びりびりと包装を破り、手掴みでばくりと、バウムクーヘンに齧り付いた。

甘いはずのそれは、なぜだか、しょっぱくてほろ苦くて。恋の終わりを突きつけられるような、そんな味がした。

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