第8話/誰がためのバレリーナ

 朝。目を覚ます。

 鏡。私を認識する。

 私。私、を…

「――――!!!」

 爆発的な衝動が私を襲う。咄嗟に自制しなければどうにかなっていた。あまりの吐き気に壊れてしまいそうだった。私のいつも通りが失われていたのを今更ながら理解する。

 不完全なルーティン。自分自身がそれを拒んでいる。

 感覚が鋭敏になっている。自分を降ろしていくのが嫌だ。いつも当たり前のようにこなしていた私を殺すという作業がとんでもない過ちに思えてならなかった。

 私の内は拒絶という黒で染められた。それは何も失うことに対してだけではない。これまでは抑えつけられていた私の自我が堰を切ったように溢れている。

 私。私。私。私。私。私。私。私。私。私。私。私。私。私。私。私。私。私。私!!!

 みっともない自己主張の氾濫。経験したことのない衝動が私の存在を加速する。

「あ…」

 母の足音が近づいてくる。私の一日がはじまってしまう。

「おはよう」

「おはようございます」

 8時きっかりの食事。決められた行動。気持ちが悪い。気持ちが悪い。気持ちが悪い!

 私の生活はどうしてこうも縛られているの。私はなんのために生きているの。

 そこでようやく悟った。私に染み付いてしまった生き方を。私はもう、私を知る人に、私を偽って接することしか出来ないでいる。誰かの求める私であり続ける。その行動様式がどこまで行っても抜けないのである。

 それでも心だけは否と訴えてくる。それは嫌だと叫んでいる。

 自分を否定することで得られる自己承認。

 自分を肯定することで得られる自己満足。

 どうしようもない行き止まり。解決不能な矛盾した論理。私はもはや絶望の中でしか生きられない。

「もっちー、おはよー」

「おはよう」

「やー昨日は楽しかったねー」

「そうだね」

「そう、聞いて聞いて、高橋君さ甘いものが好きなんだってさ。スイーツ巡りとか結構するみたい。意外じゃない?」

「確かに、あんまりイメージないかな」

 会話が上手く噛み合わない。凛の発言をただ反復することで精一杯だった。いつもならどうするか、なまじそれが分かってしまうから一層辛い。喋れば喋るほど、溝が深まっていて、到底埋めることは出来そうになかった。

「もっちー?」

「……?何?」

「なんか今日、らしくないね」

「え」

「いつもはもっとクールにさ。興味ないからって感じじゃん」

「そう、かな?昨日久しぶりに遅くまでご飯食べてたから、疲れちゃったのかも」

「なるほどねー。昨日みんな凄かったもんねー。もっちー途中で帰っちゃたから分かんないと思うけど、最後の方とか……」

そうか。

 ああ、そうか。

 いくら私が変わろうと。私が怯えていようとも。それは貴方たちには関係のないことなのね。

 らしくないって、そう言えるのは私だけじゃないの?

 大学が終わる。家に帰る。戻らなければいけない。

 いつも通りの帰り道。見慣れた風景。街並み。におい。音。何もかもが、昨日までと変わらないはずなのに、言いようもない焦燥感に襲われる。まるで、独りだけ別の世界に飛ばされたような、自分と世界とが乖離した異常。みんな、こんなことを当たり前のこととして生きているのか。

「望月」

 不意に声を掛けられる。振り返るとそこには昨日と同じ顔があった。

「高橋君」

「…よ」

「どうしたの?」

「…今、帰りか?」

「うん。そうだよ」

「途中まで着いていっていいか」

「全然。いいよ?」

 並び立って、歩き出す。高橋君は何かを気にするように、そわそわしていた。

「望月は、普段何してるんだ?」

「普段って?」

「暇なときとか」

「そうだね、…本読んでることは多いかな」

「へえ。何か、ぽいな」

「そう?」

「何となく、だけどな。静かに読書してるのは様になってると思う」

「そっか。ありがとう」

 昨日、散々使い回された質問が投げ掛

けられる。昨日と同じように返してしまう。昨日のことなんて思い出したくないのに。こんなことが話したいのなら、他の人でやってほしい。

 高橋君は、けれど、これで満足している訳ではなく、本題はまだ別にありそうだった。

「こんな話がしたいわけじゃなくて…だな」

「?」

「やっぱり様子が変な気がしてさ。何か気になって」

「何も変わらないよ」

 遮るように、そう告げる。変わらない。変えれない。変えたら私じゃない。そうやって強制するのはそっちなんだ。だから、もう、放っておいてよ。

「気にしすぎだよ」

「ん…-」

 それでも彼は引き下がらない。一体、何なんだ。他に何か言ってほしい言葉があるというのか。どうしたら貴方の自尊心は満たされるの?

「でもさ」

「何?」

「やっぱり、気になるんだ」

「どうして?」

 昨日宜しく、小綺麗なお節介をしてくれるかと思ったのだが、彼から発せられた言葉は、想像の範囲を超えていた。

「お前のことが好きなんだ」

「……」

「だから、余計に気になる」

 あまりの皮肉っぷりに吹き出しそうになる。私という焦点の曖昧さで苦しんでいる人間に、好きという言葉は圧倒的な程、滑稽に響く。どんな美辞麗句を並べても、胸のうちには届かない。貶された方がよっぽどましだ。褒められたって惨めになるだけだ。

 何度だって言ってあげる。何も知らない貴方では、私の内には届かない。

「ありがとう。でも私、今は誰とも付き合いたいって思えなくて。ごめんなさい」

 もう言うべきことはない。聞きたいこともない。これで話は終わりだと早々にその場から立ち去った。 

「おかえりなさい」

「ただいま」

「今日は――」

 極限の吐き気を理性でどうにか飲み下す。こんな夕食は初めてだ。

 どうあってもここから出られないという事実が今まで感じていた自由を蝕んでいる。

 必死にこの地獄から逃げたくて、私は虚構の世界に潜り込む。信号の羅列が躍っている。無機質であって、有意義だった私の世界。だけどそれもかつての幻。私を生み出した電子の世界は私すらも拒み始めた。違う。拒んでいるのは私の方だ。私が画面の中で生きられたのは此処にもまだ希望があったからだ。誰かが私を受け入れてくれるかもしれない。私が演技をしているから誰も私を知らないから、出来ないだけ。全ては私の匙加減。私は何もかも分かっていて、どんな行動だって、それは敢えてのものだった。

 と。子供みたいな言い訳を、子供みたいに信じていたのだ。

 幻が解けていく。明らかにされるのは剥き出しの自分だ。操っていたはずの私が、実は人形の言いなりだった。糸が縛り付けていたのは、私の方だ。考えもしなかった。願いが叶わないことが救いになることもあるなんて。

 苦しい。とても苦しい。息なんてとてもじゃないけど吸えないくらい。

 希望は消えた。妥協もできない。残されたのは全てを受け入れるか、諦めるかの二者択一。そのどちらもが私を責める罰に思われてならなかった。どちらにせよ、それは自分を殺すことに他ならない。ただしそれは自らの手によってではなく、見えざる誰かの手によって。

 ああ…それは嫌だ。それだけは、嫌だ。何もかもが自分の意思でどうにもならなかった私。だけど、この結末だけは、誰にも決められたくなかった。

 電子の海に手を伸ばす。

 これがきっと、私の最後の選択だ。

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