第7話/現実と私
そうして、再び朝がやって来た。なにも違わないと思っている朝だ。変化があるとしたらそれは己の内面だろう。昨日のライブの熱が覚めきっていない。何も音楽の余韻だけではない。むしろ、私の心を満たしているのは人と触れあったあたたかさだろう。久しぶりに味わった通じ合うという感覚。それが私の中にまだ残っている。
「おはよう」
母の声がする。とは言っても私の毎日は変わらない。今日も一日、いつも通りをこなすだけだ。
ここから先は早回し。体感的には無いに等しい。朝食を済ませ、大学に行き、凛と話し、講義を受ける。そうして待ち受けるのは合コンの夜。私の今日は、まさしくここから始まった。
私がお店に着く頃には、もう大分集まっていた。男女6人ずつのコンパみたいだ。ざっと顔を合わせてみても男性で知っているのは、一昨日熱烈な紹介をされた高橋くんだけだ。女性は殆ど、顔見知りではじめましての方は一人だけだった。まあ、言わずもがなだけど、凛が高橋くんと仲良くなりたいから設けた場なんだろうな。他の人が理解しているかどうかはともかく、私は凛の邪魔をしないように心がけよう。
「みんな、ちょっと早いけどもう大丈夫みたいだから入っちゃおう」
と、高橋君。凛が幹事なのかと思ったけど違うのかな。なんて思っていたら本当にそうで、仕切りも全部、何もかも高橋君がやっていた。
合コンに来るのは、はじめてだったので最初は雰囲気にのまれかけたけど、こんなものかと思えてからは、気負わずにいられた。
「望月さんは普段何しているの?」
「好きなものは?」
「猫と犬だったらどっち派?」
とにかく、質問攻めされる。この質問何回目だろうってくらいには聞かれている。違う人ならまだしも、同じ人から同じ質問が来るのは、ちょっとウザい。酔っぱらいは同じ話をしたがるのって本当なんだ。でも取り敢えず、適当に相槌をうっておけば済むので楽ではある。ただ、退屈だとは思う。同じことを繰り返すだけな状態程、無意味なことはないだろうから。
そんなこんなで全体が大分盛り上がってきた。結構、男女が一対一で話しているところも見受けられる。私は、付かず離れずを基本に、スルリスルリと躱しているから、適当なグループで適当に話をしている。
そこに。
「なにはなしてるのー?」
「俺らも混ぜてよ」
別で話していた二人がこちらのグループに入ってきた。名前が思い出せない。誰だったかな。かなり酔っているみたいだった。
「いいよいいよー。今は自分を動物に例えるならって感じ」
「なるほどな。俺はライオンかな。ガオー、食べちゃうぞー」
「ちょっと止めてよ~」
悪酔いの典型みたいなやり取りを繰り広げている。傍から見てたらかなり寒々しいが、本人たちは楽しいのだろう。この流れで絡まれませんようにと祈っていると、案の定裏切られた。
「もっちーちゃんはー猫っぽいけど、実は犬?みたいな?」
「そうなんだ。自分じゃよく分からないや」
愛想笑いでその場を流す。分からないというのは便利な言葉だ。だって分からないのだから。分からないものは分からなくても仕方がない。言い訳としては全く意味がないのだけど、なんだか許さなくてはいけない気分になる。だって分からないのだから。やっぱりとても都合がいい。
それでも酔っぱらいは、めげない。話題を変えてあの手この手で、絡んでくる。
「え、もっちーちゃん彼氏とかいないの?」
「ちょっと、めっちゃ踏み込むじゃん」
「でも、気になるー」
「望月さん、すっごいモテそうだし」
「そんなことないよ。告白されたこと一回もないし」
「嘘だ―」
嘘じゃない。告白なんて物語の中で起きる出来事だ。嘘つき呼ばわりされてるけど、本当にないんだから止めてほしい。全然、興味がないのにちょっと惨めになる。
「あ、でも私、昨日、望月さんが男の人と二人で歩いているの見たよ」
昨日ってそれは。まさか見られていたとは。でも、まあ、それっぽいことを言って誤魔化しておこう。親戚とかそんな感じで。
「え?え?どんな感じの人?」
「何か、そんな冴えない感じの30ちょいのおじさん」
「何それ、そういうのがタイプなの?」
「意外―」
清々しいほどの思い違いだ。そもそもコトブキさんと付き合いたいかと聞かれたらそんなことはないし、まあ、でもかと言って付き合えないとも思わない。ありかなしかならあり。普通でもいいならそれを選ぶくらいの印象だった。特に年齢は気にしないし、コトブキさんとなら上手くやれそうだとも思った。
と、そういう話になったから、余計なことを考えてしまった。そろそろ言いたい放題の応酬を収束させないと。
「あのね、あの人は」
「あ、もしかして」
私の弁明を遮るように、誰かが言った。私はこの言葉を鮮明に焼き付けてしまった。深く深く奥底の部分に記憶してしまったのだ。それはある意味で大きな間違いだったのだろう。
「援交相手だったりして」
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――は?
あまりに脈絡のない単語に思考が完全に停止する。今、この人は何と言ったのか。私のことはともかくとしてコトブキさんのこと何と評したのか。金銭を対価に刹那の快楽に溺れる無為。そんな唾棄すべき下劣な人間と彼を同列に見做したというのか。
ふざけるな。そんなこと、中身のない付き合いよりよっぽど悲惨なことじゃないか…!
駄目だ。切り替えなきゃ。こんなのただの悪ふざけだ。よくあること。気にしたら負け。勘違いなんていつものことでしょう?ほら、いつもみたいにクールに否定しないと。そんなことないって。静謐の姫らしいよ、私。静かで安らかな、怒るなんて、憎むなんて、そんなこととは無縁な、私を……
私を。
いつから私は、私でいなければいけなくなったのだろう。
――望月さんはそんなことしないよー
――冗談きつすぎー
――ごめんごめん
耳障りな音がする。制御しようとする程に、私の中の歯車は音を立てて狂っていった。必死に止めようとしているのに、余りに音がうるさくて、ガリガリガリガリ、私を壊してしまいそう。
何も知らないこの人たちが彼を語るために持ちうるものは見た目の印象それだけだ。それでどうして蔑める。それでどうして貶める。この人たちが見ているものは一体なんだ。見ようとしているもの、見たいものは何なんだ。
黒い泥が溢れ出す。内から内から嫌悪が止まらない。だってその理由が分からない。私はどうしてこんなにも憤っているのだろう。何がこんなにも受け入れられないのだろう。こんなこと、当たり前だって分かってるのに。
もはや彼らが同じ人間だと思えなくなってきた。ゲラゲラゲラゲラ下品に笑って、何を考えているかも分からない。その中に私がポツンといて、どこまでも独りで、多数は向こうなんだって思い知らされる。どうして平然としていられるか分からない。あちら側が大勢な理由も分からない。
内輪で凝り固まって、自分たちが正しいって、まるで世界に他の人なんかいないみたいに。
ああ、もう、どうしてこの世界はこんなにも汚い。
「望月さん?」
誰かが私を呼ぶ声がする。私は生返事をするだけで精一杯だった。
…駄目だ。私はもうここにはいられない。
「ごめんなさい。もうすぐ門限だから、帰らなきゃ」
私はそう言い残して足早に店を出た。後ろでは、また勝手な憶測が飛びかっている。それに構っている余裕は、もうなかった。
「――――」
風の音が聞こえる。
闇を切り裂く音。空に星は見えない。街灯は眩しすぎる。嫌うようにして走る。
思考は正常に機能していない。空白が頭蓋を埋めている。ひたすらに漂白された理性で以て、私は暗がりの中へと融けていく。次第に感情だけは黒く塗りつぶされ、こびりついた文字が幾つも幾つも浮かんできた。
馬鹿げてる。馬鹿げてる。馬鹿げてる。
何だこの感情は。何だこの世界は。どうでもいいとあしらったのは誰だ。興味がないと宣ったのは誰だ。自分じゃないなんて嘯いて、全部が演技だなんて繕って。ほんの少しの綻びで、見るも無惨に消え落ちる。
どうでも良いと思っていた。誰も彼もが上辺だけで生きているのなら、私だってそうすればいいだけだから。けれど、それだけではないことなんて明らかだった。内面の繋がりで通じ合っている関係だってそこら中にいくらでも転がっていると。私はそれが信じられなくて、遠ざけて、ずっとずっと、こんな調子だった。
それを忘れさせてくれたのがコトブキさんだった。より厳密に言うなら思い出させてしまったの方が正しいのだろう。フィクションとか画面の向こうとか、もっと遠い世界の話じゃなくて、私のこの人生においても起こり得ることなんだと思い出させてしまったのだと。
そうか…だから我慢できなかったんだ。別の世界の出来事なら、無関係なものとして処理出来る。物心ついて以来そうしてたから気付かなかった。なんて浅はかな選択をしたのだろう。
胸が苦しい。息が詰まる。私の居場所が無くなってしまったと錯覚する。違う。そうじゃない。私の居場所なんてどこにもなかった。だって私は…私は今まで、何を思って生きてきたのだろう…?
「望月」
不意に声を掛けられ、反射的に振り返る。どんな酷い顔を向ける羽目になるかと思ったけど、流石は私だ。人前では小綺麗な仮面を被ったままだ。
「なに?」
「いや…特に用ってことでもないんだが」
じゃあ、なんで呼び止めたのよ。
「そう?高橋君、抜けてきて良かったの?」
「ああ、別にいいんじゃないかな。ある程度盛り上がってるし」
「幹事って大変よね。ありがとう」
「おう…」
「どうかした?」
明らかに何か言いたげな、様子。聞く義理もないけれど、聞かない理由もありはしない。過剰な反応は違和感を生む。さして興味がなさそうに、けれど無関心でもない。この匙加減はいつまで経っても難しい。
「店、出るときさ。何か辛そうだったから。気になって。でも今はいつも通りで、ちょっと…」
「………」
私の沈黙をこの人はどう捉えるのだろう。どういう訳か知りたくて、少しだけ重めの空気感を纏う。
「無理してるんじゃないかって。聞けることなら、相談、乗るよ」
まあ、およそそんなところだろうという回答が返ってきた。通り一辺、どこにでもある、ありふれた、そんな形容がお誂えの綺麗事。何も知らない癖に。知ろうともしない癖に。受け入れる覚悟もない人間は、こぞって綺麗事を使いたがる。きっと内面の弱さを少しでも補強しようとしているのだろう。そんなこと、すぐにボロが出るに決まってる。貴女のことが心配です。なんて。心配してる自分に酔ってるだけの偽善だし、悩みを相談した後に待っているのは、問題を解決したという自己満足だけ。何よりも、そのことに気付いていないのが滑稽だ。相手のことを想っていると思い込んでいる。
決め付けと言いがかりに満ちた思考。独断と誤解でしかない言動。
それが本当に、本当に、心の底から嫌いなんだ。
ああ…扱き下ろす程に、惨めになっていく。誰よりも外面を偽っている私が、一番、誰の、何も、知ろうとしていないじゃないか。
私がつき続けた嘘は、私を包む全てを呑み込んでいたんだ。
気付くのがあまりに遅かった。
だって。
私は。
もう。
「高橋くんは――優しいんだね」
こうやって、人を喰うような生き方しか選べない。
「別に…そんな」
ああ。ああ…!ああ!!あまりの醜悪さに叫ばざるを得なかった。私の中の善意が哭いている。他人を僅かばかりでも信じられない悪意が笑っている。私は間違い探しでもしているのか。何度味わえばいいのか。その顔を。その言葉を。誰も彼もがこぞって、そうする。決められた通りにしか動けないんじゃないかと疑ってしまう程、似たり寄ったりだ。機械みたいだ。いや…機械であってくれればどんなに良かったか。
なまじ心があるのを知っているから。
下手に何かを期待してしまうから。
本当に、機械であってくれれば良かったのに。
「私は大丈夫だよ。門限があるから帰るだけだし」
「なら、いいんだけど」
「うん」
「でも、無理するなよ。何かあったらいつでも」
「分かった。ありがとう」
そうして、彼はお店へ戻っていった。
そうして 私は暗闇へ進んでいった。
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