第3話/人形のダンス
「ただいま」
見知った扉を開けると、見知った空間が広がる。
高い天井、二階に続く半螺旋の階段、吹き抜けになっている玄関。その、奥から
「お帰りなさい」
母がやって来る。
「お父さん遅いみたいだから、先に食べてしまいましょう」
次に父の話。そして
「今日はビーフシチューよ」
夕食のメニュー。ここまではお決まりだ。
「待ってね。すぐに準備するから」
「ありがとう」
テーブルについて、夕食が出てくるのを待つ。私は特にすることもないので、いつも母を見ている。
エプロンを身に付け、手際よく作業している。どれ一つとして煩雑なものはなく、ある種、洗練された動き。指先まで意識が向けられているような流麗な振る舞い。母は、とても、美しい。キッチンは、母にとっての舞台なのだ。まるでそこで生きる女優のよう。そう、私に思わせるのだ。
私は観客、なのだろう。多分。
あまり自信はないけど。
母は別に、見られることを意識していないはずだ。ただ料理をしているだけで、ただ皿を並べているだけで、ただ、そこにいるだけだ。
だから、何というか観客というのはしっくりこない。母は演者ではないのだから。私が一方的に見てるだけで、一方的にそう思ってるだけなのだから。一度も、私がこんなことを考えてるなんて話したことはない。私がどう思ってるか、は、とにかくどうでもいいことだけど、母が何を考えているかは、結構、興味がある。
いつも出迎えてくれる母。交わす会話。整然と並べられる食事、食器類。決められたテーブルマナー。
それを、どうしてなのか、聞きたいのだ。
「はい。お待たせ」
「ありがとう」
「いいえ。いただきましょう」
「いただきます」
作法に従うようにして食事が始まる。静寂に硬質な音が点在していく。しばらくこのまま。母が口を開くまではこの沈黙が保たれる。
沈黙は私を思考の渦へと引きずり込む。
出来立てのビーフシチューはとても温かいはずなのに、冷たさを感じてしまうのはどうしてだろうか。
部屋の明かりは暖かなのに、どこか暗い印象を受けるのはどうしてだろうか。
整えられた母の顔立ちに、人形のような無機を感じるのはどうしてだろうか。
私の内心は私にしか分からない。どれだけ思考を回していようとも、それを面に出さなければ伝わらない。
こういう時――いや、いつもか。私は、この身体を離れ宙に浮いている。実体は差し詰めマリオネットで、私はそれを操る人形師。自分で言うのもなんだけど、操縦技術は一流だ。思った通りに、言われた通りに、求められる動作を忠実にこなすお人形。全てを思い通りにしか出来ないお人形。
「今日は何をしてきたの?」
母が言う。母は毎日、私が見聞きし、経験したことをちゃんと聞いてくれる。それはとてもありがたいことなのだと思っている。本当に。とても。
「今日は」
促されるままに話し始める。今日の話を。そうして思い返す。昨日のことを。そうして思いを寄せる明日のことを。
今日は、大学に行き、講義を受け、友人とカフェでお茶をした。
昨日は、大学に行き、講義を受け、友人とレポートの話をした。
明日は、大学に行き、講義を受け、友人と何かをするのだろう。
交換可能な毎日が過ぎていく。昨日と今日の境界線が曖昧になっていく。私の人生はいつ、何が起きても、特に変わらなかったと思う。別にカフェに行くのは今日でも良かった。行かなくてもいいし、他の事をしてもいい。私の今まではずっとこんなことばかり。一番大きな出来事は、多分、生まれたことだし、その後で何があったかなんて、答えられることはないんだ。何処にも行かなかった私は、この先もきっと何処にも行けない。過去と現在の区別が無いなら、未来の区別もないんだ。ただ、どこまでも惰性的に続く一筋の線が見えるだけ。揺らぎの無い、一つの収束点。そこに向かって、ゆっくり、ゆっくり、流れていくんだ。
しばらくして話し終わり、次いで食べ終わる。
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでした」
洗い物は私の担当だ。母のようにはいかないけれど、踊るようにこなしてみせる。
客観的に見れば、それなりに綺麗で、それなりに無様だろう。光は私に向けて当てられているようで、その狙いは大きくずれている。だってそこにいる私は――
「いつもありがとう」
唐突にそんなことを言われた。私はいつもこんなことをしているのか。と、他人事のように思った。
「いつもご飯を作ってくれてありがとう」
そう返事をして、私はリビングを後にした。
夕食の後は直ぐにお風呂を済ませることになっている。脱衣所には着替えが用意されている。それに倣うようにして、今着ている服を並べていく。左から順に下着、インナー、スカート、トップス、アウター。ここまでが帰宅してからのルーティーンだ。
浴場に入る。一糸纏わぬ私。滑るように肌をなでる。これは一日一回私を確かめるための作業だ。
私は透明な薄い膜に覆われている。私の目に写る世界。きっとそれは他の人と変わらない。別にモノトーンな訳ではない。ぼやけている訳でも、濁っている訳でもない。世界はとてもカラフルだ。様々な色に溢れている。鮮明に、見える。何もかも、そこにあるように、見える。見えるから、私は手を伸ばす。喉を震わせ、言葉を話す。脚を動かし、歩き出す。
そこに。
確かな違和感を覚えるのだ。
ほんの少し、遠い。僅か一ミリのズレ。けれど、私ではないと思うには充分すぎる。
私の声は私の喉から出てこない。
感覚のフィードバックがどこか他人事のように送られる。
だからこうして確認する。私が在ることを認識する。自他の境界を識別する。
身体を洗うという前提以上に、私にとって重要なことだ。それが終われば、後は手早く片付ける。
入浴後はそのまま部屋に戻る。とは言っても、自分の部屋ではない。ここは父の部屋だ。父の帰りが遅い日は決まってここにいる。机の中央におかれたデスクトップパソコン。それが私の目的だ。
私が私になれる場所。それは唯一画面の中。
毎日のように父の部屋に潜り込み、パソコンを立ち上げる。文字の羅列が浮かぶ。匿名と嘘にまみれた光の信号。圧倒的な情報量、氾濫した、どこに向けられるでもない個人。もう一つの、いえ、本当の私が生まれた虚構世界。私はその海の中へと堕ちていく。
……
ID【Hyswe0e7】
Name【アキラ】1999/06/12_20:47
芸術的だ
……
ID【kk3kemv】
Name【セカイ】1999/06/12_21:22
恐怖の大王は実在する
ID【Jihssuy32】
Name【ミライ】1999/06/12_21:33
馬鹿馬鹿しい
……
ID【csedgh1】
Name【ナル】1999/06/12_20:22
最高の音楽。他は雑音だ
ID【kgtfrc9】
Name【ケイト】1999/06/12_21:50
美しい音色。天才と呼ぶに相応しい
ID【kk3kemv】
……
Name【セカイ】1999/06/12_21:41
恐怖の大王は実在する
ID【Khnng665】
Name【フェイス】1999/06/12_21:29
死ぬ前に一回で良いから殺してみたい
ID【Thklug2d】
Name【クロネコ】1999/06/12_21:22
人類が滅亡するまであと少し
……
私が掲示板で見ているのは二つの情報だ。
インディーズのシンガー「シン」
ノストラダムスの大予言。
掲示板を始めた理由はシンが好きな人と繋がりたかったからで、後者の方はおまけに過ぎない。活動開始から応援している唯一の歌手。まっすぐで、キラキラしていて、彼女の曲に何度も助けられた。
大予言の方は、流行っているから、嫌でも目についてしまうというものだ。
1999年7月末に恐怖の大王が世界を終わらせる。フィクションでもっとマシな嘘をつくって、ふざけた話だけど、信じている人が多いから面白いなと思う。真に受けてお金を使いこんでいる人もいるし、殺されるくらいなら死んでやるって人もいる。その気持ちは分からなくてもない。自分の命は自分で終わりを見つけたい。ただでさえ生き辛い世の中だ、それぐらいの自由はあってもいいと思う。とは言え、流石に最近自殺者が多すぎるとも思う。掲示板にも一緒に死にませんかって呼びかける人がいるくらいだ。恐怖の大王が本当に来るかどうかさておいて、実際に影響を与えているの確かだろう。大事なのはあるかないかではなくて、そう思うか思わないかなのだろう。
取りあえず私は思わない方だ。
私の周りでそういう話をしている人は殆どいない。大体の人が信じていないだろうし、割とインターネットで特異的なことなのかもしれない。
知り合いにインターネット掲示板を使っている人はいない。と思う。そもそも家にパソコンがある人の方が少ないはずだ。だからここでは安心して息が出来る。電子の海で息をするというのはちょっとだけおかしくはあるけど。
私は波を切るようにして泳いで渡る。浸るように沈んで、引き上げられる。
……
ID【kibsfyyu55】
Name【クロバネ】1999/06/12_22:22
プロローグは最高
私の愛。心。全部、満たしてくれる
……
ID【kibsfyyu55】
Name【クロバネ】1999/06/12_22:23
大王が来るなら勝手にどうぞ
よくも、まあ信じられるわ
ID【kibsfyyu55】
Name【クロバネ】1999/06/12_22:25
どうせ、何も出来ない
……
「ああ――」
普段の私から到底、及びもつかない言葉たち。それを他でもない私が生み出しているというズレ。から生じる快感。生きている証。生の肌触り。生者としての私。
――そう。これが私。私なんだ。
恍惚とした感覚に支配される。椅子に身体を預けて、心身ともに解き放つ。
コンコン。
その空間に割って入る無粋な音。刹那で現実へと還ったのを感じる。頭の中が酷くクリアになっていく。私は一冊の本を取り出し、扉を開けた。
「お帰りなさい。お父さん」
「ただいま」
「ごめんなさい。すぐに出ます」
「いや、いいんだ。今からお風呂に入るから、伝えておこうと思って」
「ありがとう。もう少しで読み終わりそうなの」
「そうか」
「上がるまでには出ていくね」
そう言って、扉を閉めた。父は少し嬉しそうだった。
本好きで通っている私は父の部屋にいても特に疑問を持たれない。実際、父がパソコンを買うまではよくここで小説を読んでいた。ゲームやマンガが許されなかった私の楽しみは主に本だった。おかげでというか何というか、私はずっと国語の成績が良かったし、読書感想文に困ったことはない。なんて、本当にどうでもいいことだ。昔は、そこに描かれた様々な喜怒哀楽に一喜一憂したのだが、今となっては見る影もない。幸い父は実用書も多く集めているので、最近はそちらを中心的に読んでいる。別に読みたいわけでもないけれど、小説も定期的に読む。何を読んでいるのか母が聞いてくるのだ。母は律儀にその本を読んで感想を言ってくれる。そこで嘘をつくことはできない。その点、父は何も干渉してこないから楽だ。読書は一人で楽しむものだ、というのが父の考えらしいが、特に興味もない。
「――?」
惰性的な思考に囚われていると一つの通知が来た。私に対する名指しの投稿だ。そういう機能があるのは知ってたけど使ったことはなかった。
……
ID【gsiusd466】
Name【コトブキ】1999/06/12_22:25
投稿、拝見しました。素晴らしい愛を感じます。もしよろしければ近日に行われる、ライブに一緒に行きませんか
……
突然の申し出に少し驚く、こういう時ってどうすればいいのだろう。興味がないわけではない。元々、一人で行くつもりだったし、どっちでもいいんだけど。私の周りにシンが好きな人はいないし、直接、そういう話をするのも楽しいのかもしれない。そう思って、私はそのコトブキという方に、前向きな返答を送った。
と、そこで我に返った。もし変な人だったらどうしよう。腐っても私は女だし、相手の性別くらいは確認しておけば良かったかな。周りにこういうことをやっている人がいないというのは、こういう時に困るのか。誰にも相談が出来ない。
急いで、コトブキさんの投稿を遡ってみる。………特に悪い人ではなさそう?分かんないけど。私みたいに現実と全然違うかも…ん…そうだ、それも問題だ。現実の私は、クロバネと似ても似つかない。会ってみたは良いものの向こうが会いたいと言っているクロバネはいな……
あ、それはいいのか。画面上の私しか知らないなら、私はクロバネであって、クロバネであることが当たり前なのだ。そうか。そうなんだ。そう思うと、俄然、会いたいと思えてきた。
抑えつけていた私らしさを外でも解放できるかもしれないと、楽しみに思えてきたのだ。
返事にさらに返事を送る。これでもう決定だ。私は1週間後のライブをコトブキさんと一緒に行く。そうして数件の投稿を送り合う。
よし。これで一段落。どうやって現地で合流するか、大体の目星はつけられた。あとは明後日を迎えるだけだ。お父さんもそろそろ戻ってくるだろうし、私も自分の部屋に行こう。
また、明日。
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