第2話/その瞳に写るもの

「もっちーー」

鈴の鐘が鳴り響いた。透き通る美しい音。私を呼ぶ声。快晴の空に相応しい彼女。人混みの中でも自然と目が引き寄せられる。先に気付いた私は控え目に名前を呼んで、手を挙げた。

少しして私を見付けた凜は、手をぶんぶん振って、大仰に息をきらしながら近付いてきた。

「ごめん。寝坊しちゃって」

 凜はあはは、と笑いながら言い訳をする。

もうすぐお昼なのに、いつまで寝てたんだ、この子は。

「もう慣れたよ」

 そう言って私は足早に歩き始める。凜はそれに倣うようにしてついてきた。この時間帯は人が多い。ちゃんと着いてきているか気を配りながら進む。

渋谷にそんなに何があるんだろう。人混みが好きではない私はここに来る度に、そんなことを思ってしまう。自分自身、大きな目的があるわけでもなくここにいるけど、この人たちは何かを持っているのだろうか…なんてどうでもいいことをぼんやりと考える。

 スクランブル交差点を越えると、人通りを抜けた。歩道に若干、ゆとりが出来た。けれど、凜は中々追い付いてこない。

「わー、待ってー」

 少し後ろでわたわたしている彼女、鈴江凜は、のんびり屋という言葉がぴったりな子だ。だからと言っていいのか、大体の集まりに遅刻してくる。5分か10分か、そんなに長くないのが不幸中の幸いかな。最初は割りとイラッとしたけど、本当に慣れてしまった。遅れてきても、いつものことかで済むし、遅刻してくる前提であらかじめ集合時間を少しだけ早めている。そうすれば、間に合わなくて焦るなんてことは少なくなる。時たま時間通りに凜が来て、手持ち無沙汰になったりもするけれど。

 ただ、今日の私は少し冷たかったかもしれない。けれど、遅刻してくる友人に、毎回毎回、大丈夫だよ、と言うのも面倒なのだ。適当に相手をされるのが嫌ならば、そもそも遅刻しなければいい。…なんて、心の中で文句を言いながら、私は歩く速度を落とした。程なくして二人並んで歩き始める。そこに私はすかさず言葉を投げる。

「間に合わなかったら嫌だから」

 表に出たかもしれない冷たさを取り繕うように言い訳する。私が感じたほんの少しのズレを埋めにいく。

「そんな急がなくてもー。上映までまだ時間あるよ?」

「10分前には中に入れるんだから、それに間に合わせたいの」

「せっかちさんだな」

「普通よ。普通」

 適当な会話をして、いつもの調子に戻していく。奔放な凛と、真面目な私。そんな二人の日常。いつからか決まりきった私たちの関係。お互いの性格にお互いが疑問を抱かない。だから私は、凛といるときは努めて真面目であろうとする。彼女が知っている私であろうとする。

 映画のはじめの部分は予告だから、少しくらい遅れていっても別に問題ないと私も思うけど。

 私の気を知ってか知らずか―――知らないだろうけど―――凜はからかうようにして言った。

「急いては事を仕損じる。だよ?」

「もたもたしてても、仕方ないでしょ」

 それに、観たいって言ったのはアンタでしょ。なんでそんなに適当なんだか…

「いやー楽しみだね」

「そうだね」

「今、すっごい流行ってるもんね」

「そうみたいだね」

「何かアクションシーンが派手なんだって」

「そうなんだ」

 当たり障りのない会話が続いていく。凜はとても楽しそうだ。私はこの映画に全然興味はないのだけど、それで水を差すわけにはいかない。

 映画を観る前にワクワクしていた凛。楽しそうに映画を観る凛。見終わって満足げな凛。彼女らしさを損なわないように、ゆらりゆらりと立ち振舞う。

「面白かったー」

「そうね」

 本当はそうでもないんだけど、適当に相槌をうつ。面白くないとは言わない。でも、面白い訳でもなかった。これが今、流行ってるのかと何となく納得出来るような内容だった。

 隣で凛が喋っているのが聞こえる。あそこでかかった音楽がどうとか、俳優の演技がどうとか、結構熱く語っている。余程、面白かったのだろう。それが伝わってくるような語りっぷりだった。話し半分に聞き流していると、心の中にもやが浮かんでくる。いつも通りのことではある。凜の明るさが文字通り光になって私の心に影を差す。

 私はあまり映画が好きではない。映画に限った話ではなく、物語が得意ではないのだ。フィクションかどうかに関わらず、その中に描かれている筋道が何だか予定調和のように見えて、とても人がやっていることだと思えない。ドキュメンタリーであったとしても、実感のない遠くの出来事のように感じる。

 誰かの物語に触れるとき、自分をどこに置けばいいのかが分からない。実感もなくフワフワと浮かんでいて、その中に入ることも俯瞰することも出来ない。スクリーンの上で男の子が笑っている。文字の中で女の子が泣いている。記号として、ただの情報としてでしか、彼らの物語を捉えられない。

 私自身感情に乏しいわけではない。私だって感動すれば涙を流すし、楽しければ笑う。嫌なことがあれば怒るかもしれないし、悲しければ傷付くだろう。最近、何かに感動したかと問われれば、夏休みに家族で行ったナイアガラの滝を挙げる。流石に泣いたりはしなかったけど、私の胸に確かなものを残した出来事だった。

 ただ、物語が苦手なだけなのだ。人が語る誰かの人生が嫌なだけ。きっと妬ましくて、羨ましくて、私はずっと嫌っている。人生に起承転結なんてない。苦しんでいても手は差しのべられない。気付かれることは滅多にない。日常は日常のまま消えていくだけで誰の内にも届かない。現実はそんなものだから、美しいお話を見せられても仕方がない。

 だっていうのに、私はこの世界で生きていくのにも精一杯。此処では分からないことだらけ。

横目で隣の少女を見やる。この子が私の内心に気付かないように。本当かどうかを教えてくれる人はいないし、答え合わせも出来ない。嘘も本当も、はじめから存在しない。全てがない交ぜであることを私たちは、いつからだろうか、当たり前のように受け入れる。

世界はこんなにも朧気だ。フィクションよりも頼りない支柱に寄り掛かっている。

こんなんじゃ、物語よりも現実味がないじゃない。

「もっちー?」

 ふと、声を掛けられる。鈴の名に恥じぬ美しい声だ。

 彼女と目を合わせる。吸い込まれそうな黒い瞳が私を見つめている。そこに写る私は、一体、誰なんだろう。

「そうだね。私も好きだよ。あの曲」

 私は笑って返事をした。

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