メリル&シープドッグ
薄暗い、ニューヨークの裏道。お世辞にも治安がいいとは言えない安アパートが立ち並ぶその場所に、変わらず彼女は居た。
街灯が照らすガーデンアパートの玄関。膝を抱えてうずくまる女の元へと忍び寄る黒い影。
にゃあん、と。一匹がそう鳴いた瞬間、アイリスは跳ね上げるように顔を上げて、驚愕に目を見開いた。
「安心して。一家全員、無事よ」
「……メリーさん」
「屋根裏や壁の穴で、あなたの帰りを待ってた。ずっと、ネズミの番をしながらね」
街灯の下、五匹の黒猫は嬉しそうにアイリスの膝へと擦り寄っている。大きな母猫が一匹と、四匹の子猫たち。
アイリスは呆然としたまま、揺れる瞳で彼らを見下ろし、そうして、その小さな手のひらで何度も撫でた。馴染みのあるその体温に、猫達はごろごろと喉を鳴らす。
「……どうして」
そう、戸惑いに目を泳がせたまま、アイリスは私を見上げた。
「ここら一帯はネズミが大量発生しているはずなのに、あなたの部屋ではまるでその存在を感じなかった。充電器のコードも、林檎も、稲穂も無事だったのよ。齧られてなかった。三週間、誰も居ないはずの部屋で。あとは……そうね、
「ふふ……なあに、それ」
「話は彼らから聞いたわ。捨てられて、雨に打たれて凍えてるところを助けて貰ったって」
「猫と話せるの?」
「ええ。少しだけだけど」
そう笑った私に、アイリスは「そう」と小さく呟くように言う。後ろで、シェルウィンが居心地悪そうに身体を揺らすのを感じた。
魔女狩り時代を生き抜いた彼の猫嫌いは、何百年経っても治らないらしい。
「あの日……そう、私、猫を拾って……それで、あの部屋で、この子達を描いてた」
「ええ。彼らもそう言った」
「子猫たちは母親からミルクを貰ってたけど、母猫は……。私の部屋、食べるものが何もなくて。母親が飢えたら、ミルクが出なくなって、子供達も死んじゃうって……。だから、」
「だから、買い物に出たのね」
三週間前のあの夜。彼女は部屋を出た。充電途中のモバイルと、自分が食べて行くだけでやっとの、残り少ないお金を持って。
「ずっと、心配だった」
街灯の下、膝を抱えた魂の頬を涙が伝って、道にシミを作る。柔らかなそれはいつしか勢いを増し、冷たい大粒の雨になった。シェルウィンが彼らを庇うように自らの翼を広げる。
アイリスはそれにお礼を言って、私達を見上げた。半分泣いて、半分笑って。懺悔でもするように手を合わせて、彼女は口を開いた。
「メリーさん、私、そんなに綺麗な人間じゃないわ。私……私ね、ほんとは、ママに認めてほしかった」
だから、この子達と母猫を離すこと、考えもしなかった。子猫だけなら、新しい飼い主も見つかったろうに。そうしなかった。
そう言って、アイリスは顔をくしゃくしゃにして泣いた。魂が血を流していた。
「ママに、頑張りなさいって言って欲しかった。アイリスは本当に絵が上手ねって、昔みたいに笑って欲しかっただけなの」
彼女の涙は止まらなかった。雨がシェルウィンの羽根の色を濃くしていく。彼もまた、私と同じように黙って彼女を見下ろしていた。
「デイヴの事だって……、ほんとは、すごく悔しくて……悲しかった。私だけを愛していて欲しかったって、思ってしまった」
ねえ、メリーさん。
「こんな私でも、まだ、天国に行けるって言ってくださいますか?」
彼女は笑っていた。数々の不条理、残酷な仕打ち。そんな渦中に居ようとも、愛されたいと心から願っていた。愛したい、とも。悲しいほどに愛おしい、人間のさがだ。
覚えのあるその感覚に、胸がきしむ。朽ちた身体に置いてきたはずの心臓が痛んで、喘ぐように浅く息を吐いた。
自分の魂と現世を繋ぐ緒が切れかけているのを感じているのだろう、アイリスの金色の瞳には、ほんの少しの恐怖が滲んでいる。
「もちろんよ」
私はそう、今度こそ彼女の手を強く握った。熱い手だった。血の通った、魂の熱がそこにはあった。
「おかしいですよね、私、すごく怖いの」
「ええ、ええ、当然よ。人の心は決して強くない。それを認められない人間は、他者から奪う事しか出来ない。でも、あなたは違う。自分の弱さを認められる人間が、天国に行けないはずがないわ」
「こんな優しげなこと言ってるけど、彼女、ゴッホの時は問答無用で連行したんだぜ」
「ゴッホって、あのゴッホ?」
「ええ。でも、彼の場合は話が別。彼の
私の言葉に、アイリスは笑った。
空が晴れる。どこまでも続きそうなほど深く、高い夜空に散った小さな星々が、憎らしいくらいに美しかった。
「私、お星さまになるのかしら」
「ギリシャ神話ならね。残念ながらきみが今から行くのは堅苦しい役所だし、裁判を受けて通されるのは辺鄙な門の前だよ」
「じゃあ、メリーさんとはもう会えないのね」
「え……?」
アイリスの言葉に、私はぽかんと口を開けたまま何も言えなくなってしまう。
え、だって……私、何も言ってない。いつもなら、絶対、みんな勘違いするのに。
「私、これでも画家を志してた女よ。有名画家の最期くらい、知ってるわ」
ゴッホはメリーさんの所へ行ったのよね?アイリスの金色の瞳が、私を射抜く。
「彼は拳銃自殺で死んだ。自殺した人間は、天国になんて行けないでしょう?」
「……メリー、今回は僕らの完敗だ」
「あなたが悪魔ね、ミズ・メリル」
彼女の瞳に迷いはなかった。それでも、その手のひらは温かいまま、力強く私の……悪魔の手を、握っている。
「シェルティさんが『僕の天使』なんて言うから、気付くのが遅くなっちゃった」
「前に『チェリーパイちゃん』って呼んで、もの凄く怒られたからね。苦肉の策さ」
「なるほど」
呆気にとられる私の前で、天使のシェルウィンと高潔な魂は笑い合っている。
「エスコートよろしくね、シェルティさん」
「いやだな、きみのこと連れてくの」
「あなたの弱みはいくつか握ってるつもりよ。人間の飲むウイスキーの味はどうだった?」
「僕そんなにアルコール臭いかい?」
「どうして天使ってこんなに能天気なの!」
頭を抱え、そう叫んだ私にアイリスは不思議そうに首を傾げる。
「地獄の方が規則が厳しいのかしら」
「天国は緩いんだってさ、メリー達悪魔に言わせれば。ほら、よく言うだろ、チンピラの方が上下関係しっかりしてるって。それだよ」
そんなシェルウィンの言葉に深くうなずくアイリスを横目に、翼を開く。真っ黒なそれにアイリスは目をしばたかせた。
そうして、綺麗ね、と。心からそう、感嘆の息を漏らすものだから、耳が熱を持つ。
それを誤魔化すように咳払いをして、能天気な天使を振り返った。
「シェルウィン、アイリスを任せたわよ」
「ああ、いいよ。メリーは?」
「私も悪魔らしいことの一つくらいしてから戻るわ。悪いけどアイリス、あなたの可愛いキティ達少し借りるわよ」
「……猫を? どうするの?」
不思議そうに首を傾げる純粋な魂。その魂に愛を注がれた猫達を呼べば、彼らは私だけに分かる言葉で返事をする。
ええ、そうよ。ご主人様の仇を討つの。
「古来より、猫は悪魔や魔女の友人でね。少し、手を貸してもらうわ」
「…………?」
「アルコール中毒のトラック運転手に罰を、それから、あなたの愛しい元彼に愛の鉄槌を」
「……殺さない程度にお願いします」
「アイリス、あなた、もしかしたら私達の所でも上手くやって行けるかもしれない」
そんな私の言葉にアイリスは大きく笑って、首を振る。ええ、そうよね。嫌がられることには慣れてるから平気よ。
それでも表情筋は嘘をつけなかったらしい。「メリー、可愛い顔が台無しだ」とシェルウィンがいつもの調子で歌うように言った。
この能天気なお調子者ともしばらくのお別れだ。清々する。
「次に会うのは何十年後かしらね」
そう、羽根を揺らしながら言った私に、シェルウィンは薄く笑う。少し怖くなるくらいの、綺麗な天使の笑顔だった。
「まさか。きっとすぐだよ。メリル&シープドッグは名タッグで有名だもの」
言ったろ、僕らだって万有引力には勝てないのさ。
「またすぐに会えるよ、メリー」
そう、幸せそうに笑う男の、光る紫色の瞳に何とも言えない気持ちになる。
隣でアイリスが口元を覆って何やら愛だの結婚だのともごもご言っているが、我々にそういうシステムは無いし、そもそも性別すらない。あるとすれば、同じ部署で働く、天使と悪魔という繋がりだけだ。
「穢れた地に住む人間が教えてあげるわ、メリーさん。愛にはそれだけで十分なのよ」
この、言葉が通じない感じ、まさしく天使だな。そんな言葉を飲み込んで、私は翼を広げて地を蹴った。
ああ、星が綺麗だ。憎らしいくらいに。
人は死んだらどこへ行くのか。愛という引力から逃れる道などないことを、人間達は知りもしないのだ。
END.
メリル&シープドッグ よもぎパン @notlook4279
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