その画家の名は、



「メリー、きみっていつもこうだ」

「口動かす暇があるなら手を動かして」

「神の仰せのままに!」


 自宅前の階段から動けないアイリスを残し、私達は彼女の部屋へと向かった。

 鍵のかかった壁をすり抜け、足を踏み入れたそこは淀んだ空気で満ちていた。小さな部屋に、一人の人間が生きた証が詰まっている。


 簡素なベッドに、古びたテーブルと椅子。弧を描いたキャンバスに彼女が何を描こうとしていたかは知る由もない。テーブルに並んだままの林檎と稲穂。それを模写したスケッチブックは開いたままだ。


 放置されたモバイル用の充電器。彼女の死体が所持していたのは、十数ドルの現金と、充電不足のモバイルだけだったという。


 三週間前の夜、アイリスは何を思い、部屋を飛び出し、そうして戻らなかったのか。


「画家の部屋って感じだね。懐かしい。100年くらい前にも一度、一緒に画家の男を担当した。確かきみの所へ行ったはずだけど」

「なんて名前の人?」

「それが思い出せなくてね。死んでから結構有名になった気がする」

「ほとんどの画家はそうよ」


 テーブルに広がったスケッチブック。鉛筆に、木炭。三週間以上放置された、しおれた林檎が物悲しくて、手のひらに収めたそれに生命力を与える。


 命を吹き返し、みずみずしく光る赤い果実にシェルウィンは遠慮なしに歯を立てた。


「あ、おいしい。さすが禁断の果実」

「現世の食べ物を容易に口にするのは感心しないわね。身が穢れる」

「大家はなんでこの部屋を放置してるんだろう。家具も全部そのままじゃないか」

「次に入る人が居ない限り、片づける方が手間も費用も嵩むんでしょ」

「なんか、イヤだなぁ」


 気味が悪いよ。そう、怪訝そうにシェルウィンが辺りを見渡すと同時に、ガタタ、と壁の奥で何かが動く音がした。


 ネズミの大量発生は嘘じゃないらしい。


 結局、アイリスの部屋に彼女の心残りらしきものは見当たらなかった。家族の写真、恋人からのカード。ほんの少しの愛を頼りに生きた彼女の高潔な魂は、誰にも寄りかかることをしていなかったのだろう。


「シェルウィン、今日はもう引き上げましょう。部屋に長時間居座られるのも、あまり良い気持ちがしないでしょうし」

「僕、ピザ食べに行きたい」

「…………」

「そんな目で見ないでくれよ、メリー」


 シェルウィンはいつもこうだ。現世の食べ物ってそんなに美味しいんだろうか。


 我々はアイリスの部屋の前で解散し、私は部署が用意したホテルの一室に、シェルウィンは夜の街へと消えて行った。ヤツの夜遊びはいつものことだから気にしない。


 欲望の渦巻く現世は、魂と肉体が穢れやすい。結局のところ、生ける人間のエネルギーに勝るものはないのだろう。

 そう、シャワーコックをひねって湯を止めながら、私は目の前の鏡を眺めた。


 人の身体を模した姿。金色の長い髪が濡れた身体に張り付いている。薄い色をしたブルーアイズが無愛想にこちらを見つめていた。


 外見の年齢は、私もアイリスも変わらない。でも、彼女はまだ二十年ぽっちしか生きていないのだ。


 神など、本当に居るのだろうか。同僚達が聞けば真っ青になりそうな思考に首を振って、私はシャワー室のドアを開けた。


 そう広くもない安ホテルの一室。私がシャワーを浴びている間に帰って来ていたらしいシェルウィンが、報告書に何かを書き込んでいる手を止めて微笑んだ。


「ただいま、メリー」

「イタリアまで行ってるのかと思った」

「人助けしてきたのさ。ピザ屋で会った女の子が、部屋にネズミが出るって言うから」

「首のとこ、リップ付いてるわよ」

「おっと。これは失礼」


 そう言って、慌てて衣服を正す男に溜息しか出ない。

 そんな私の目線など気にならないのだろう。ああ、そう言えばさ、と。シェルウィンは子供のように楽しげな声で話し始めた。


「店でアイリスの恋人の情報を得たよ。名前はデイビット・ハリス。あとは住所と職業と、それから電話番号。どうする? これ、出会い系のアプリに登録しちゃおうか?」

「珍しいわね、あなた怒ってるの?」

「だって彼女、いい子じゃないか」


 ああ、それからもう一つ。そう、スーツ姿の男は人差し指を立てて続ける。


「昼間に言ってた画家の名を思い出した。ゴッホだ。フィンセント・ファン・ゴッホ」

「ああ」


 私はそう、濡れた髪をタオルで拭きながら相槌を打った。彼は厄介だったから、100年以上経った今も何となく覚えてる。


「彼、自分が死んだことに気付いてなかったのよね。ゴーギャンはどこ、の一点張り」

「自分で死を選んだくせにね。彼こそ生前売れなかった画家の代表だって、飲み屋で盛り上がったんだ。部屋に食べるものが無さ過ぎて、ネズミに耳を齧られてただろう」

「いいえ、彼の耳は自分で――、」


 そこまで言いかけて、頭の中で何かが弾ける。そうしてそれ以上何も言えなくなった。


 ああ、そうだ。降らない雨と、温暖の気候。それによって大量発生しているネズミ。なんで、今の今まで気付かなかったんだ。


「……ネズミ」

「え?」

「戻るわよ、シェルウィン」

「どこに?」

「アイリスの部屋。あの部屋、居るのよ」

「ネズミの事かい? さっきは見なかったろ」

「ええ、そうよ。だから、居るのよ」


 それがきっと、彼女の心残りだわ。




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