4-5

「動画を全部見させてくれませんか?」

 涙声でそう言う合人に、杏華は一言頷いて部屋に通した。

 机の前に座らせ、スリープしていたパソコンを起動し、動画を再生して部屋を出た。

 年上として、事情を知る者として側についていてあげたい気持ちもあるが、今はきっと合人も一人になりたいだろう。

 部屋を出た杏華はその足で一階にあるアトリエに戻る。

 元々は物置だった場所を、父が杏華のために改造してくれた部屋だ。元が物置だったこともあり、通気性も日当たりも悪い。当然、プロの画家が絵を描くような環境ではなかった。

「なのにキミは、文句の一つも言わずに絵を描いていたね」

 アトリエの中央には主の一人を失った椅子とキャンパスがある。真っ白なキャンパスはとてももの悲しく、まるで杏華の心をそのまま描写した一枚の絵のようだ。

 目を閉じれば景司と過ごした日々が鮮明に蘇る。

 初めて景司がここで絵を描いた日のことも、動画撮影を始めたときのことも、再生数が伸びずに二人で試行錯誤したことも、動画が評価されるようになって嬉しさのあまり二人でガラにもなくハイタッチして喜んだ日のことも。

 そして、彼が他の誰のためでもない。杏華のためだけに描いてくれた絵のことも。

 それは景司の得意な、代名詞とも言える風景画。

 描かれたのは三月から四月にかけて咲く、白い杏の花。

 杏華の名前にちなんで景司が描いてくれた絵だ。

「知っているかい、景司。杏の花の花言葉はね、『乙女の恥じらい』や『乙女のはにかみ』だそうだよ。まったく、私に一番似合わない花言葉じゃないか」

 なのに景司は杏の花の絵を描いて杏華に送った。杏華にぴったりだと、そう言って。

 もちろん嬉しくないわけがなかった。今話題の天才画家が、そして友人が、自分のためだけに描いてくれた絵だ。それはもう家宝と呼んですら差し支えがない。

「・・・・・・」

 きっとその絵を見る度に思い出す。

 いや、絵がなくとも、景司のことを忘れることは決してない。

 尊敬する画家としても、年上の先輩としても、共通の趣味を持つ友人としても。

「・・・・・・一つ、景司に謝らないといけない。動画のこと、弟くんには秘密だと約束したけれど、話してしまったんだ。彼はね知るべきだと思ったんだよ、キミの本当の気持ちをね」

 今、合人は杏華の部屋で景司の気持ちを聞いている。自分が代弁した兄の気持ちを。兄が弟に伝えたくても伝えられなかった、弟を守るために押し殺し続けてきたその気持ちを。

「その結果、彼がどう行動するかは、正直、私にはわからない。けどきっと、キミの気持ちは伝わると私は思っているよ」

 そうであったなら嬉しいと、素直に杏華は思う。

 今やネットを開けば景司の話題が必ずと言っていいほど目に入ってくる。それは景司が世界的な画家であることと、その年若さからくる話題性もあって当然だった。同年代から年配まで、男女問わずに幅広いファンがいる。

 そのファンの中には、飲酒運転をした加害者へはもちろん、弟である合人へも攻撃を繰り返している者がいる。その中には景司が画家であることに倣ったのか、加害者宅の壁に絵とも呼べない落書きをしている者さえいる始末だ。

 そんな人間、杏華から見たら下品な愚か者にしか見えない。絵を、そして景司自身を侮辱されているようで憎しみに似た感情すら抱く。

 そしてあろうことか、中島家の家庭環境、家族仲まで調べ上げ、あることないこと書いては祭りのように盛り上がっている連中すらいて、そんな彼らを見るととても腹立たしい。傷心している合人がそれを見たらどうなってしまうかなんて考えたくもない。

 でもきっと、合人が景司の気持ちを知れば、そんなものには負けないだけの気持ちが芽生えるだろうと杏華は信じている。

「だからね、景司」

 アトリエの中にある景司が描き続けてきた絵を見渡す。そしていつも景司が座っていた椅子の背もたれに手を置き、そこに誰かが座っているかのように、囁いた。

「もしも、キミの弟が絵を描く道を選んだら、見守っていてあげてほしい」

 もう二度と景司と合人が共に絵を描くことは叶わない。

 心の底で押し殺してきたその願いが叶うことは二度とない。

 でもいつか、景司が描いてきたこの絵たちに、合人が筆を入れる日が来るのなら。本当の意味でこの絵が完成する日が来るように、見守ってほしい。

「私も一度、弟くんの絵を見たことがあるんだ。コンクリートの壁にね、チョークを使って描くんだよ。そんな環境で誰かの心を惹きつける絵を描くなんて、素晴らしいと思うだろう? そんな彼が筆を持ってキャンパスに向かったらと思うと、今からとても楽しみなんだ」

 あの絵は、絵が嫌いな人間の描けるものじゃない。

 絵が好きでたまらない人間の絵だ。

 だからきっと、と杏華は思う。

合人は必ず、筆をとるだろう。そしていつの日にか、若き天才画家・中島景司に勝るとも劣らない画家になる。

 そんな確信めいた気持ちが杏華の中には確かにあった。

「だから、私が見届けるさ。彼のこれからを、キミの代わりに」

 言って、景司への想いを割り切るためにゆっくりと目を閉じた。

 涙は、もう流さない。この一週間で枯れ尽くした。だからこれからは、彼の、合人の進む道をお節介ながらも手助けして、見届ける。

 きっとそれが、景司への恩返しになると、杏華は胸に誓った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る