4-4
部屋を出て一階へ。
今度連れてこられたのは家の隅にある一室だった。その扉を、杏華が開ける。
「・・・・・・っ!」
部屋を開けた瞬間、鼻をつく匂いがした。合人はその匂いに覚えがある。これは、絵の具の匂いだ。そしてその匂いに引きずられるように部屋の中へ視線を向け、広がる光景に驚愕した。
そこはついさっきまで見ていたあの動画を撮影していた部屋だ。部屋の中央にはキャンパスが置かれ、三脚にセットされたビデオカメラもある。壁には例のピエロの衣装も掛けられていた。
だがそんなものよりも遙かに驚いたのは、その部屋を埋めつくさんばかりに置かれている無数の絵。
その絵を見て理解する。
この絵は全て、景司が描いたものだ。
「もうわかっていると思うけど、景司はここであの絵を描いて、私がそれを撮影していたんだ。とは言ってもオープニングみたいに全身が映る場合、あの衣装を着て喋っていたのは私なのだけどね。景司が画面に映っていたのは絵を描いているときだけさ」
「・・・・・・なんで、こんな」
理解できなかった。
景司は画家で、プロで、家には自分専用のアトリエがある。対して(失礼だが)伊庭家のこの部屋はアトリエと呼ぶにはあまりにも質素な場所だ。まるで物置を改装したような造りになっていて、始めから絵を描くために整えられた環境ではない。
絵を描くのなら、自分のアトリエで描いていたほうが俄然捗ったはずだ。
「それは動画の中で言っていただろう? 景司も窮屈に感じていたのさ。もっと自由に好きな絵を描きたい。そう思っていた」
プロの画家とはいえ、景司は注文を受けてその注文通りの絵を描いて売り、お金を稼いでいた。確かにそこには自分の意思など介在しないが、景司がそれに対して苦痛を感じていたなんてまるで知らなかった。
忙しい合間を縫ってここへ通い絵を描く。それも投稿された動画やこの部屋にある絵を見る限り、それなりの頻度で足を運んでいたに違いない。
「私は縁あって景司と出会い、意気投合して、景司の苦悩を知った。だから普段、私がアトリエとして使っているこの部屋を景司に提供し、絵を描いてもらうことにした。動画投稿をした理由の一つは、はせっかく描いた絵がまったく日の目を見ないことを私が良しとしなかったからさ。正体がバレてしまう危険はあったけれど、だからといって素晴らしいものを誰の目にも触れないこんな場所に隠しておくのはあまりにももったいなかったんだ」
思い返せば最初に見たあの動画の投稿日時はだいたい二年以上前のものだった。
誰の目にも触れるネットという世界に露出しているのに、二年間、誰一人これが景司の絵だと気づかないなんて、見ていた人間はまるで見る目がない。
「さ、入って見てもいいんだよ?」
優しく背中を押され、合人はアトリエの中に入った。
二年間で描き溜められた風景画が壁を覆い尽くすように並べられ、世界各地、春夏秋冬、それらが一同に介す、まるで異世界の中心にいるかのような錯覚すら感じる。
ここにある絵は誰のためでもない、景司が本当に趣味として描いていた絵だ。だが世間に評価され、高い値がつき売れていった作品にも決して引けを取らない完成度だ。
このアトリエは、この空間は、もはや中島景司の世界。その世界の中心に、合人は今立っている。
「弟くん。景司が言っていた言葉を覚えているかい?」
「景司の、言葉?」
「ああ。動画の中で。わかっているだろう? 喋っていたのは私だけれど、あの言葉の全ては景司の心だ。知識も技術も、そして想いも、全て」
「・・・・・・」
「彼はね、ずっと後悔していた。弟に・・・・・・キミに、辛く当たってしまうことを。いつも謝りたいと、仲直りしたいと、そう願っていた」
「・・・・・・っ」
「でもそれができなかった。・・・・・・なぜだか、わかるかい?」
わからない。わかるはずがない。
だって今までそんな素振りは一度だってなかった。今更そんなことを言われても理解できるはずがない。
「景司はね、自分のせいでキミが絵を描けなくなったと言っていた。自分の絵が認められてしまったから、キミの絵が自分の絵と比べられるようになってしまった。そのことでキミは周りから誹謗中傷を受けてきたよね。業界からも、ファンからも、ご両親からも」
そうだ。ずっと比べられてきた。比べられて、合人には景司のような才能がないと、出来損ないだと言われ続けてきた。
だから、恨んだ。
周囲も、親も、景司のことも――。
(なのに、後悔していた・・・・・・? 景司が?)
「信じられないかい?」
「・・・・・・そりゃ、そうでしょ。後悔してたなら、なんであんな態度とったんですか。そう言えば、よかったじゃないですか・・・・・・」
あんな、突き放すような態度をとらなくても――。
「それもキミを守るためだよ。景司がキミのことを認め、一緒に絵を描けば必ずキミと景司は比較される。そして比較され、必ずキミの絵は心ない評価を受ける」
自分と景司の実力、才能の差は歴然で、合人だってそれを十二分に理解している。だから杏華の言葉に黙り込むしかない。彼女の言葉は正論で、否定する隙がまるでない。
「そうなったとき、辛い思いをするのはキミだ。傷つくのはキミだ。だから景司は、キミに絵を描かせたくはなかった。キミのことを守りたかったからだ。・・・・・・その想いを傲慢だと、キミは思うかい?」
「・・・・・・っ」
「だがそれでも、例え傲慢だと言われても、景司の心からキミと絵を描きたいという想いは消えなかった。言っていただろう? 弟と一緒に絵を描きたい。弟と一緒に絵を描いていたときが一番楽しかった、と」
動画の中でピエロは確かに言っていた。
ピエロの言動の一つ一つが、杏華の口を借りた景司の本当の気持ちだというのが本当なら、確かにそれは景司の願いだったということになる。
「景司はね、ずっと夢見ていたんだよ。もう一度、キミと一緒に絵を描ける日がくることを」
「・・・・・・っ」
わからない。わからないわからないわからない。
景司が本当に望んでいたということと、今まで見てきた景司の姿。それがどうしても一致しない。
合人はずっと景司のことを妬んできた。憎しみに等しい感情すら抱いていた。親を、景司を恨み、悪とすることで自分の心を保ってきた。
なのにここへきてこんな話は聞きたくなかった。
本当の気持ちなど、知りたくはなかった。
「・・・・・・ここにある絵を見て、なにか思うことはないかい? いや、キミはもうそれに気づいているはずだ」
「?」
言われて周囲の絵に目を向ける。
絵を見て気づくこと。すでに合人が気づいていること。
辺りを見回すとそこには無数の絵。そしてその中についさっき動画で見たばかりの絵が混ざっているのを見つけた。
動画の中であの絵が完成したときに思ったこと、感じたこと。
それは――。
「・・・・・・――っ!」
そのときに思ったことを頭に入れてもう一度全ての絵を見渡す。すると杏華の言っていたことの意味がわかった。
この絵は完成している。しかし、同時に未完成でもある。
そう、最初の絵にはなにか足りないものがあった。そしてここにある全ての絵にも、同じようになにかが足りていない印象を受ける。
「・・・・・・いや、違う。足りないんじゃない・・・・・・。これって・・・・・・不自然なスペースが空いてるんだ」
「さすがだね。正解だよ」
景司の絵は緻密に計算されている。構図、色合い、陰影、そういった魅せるための技術が完璧に織り込まれている。
だがここにある景司の絵はそれが崩れている。完璧なはずの景司の絵。しかし絵にはどこか必ず一カ所、不自然なスペースができている。
きっと素人にはわからない。ずっと見続けてきた合人だからわかった、その不自然さだ。
「これも、景司は言っていたよ。弟と、キミとまた一緒に絵を描きたいのだ、と。キミと一枚の絵を完成させたいのだ、と。・・・・・・それじゃあ質問だ、弟くん。キミが得意な絵はなんだい? ずっとあの廃団地で描き続けてきた絵は、なんだい?」
「――っ!?」
考えるまでもないことだ。
あの日、初めて景司と一緒に絵を描いた日。あの日、あのときから、二人の描くものは変わっていない。
景司の絵がいくら評価されようと、景司の才能をどれだけ羨もうと、しかし決して描くモチーフだけは変えなかった。変える気にすらならなかった。
そして景司もまた、その絵だけは一度も描かなかった。
「・・・・・・人物画」
風景を描く景司。
人物を描く合人。
初めて描いた絵は二人の合作だった――。
「じゃあ、この不自然なスペースって・・・・・・」
「その通りだよ。この絵はね。この場所で、動画の中で景司が描いていたものは全て、一つの例外もなく、キミが空いたスペースに人物を描くことで完成するように作られているんだ」
「――っ!」
合人はアトリエの中を見渡す。
景司がここで二年以上描き続けて溜め込んだ絵は、どれもやはり不自然で、しかしそこに人物を描き入れればさらに良くなるものばかりだ。
「景司はね、プロの画家としての中島景司を全て捨て、ここではキミの兄である中島景司として絵を描いていた。伝えたいけど伝えられない想いを私の口から、そしてこの絵から、いつの日にかキミに伝わるようにと」
「・・・・・・なんで、そんな」
どうしてそんな回りくどいことを――とも思ったが、考えるまでもない。
堂々と景司が合人に絵を描かせれば、それを良く思わない人間が必ず合人を中傷するだろう。景司はそれを止めたかった。止めさせたかった。
でもいくらプロの天才画家でも景司はまだ子供だ。周囲を黙らせる力は、まだ彼にはなかった。
だからこんな回りくどいやり方でメッセージを残したのだ。
「もう景司はいない。彼の口から真実を聞くことはない。だからキミが今の私の話を信じるかどうかはキミ次第だ。でもね、少しでも景司に対して思うところがあるのなら、少し考えてあげてほしい。決して彼はキミのことを見下したり、邪魔に思ったりなんてしていなかったよ」
「・・・・・・っ」
目の奥が痛んだ。
視界が滲み、身体から力が抜けていく。
景司が死んだと聞いたとき。その遺体に対面したとき。葬式の最中。今の今まで一滴たりとも流れることのなかった熱い涙が、自然と合人の頬を伝う。
(・・・・・・今さらじゃんか)
なんでもっと早く言ってくれなかったのか。
合人なら大丈夫だった。今まで散々、周囲から蔑まれて生きてきたのだ。その負担が多少増えたところで今更気にはならなかった。
いくら罵られても、冷たい視線を投げつけられても、絵を否定されても、そんなことは別に良かった。
ただ、絵が描ければ。
(僕は・・・・・・僕だって、昔みたいに、お前と・・・・・・っ)
それはもう二度と叶うことがない願い。
すれ違った二人が、すれ違ったままに叶えることができなかった夢。
もう二度と訪れることがない、あの日、あのときの光景。
貧乏なボロアパートで、プリントの裏に短くなった色鉛筆で描いた、二人の絵。
一度だって忘れたことがないあのときの絵を思い返しながら、合人はアトリエの真ん中で嗚咽を漏らして泣き続けた。
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