4-6

 ひとしきり泣いた後、合人は杏華の部屋で残りの動画を全て見せてもらった。

 そこには杏華の口から語られる景司の気持ちや、絵を通して伝わってくる景司の想いがあり、涙は乾く暇なく、そして押し寄せる後悔の波が合人を襲った。

 休憩らしい休憩も挟まずに全ての動画を見終わった頃にはすでに空は真っ暗だ。長居をしてしまったことを詫びて伊庭家を出ようとすると杏華とその両親が笑顔で合人のことを送ってくれた。

「弟くん。いや、合人。キミはこれからどうするんだい?」

 という杏華からの質問には答えることができなかった。

 これからどうしたいのか。今はまだ、決めることができない。

 動画を見て景司の想いを知ることができた。

 景司が本当はなにを想い、そしてどういう気持ちで合人へ厳しい言葉を投げかけていたのか、それらを知った。

 あの日、合人が絵を描こうと決め、景司に相談を持ちかけた日。もしも父親の邪魔さえなかったら、合人は景司に伝えられていただろうか。合人の気持ちを聞いて景司は受け入れてくれただろうか。笑ってくれただろうか。

 今となってはわからないことだが、それでも景司の気持ちを知った今なら、兄は受け入れてくれただろうと思える。

 だが、だからといって合人の罪が、罪悪感が消えることはない。こんな気持ちを抱えたまま、絵を描けるのだろうか。描いたとして、それは自分が本当に描きたいものなのだろうか。

 自信が持てなかった。だからまだ、これから先の自分について結論を出すことができずにいる。

「良かったらこれからもうちに来て絵を描いてはどうかな? 私のアトリエは景司のものとは比べるまでもないものだが、それでもキミに場所を提供することができるよ。キミが景司のアトリエを使う、ということはきっと難しいだろうからね」

 杏華の言うとおりだ。

 直接的ではないにしろ、景司の死の原因の一つである合人が、ただでさえ嫌われている両親から景司のアトリエで絵を描くことを許されるはずがない。だからこの申し出は合人にとっても好ましいものだった。

「・・・・・・ありがとう、ございます。少し考えさせてください」

「・・・・・・うん。また声をかけてくれ。それじゃあ」

 杏華の表情はやはり変わらず無表情に近かったが、それでも若干の寂しさが見て取れた気がした。

 合人はその場で杏華と別れ、夜の街を歩いた。

 スマホを出して切っていた電源を入れる。すると着信履歴に両親からの電話がたくさん掛かってきていたが、それらを無視して時間を確認すると、もうすぐ日付が変わろうかという時間だった。

「・・・・・・行かないと」

 今から行けば、まだ間に合う。

 合人は暗い暗い空の下、あの場所へと向かった。

 時間がなかった。こんな時間ではもうバスも動いていないし、合人の年齢では問題なくタクシーに乗れるかもわからない。いや、間違いなく乗車拒否の上に補導の対象になるだろう。

 人気のなくなかった道をひたすらに走る。邪魔するものは誰もない。合人の心を縛っていた重しだって、今はもうほとんどない。軽くなった心に連動するように足も軽やかに動いた。

 息を切らせながらやっとその場所に辿り着く。

 廃団地。

 その全貌を一度だけ見上げ、合人はその中へ。彼女が待つであろう場所へ、向かう。

 最上階の、一番端の崩れかけているあの場所。

 二人が初めて出会ったその場所に、彼女――エミリーはいた。

「・・・・・・ごめん、遅れて」

「・・・・・・ううん」

 エミリーは力なく壁に背を預けコンクリートの上に座っている。元々、顔色は白かったが、一週間前に見たときと比べてまた白くなっているように見える。額には汗が僅かに浮かび、表情の端からは今も襲ってくる痛みに耐えていることが窺えた。

 そんな彼女の姿に、声をかける。

「・・・・・・景司が、死んだんだ」

 そう告げるとエミリーは一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに全てを理解したような表情になる。

 景司のことは言うべきかどうか正直迷っていた。

 今更言っても言い訳のように聞こえるかもしれないし、そもそももうどうしようもないところまで来てしまっている。

「大丈夫?」

 余計な期待を持たせてしまった。

 人間に戻れると期待させてしまった。

 だが、結果はこれだ。しかも景司の死の原因の一つは合人にあり、だから罵られたっておかしくはなかった。

 だがエミリーはそんな合人の身を真っ先に気遣う。

 自分のほうが辛いはずなのに、痛いはずなのに・・・・・・。

「・・・・・・この一週間、僕は抜け殻だった。景司なんて居なくなればいいってずっと思っていたはずなのに、実はそうじゃなくて、一緒にまた絵を描きたいって思ってたみたいなんだ。今日の葬式で伊庭さんに会って、景司のことを聞いて、気持ちを知って、やっと素直に認めることができたんだ」

 本当に後悔が消えない。

 もっと早くに素直になれていたら、きっとなにかが違っていたはずだ。

「そっか・・・・・・。なら、良かったね。これからも絵を描くんでしょ?」

「そうしようかと、思ってる」

 杏華の家ではああ言ったが、ここへ来る道すがらずっと考えていた。

 景司の死の原因である自分が、景司の後を継ぐように絵を描いてもいいのか。自分にはその資格がないんじゃないか。

 でもそんなことを考えたとき、真っ先に浮かんだのはエミリーの言葉だった。

 好きなことをするのに、資格なんていらない。理由なんていらない。合人が絵を描きたいのなら、それを邪魔する権利はどこの誰にもない。

 多くのものを失って、初めて自分の気持ちに素直になれた。なにもかもが遅かったのかもしれないけど、でもだからこそ、絵を描くことだけは諦めたくなかった。

 景司や、杏華や、エミリーの言葉とも違う。合人が合人の意思で、合人の気持ちに正直になって、絵を描き続けると決めたのだ。

「僕は、絵を描くよ」

 自分のしたいこと。それを改めて素直に口に出して伝えると、エミリーは力なく、それでも笑顔を向けてくれた。

「・・・・・・たくさん、絵を描いてね。合人の思ったとおり、好きなように、たくさん」

「僕には景司のような才能はないから、どこまでできるかわからないけどね」

「関係ないよ、そんなの」

 言って、エミリーはコンクリートの床を手で叩いた。

「合人は頑張ってきたんだから。止めたくなるような状況でも、十年間ずっと絵を描いてきた。誰からも認められなくても、辛くて投げ出したいときでも、それでもずっと描き続けることができるのは、それは立派な才能なんだよ。努力っていう、才能」

「・・・・・・っ」

 エミリーの言葉が胸に刺さる。

 ずっと誰かに言ってもらいたかった。

 絵の出来が景司に及ばなくても、それでも自分がしてきたことをたった一人でいい、誰かに認めてもらいたかった。言葉にしてほしかった。

 エミリーのその言葉は、合人が最も欲していたものの一つだ。

「見て、合人・・・・・・」

 もう一度、エミリーは床を叩く。

 その仕草すらすでにとても辛そうで、堪えていたものが溢れそうになる。

「ここには、そんな合人の努力の成果と結晶が詰まってる。・・・・・・わたしね、とても嬉しいんだよ?」

「嬉しい?」

 うん、とエミリーは頷き、続けた。

「合人に出会わなかったから、わたしは誰もいない場所で、一人で、静かに消えていくしかなかった。でもここにはたくさんの人がいる。たくさんの人の感情がある。一つ一つの部屋から、今にも人の声が聞こえてきそうなくらい。とても賑やかで、楽しそうだよね」

 それは合人の描いてきた物言わぬ人の形。声など発しない、感情などないはずの、ただの絵だ。でもエミリーはそこに人としての暖かさを感じてくれている。

 合人が思い描き、願いを込め、感情を乗せた絵から、込めた心を感じてくれている。

「わたしは人間に戻りたかった。誰にも知られずにひっそりと消えるよりも、人間として、人間の輪の中で死にたかった。でもそんなことはきっとできないと半分くらいは諦めてたの」

 だが、エミリーは人間に戻ることができた。

 それは一日にも満たない時間だったかも知れないが、それでも太陽の下を歩くことができるくらいまで、人間に戻ることができていた。

「合人のおかげなんだ。合人がわたしに人間としての生を思い出させてくれた。合人がわたしを、人間の中で逝かせてくれる」

「――っ」

「それはね、きっと・・・・・・吸血鬼にとってはとても贅沢で、とてもとても、幸せなことなんだと思うんだ」

 手が震える。視界が滲む。

 堪えるのも、もう限界だった。

「――エミリー! 僕は、僕は・・・・・・っ! ごめん、ごめん・・・・・・っ」

 合人は膝から崩れ落ち、這うようにしてエミリーの側に並んだ。

 床の上に投げ出された手を握ると、彼女の手は酷く冷たく、その熱のなさが命の残量を表しているようで後悔と懺悔の気持ちが溢れ出る。

「どうして・・・・・・謝るの?」

「僕が景司を死なせたから! 僕が景司をちゃんとここへ連れてきていれば、キミはもしかしたら――」

 そうだ。もう時間がない。タイムリミットは目前で、それは変えようのない運命だった。

 今日はエミリーの誕生日。

 百回目の、誕生日。

 そして吸血鬼にとって、この世に在ることができる、最後の日。

 景司の血が、都市伝説の通り吸血鬼を人間に戻すことができる特別なものだったのかはわからない。

 でも可能性は大いにあった。きっと景司以上の可能性なんて他にはなかったはずだ。

 だからたった一人、たった一回の可能性にかけた。だがそれは指の隙間から砂が流れ落ちるようにして消えてしまった。

 日付が変わると同時にエミリーは吸血鬼としての寿命を全うする。もう時間はない。景司の代わりを探す時間も。それどころか、ゆっくりと言葉を交わしている、時間さえも・・・・・・。

「――違うよ」

 握っていた手を、エミリーのほうからぎゅっと握り返される。

 弱々しいのに、しかしどこか力強く感じる彼女の手の感触に顔を上げた。

「吸血鬼にとって、人間に戻れるってことはやっぱり特別なこと。太陽の下を歩けるってことは凄く大事なことなの。普通は、そんなことできない。でも合人はその時間をわたしに与えてくれた。だから謝ることなんて、ないんだよ?」

「でも・・・・・・っ」

「合人。・・・・・・合人はね、わたしの特別」

「え・・・・・・?」

「わたしに人間としての時間をくれたから、わたしは人間としての気持ちを思い出すことができた。そして合人はわたしの最後を人の輪の中で迎えさせてくれる。それは、合人がここで絵を描き続けていたから。だからわたしは・・・・・・人間として、人の中で逝くことができる」

 言って、エミリーは力強い笑顔を見せた。

 その頬には一筋の跡すらもない。

 後悔も、恐怖も、心残りも何一つない。

 本当に満足して、自分の最後を受け入れて、それを『良かった』と心の底から思っている。

 今のエミリーの笑顔は、そういう笑顔だ。

「だからね、合人は――わたしにとっての、特別でした」

「――っ」

 握っている手の感触が変わる。

 はらりはらりと、彼女の身体からなにかが舞い落ちる。

 夜の闇に溶けて消えそうな、黒い灰。

 時間が来たのだと、わかった。

 彼女の、エミリーの身体が、少しずつ、しかし確実に灰となって崩れていく。

「エミリー!」

 名前を叫び、思わず手を握る。

 すると手の中でなにかが崩れる感触がした。その感触が怖くて、信じたくなくて、視線を向けることができない。

 もう、いつ崩れ去ってもおかしくない。

 彼女の命はまさに今、尽きようとしている――。

「絵を描いてね、合人。あなたが絵を描きたいと想い続ける限り、あなたはあなたの絵を、自由に、好きなように、たくさん描いて」

「・・・・・・うん・・・・・・っ」

 もうどうすることもできない。

 崩れゆく大事な人の身体を、もう見ていることしかできない。

「わたしの最後のこのときを、あなたと一緒に迎えられて良かった。最後の最後に、あなたと出会えて、本当に良かった」

「僕もだ、エミリー・・・・・・ッ」

 どれだけ祈っても、願っても、彼女の運命は変わらない。

 たった一人の人間の力では、彼女の運命を変えることはできなかった。

 ならばもう、合人がエミリーのためにしてやれることなんて一つしかない。

 彼女の願いを聞き届け、彼女と同じように笑う。

 だから合人にできることは、二人の出会いが本当に良いものであったのだと、楽しくて、嬉しくて、心の底から笑い合えて、この人生で最良の出会いの一つであると、お互いに刻み込むことだけだ。

 だから、笑った。

 もう、エミリーの前で泣くことは許されない。

「・・・・・・もう、時間・・・・・・だね」

 エミリーの身体はほぼ灰となって崩れている。

 その中でエミリーは最後の力を振り絞るように合人へと顔を向け、まるで夏の太陽のような笑顔をみせた。


「・・・・・・合人。わたしの――この青空の下を歩く夢を叶えてくれて、ありがとう――」


「――うん・・・・・・っ」

 目を閉じた。

 泣いてはいけない。涙を堪えるためにぎゅっと目を閉じた。

 堪え、堪え、堪え、そして、目を開ける。

「――――っ」

 そこにはもう、誰もいない。

 合人のことを救ってくれた笑顔は、もうない。

 あるのはただ、彼女が纏っていた服と、彼女だった黒い灰。

 堪えたはずの涙が、流れ落ちる。

 その涙が灰の中に沈み、合人は誰もいなくなった虚空へと向け、言った。

「――こちらこそ、ありがとう。――エミリー・・・・・・」

 最後の言葉は夏の夜空に吸い込まれるようにして消えた。

 そこにはもう、誰もいない。

 かつて一人で絵を描いていた廃団地が、静かに合人のことを包んでいた。

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