4-1

 いなくなってしまえ――と、そう思っていた。

 なんでも持っている兄。なにも持っていない自分。

 誰からも愛される兄。誰からも愛されない自分。

 必要とされ求められる兄。必要とされず求められない自分。

 自由に絵を描ける兄。自由に絵を描けない自分。

 いつも比べて、悲観して、怒り、憎み、妬んだ。

 だから、いなくなってしまえと、そう思っていた。

(おかしいな・・・・・・)

 でもきっと、もしかしたら、心の底からそんなことを思っていたわけではないのかもしれない。本気で景司がいなくなることを望んでなんていなかったのかもしれない。

 だって、なぜなら――。

(どうして僕は、僕の心は、こんなにも・・・・・・)

 寒い? 痛い? 辛い? 苦しい?

 なんて表現するのが正しいのかわからない。どれも正解で、どれも不正解のような気がする。当てはまるようで実は違う。そんな、言葉では言い表せない感情が合人の心の中で渦巻いている。

 景司が死んで、数日が経った。

 若き天才画家として名声を欲しいままにしていた景司の死は、美術界はもちろん、各所に衝撃を与え、あらゆるメディアに取り上げられた。

 この数日、テレビを点ければ景司の死に関するニュースが流れ、ネットを開けば景司の死のニュースが飛び込んでくる。そのどれもが正しく飲酒運転による事故死だと報じていたが、少しネットを潜れば景司の家族関係、不出来な弟のこと、その弟に呼び出された際の事故だったことがまるで本人が書いたかのように詳細に書かれている。

 そして連日行われるメディアからの取材も日を追うごとに過激になり、ついには家族関係の不和、合人と景司の関係、呼び出しの理由など、プライベートに関わる部分にまで土足で踏み込まれ、その答えを濁すことでいらぬ憶測が飛び交い始めた。

 そして、そうした関係や憶測を知った景司のファンや、そもそも他人の不幸を喜び話のネタにする人間たちからの攻撃が合人にも飛び火し始めた頃、景司の葬儀を行う運びとなった。

 もちろん合人は詳細な段取りなどを知らされてはいない。

 景司の死と自分の気持ちに考えが纏まらないまま呆然としていると、式の当日に学校の制服を両親から投げつけられ、この後に葬儀があることを知らされた。

 ただ座っていればいい。

 そう言われ、しかしなにもする気力の湧かない合人は丁度良いとその指示に素直に従う。その間にも両親は参列者の涙を誘うようなコメントを繰り返した。

 遺体の火葬が始まる。

 最後の面会として棺桶の中に収められた景司の顔は、事故当日よりもさらに青白く、しかしまだどこか現実味がない。

 相変わらず一枚の絵のようだと、最後の最後までそんな感想しか出てこない。

 絵を描き、絵に生き、そして死ぬときまで絵になるような男だった。

 神妙な雰囲気のまま遺体が運ばれ、火葬される。人間の身体を骨になるまで焼くには思いの外時間がかかるようで、その間は待ち時間となった。

 景司の葬儀には親類縁者はもちろん、友人知人、仕事の関係者、マスコミ、そしてファンまでもが参列した。

 誰もが景司の死に涙し、その才能が失われたことを嘆き、景司を死に追いやった者への怨嗟をぶちまける。

 そして、そうしているうちに聞こえてくるのだ。

 どうして死んだのが景司なのか。

 どうして合人が死ななかったのか。

 残念だ、残念だ、と。

「・・・・・・」

 合人は立ち上がって待合室からそっと出た。

 別にその話や雰囲気が嫌だったわけじゃない。そもそも他人なんて気にしていなかったし、最初から認めてもらえていないことはわかっていた。景司の死で、その当たりが多少強くなっただけに過ぎない。

 それに、今はそんな周囲の言葉など一切耳には入らない。

「・・・・・・っ」

 わからないのだ。

 景司なんていなくなればいいと思っていたはずなのに、いなくなればせいせいすると思っていたはずなのに、どうして今、合人の心はこんなにも乱れているのか。

 双子の片割れは自分の半身であると、そんな言葉をよく聞く。その片割れがいなくなってしまえば心の大事な部分に大きな穴が空くと。

 景司の生前は、そんなことあるわけない、と思っていた。バカバカしいと。

 だが今はその言葉の意味がなんとなくわかる。

 穴が空いたような気がするのだ。そしてその穴からいろいろななにかが抜けていっている。

 思考も、感情も、なにもかも。

 だからなにもできない。なにも感じない。

 どうしていいのかわからない。

 自分のことが、わからない。

「――弟くん」

 聞き覚えのある声に振り向くと、伊庭杏華が表情を硬くして立っていた。

「・・・・・・」

「大丈夫かい?」

「・・・・・・大丈夫?」

「なにが、という顔をしないでくれ。決まっているだろう?」

「ああ、はい。大丈夫、なんじゃないですかね」

「・・・・・・そうは見えないけれどね」

 杏華は肩を竦めながら言うと合人の隣に立った。

「大丈夫じゃ、ないんですか?」

「私が訊いているんだよ。だけどまあ、見るからに大丈夫じゃなさそうだ」

「・・・・・・大丈夫じゃない? 僕が・・・・・・?」

 自分では特別どうにかなっているつもりはなかった。ただ身体に力が入らない。そんな感覚が続いているだけだ。

「・・・・・・一つキミに謝らなくちゃいけないことがあるんだ」

「?」

 突然、杏華は空を見上げながらそんなことを言った。

 彼女の横顔を見る。目元が少し腫れている気がした。

「キミは景司のことを嫌いなんだと思ってた。だから彼の死を知ったとき、もしかしたら弟くんは喜んでいるじゃないかって、一瞬だけど思ってしまったんだ」

「・・・・・・たぶんそれ、間違ってないです」

 そう、間違っていない。

 だってずっと願っていたんだ。いなくなってしまえ、と。そしてその願いは叶ったのだ。だったら、喜ばないはずがない。

「本気で言ってる? 最近、自分の顔鏡でちゃんと見たかい?」

「顔?」

 そういえば鏡どころか風呂すら満足に入っていないことを思い出す。今日だって着替えるなり強引に連れてこられたんだ。

「だいぶ、酷い顔をしている。辛く悲しい顔をしている」

(辛く、悲しい顔・・・・・・?)

 無意識に手を頬に当てるが、それだけじゃ自分の顔色なんてわからない。

 やっぱり違うんじゃないか、見間違いなんじゃないか。そんなことを考えていると、頬を触れる合人の手の上に杏華の手が重ねられた。

「ちゃんと、泣いたかい?」

「――っ。泣く? 僕、が・・・・・・? どう、して?」

「言うまでもないだろう?」

 真っ直ぐに、杏華の視線が合人を見つめる。

 見返した瞳、目元はやはり僅かばかり腫れている。泣いたのだ、この人も。景司の死を知って。

(じゃあ、僕は? 僕は、泣いたっけ? 景司が死んで)

「・・・・・・泣いていない。いや、泣けないのかな?」

 兄の死。

 普通なら当然、弟は泣く。兄の死を悲しみ、悼み、時には絶望して感情を爆発させるだろう。

 でも合人はそうはならなかった。

 景司のことが嫌いだから?

 いや、そうじゃない。

「・・・・・・わからないんですよ」

「なにがだい?」

「それも、よくわからないんです。言葉じゃ・・・・・・なんて言っていいのかわからないんです」

「気持ちの整理がつかない?」

「景司のことは、嫌いでした。いなくなればいいって、ずっと思ってた。でも景司が死んで、いなくなって、だからといってそれを嬉しいとは感じない。嫌いなはずなのに、嫌いなやつがいなくなったのに、嬉しいと思わない」

「じゃあ、やっぱり悲しいんじゃないかな」

「それも、わからないんです。伊庭さんに言われて思い出してみたんですけど、僕、一度も泣いてないんですよ。涙が出ないんです。それってきっと、悲しくないってことですよね?」

 嬉しいわけでもない。悲しいわけでもない。

 なら、合人の気持ちはどこにある。

 合人は、景司の死をどう思っている。

「・・・・・・ああ、そうか。たぶんきっと、どうでもいいんだと思います」

「どうでもいい?」

「はい。嬉しくないのも、悲しくないのも、きっと僕が景司のことをどうでもいいと思っているから、じゃないでしょうか。そりゃそうですよね、だってずっと関わらないようにして生きてきたんです。家族から遠ざかって生きてきたんです」

 触れあい、関わる時間があまりにも短すぎた。

 怒りも憎しみも妬みも、全てがそうした長い時間の中で風化し、薄れていった。

 誰よりも近い他人――。きっと家族は、景司は、そんな存在だったのだ。

「だから、なにも思わないんです。たぶん」

 これなら説明がつく。納得がいく。

「そうか。そうなんだ――」

「――弟くん」

 声を遮るようにして杏華が名前を呼ぶ。

 いつの間にか離されていた杏華の手が、今度は合人の右手を握っている。

「ちょっとキミ、これから私についてきたまえよ」

「え、これから? でも、葬式」

「見ていたけどキミ、親族間でハブられているじゃないか。弟なのに手伝いも挨拶にも呼ばれず。それにほら、どうでもいいんだろう?」

 確かにそうだ。

 どうでもいい相手の葬式。誰も自分のことなんて必要としていない。それどころか合人がいては場の空気が悪化するだけかもしれない。

(なら、こんなところにいるだけ無駄か)

「・・・・・・決まりだね」

 表情から読み取ったのか、杏華はそう告げると手を握ったまま歩き出した。

 合人も連れられるままに杏華の後に続き、そしてそのまま火葬場から姿を消した。

 どうでもいい相手の、どうでもいい葬式。

 そう、もう一度心の中で呟きながら。

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