3-7


『中島景司さんが交通事故に遭われ、お亡くなりになられました』


 走った。

 ごちゃごちゃした頭のまま、手にしていたスマホを握りしめたまま、合人は走った。

 どこをどういう風に走ったのか覚えていない。ただひたすらに、夢中で走り続け、気がついたら教えられた病院の前に立っていた。

 肩で息をしながら見上げた病院に光はなく、真っ暗な院内の廊下が不気味に延びている。合人は震える足を強引に前に出し、緊急用の通用口から中に入った。受付で事情を説明すると警察の制服姿の男性と年若い女性の看護師が一人ずつ姿を見せる。

「中島合人くんかな?」

 枯れる声で頷くと、看護師が神妙な顔で「こちらです」と先頭を歩き、警察の男性が合人の隣に立ち歩き出した。

 心臓の音がうるさい。かいた汗は冷たく、夏だというのに身体は震えていた。ふらつく足取りを何度か心配されながら看護師の後に続き、そして辿り着いた部屋には『霊安室』と書かれたプレートが設置されていた。

 男性が一呼吸置いてそのドアを開く。合人は吸い込まれるように中に入った。

「あああっ、あああああっ!」

 まず聞こえてきたのは、そんな叫ぶような泣き声だった。

 霊安室の中にはすでに両親がいた。

 母親はその場に崩れ落ちて泣いていた。

 父親は声を殺して拳を握りしめていた。

 一歩ずつ、前に進む。薄暗い部屋の中央にはベッドがあり、その上に誰かが横になっている。

 顔の上には白い布が被せられていてその顔は見えない。

 合人がその誰かの隣に立つと、後から入ってきた看護師が無言でその布をどかす。

 布の下から現われたのは、自分と瓜二つの顔。よく知る、双子の兄の顔。

「・・・・・・っ」

 うるさいほどに鼓動していた心臓の音が聞こえなくなる。まるでその音を止めるかのように、ギリギリと心臓を握り潰されているような痛みが合人を襲う。

「電話でも伝えたが、交通事故だった。飲酒運転の車に撥ねられて」

 いつの間にか隣に立っていた警察の男性が、その瞬間の状況を説明する。

 景司の顔は青白く、ところどころにある擦り傷には血が滲んでいてその赤い色がやけに目立っていた。

「外傷は大きくはないが、うちどころが悪かったらしい。ほぼ、即死だったと」

 兄の最後の瞬間の話をされているのに、しかし合人の頭には一切入ってこなかった。

 気持ちの悪い汗が全身から噴き出る。喉が痛いほどに渇き、膝が震えて力が入らず、立っているだけで精一杯だった。

 景司の姿は、顔に傷こそあれどただ眠っているようにしか見えない。

 痛そうにも、苦しそうにも見えない。

 一枚の絵を完成させ疲れて眠っているのだ――そう言われたほうがしっくりくる。

 だがいくら母が景司に縋り泣いても、いくら父親が景司の名前を呼んでも、景司はピクリともせず、それに応えることはない。

 そしてそれは、まるで一枚の絵画のようだ。

 この冷たい現実の中で、景司の身体が横たわるその空間だけが、切り取られた一枚の絵に見える。

 それくらい、馴染みや現実味がなく、異常な風景だった。

「・・・・・・死んだ? 景司、が・・・・・・?」

 誰に向けた言葉でもない。確認を取りたかったわけじゃない。

 ただ口からついて出ただけの言葉だ。

 だがその合人の言葉に、隣に立つ警察の男性が反応し、「・・・・・・ああ」と力なく口にした。

「どう、して・・・・・・」

 誰かの死を、間近で感じたことが初めてだった。

 余命の宣告をされていたり、現実を見つめて覚悟を決めるだけの時間があったわけじゃない。

 唐突に起こった『死』という現象に頭と心が追いつかない。

「それを私たちは調べている最中だ。いや、もちろん飲酒運転による事故であることはわかっているが、そもそもどうしてお兄さんはこんな時間に外出していたのだろう」

 この街の人間なら、中島景司という人間を誰もが知っている。

 景司の素行も、普段なにをしているのかも、きっと誰もが知っている。

 だからこんな日付の変わる深夜に、その景司が外を出歩いていたという事実に違和感を持っている。誰もがありえないと、おかしいと感じるはずだ。

 合人だってそうだ。

 もしも景司がこんな時間に外を出歩いていたらその行動理由に疑問を持つ。

「・・・・・・僕が」

「ん?」

 だが、今回のことに限り、合人はその理由を知っている。

「僕が、呼び出した、から・・・・・・?」

 合人が頼んだのだ。0時にあの廃団地に来て欲しい、と。

 景司はちゃんと約束を守った。守ろうとした。

そして0時に廃団地に着くように家を出て、そして――。

「僕が、景司を呼び出したから・・・・・・っ」

 だから、景司は事故に巻き込まれた。

 だから、景司は死――。

「・・・・・・キミが? すまないが、少し詳しく――」

「合人!」

 警察の言葉をかき消す怒声が霊安室の中に響いた。

「合人、貴様!」

 直後、怒声と共に胸倉を掴まれる。掴んで来たのは言うまでもなく、父親だ。

 この世全ての憎しみと怒りを凝縮したような瞳が、合人を睨む。

「お父さんっ、落ち着いて!」

 その行動に慌てて警察が父親の腕を引き離そうとするが、父親は決して合人から手を離さない。

「どういうつもりだっ、貴様! お前が景司を!」

 烈火の如き怒りが降り注ぎ、身体が前後に激しく揺さぶられる。

 警察がなんとか父親を抑えようとしているが、しかしその間も父親からの罵声混じりの怨嗟の声は止まらない。

 だが正直、父親の言葉なんて耳に入っていなかった。

 どれだけ罵られようと、どれだけの悪意を向けられようと、合人が今感じることは一つだけ。

(僕が、景司を呼び出したから。僕が、景司を呼び出さなければ――)

 そして――。

(――僕が、死なせた・・・・・・?)

 合人が景司を呼び出さなければ、景司は今もアトリエに籠もって絵を描いていただろう。合人が呼び出してしまったから景司は外に出て、そして飲酒運転の車に撥ねられて死んだ。

 本当に悪いのは飲酒をした状態で運転をしたドライバーだということはわかる。

 だがそんな正論なんてどうでもいい。

 そもそも合人が呼び出さなければ、景司は外に出なかった。事故に遭うこともなかった。死ぬことも、なかった――。

「僕が、景司を・・・・・・」

「そうだっ、お前が! お前なんかがっ!」

 合人の言葉に反応し、父親の語気が強まる。その態度に危機感を強めたのか、警察が本気で父親のことを取り押さえにかかった。

 力ずくで父親を引き剥がし、後ろから羽交い締めにする。

 だが父親はそんな状態でも暴れ、しかし視線だけは真っ直ぐに合人に向けて口を開き続ける。怨嗟の言葉を、ぶつけ続ける。

 ふと、ふいに父親とは別の視線を感じた。

 反射的に視線を動かすと、その先には未だ景司の亡骸に縋り付いている母親がいて、目が合った。

 母親は暴れなかった。声を荒げなかった。

 しかし泣きはらした瞳は父親と同様に憎しみと怒りに染まり、その瞳がじっと合人のことを捉えている。

 そして、暴れ、憎しみを数々の言葉でぶつけてくる父親とは正反対に、静かに、たった一言に全ての感情を乗せるようにして、小さく呟いたのが聞こえた。

「――あんたが死ねば良かったのに・・・・・・っ」

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