3-3

 正直に言えば、葛藤はあった。

 絵を描くことを認めてもらおうと思ったあの夜から、合人はもう家族には期待せず、なるべくなら関わらないようにしようとすら思っていた。

 だがそんな決意とは裏腹に、事態は容赦なく展開している。

 ただただ時間がなかった。自分に出来うる策がこれしか思いつかなかった。

 だから癪ではあっても、自分を導いてくれた彼女のために頭を下げようと決めた。彼女のためなら自分の安いプライドなどいくらでも投げ捨てようと決めた。

「・・・・・・」

 いつもよりも早い時間。普段なら決して家にいることのない時間に、合人は景司のアトリエの前に立って息を整える。深呼吸をし、彼女のことを思い浮かべ、アトリエのドアをノックした。

「どうぞ」

 中かはら景司の声がする。了解を得て、ドアを開けた。

「――っ」

 視線が交わる。そして景司の表情はわかりやすいくらいの驚きの色をしていた。

 それはそうだろう。景司もこんな時間に合人が家に居て、しかも自分のアトリエのドアを叩くなんて夢にも思っていなかったに違いない。今訪れたのも父親か母親だろうと思っていたはずだ。

 言葉を失っている景司を見つめたまま、合人は一歩中に入ってドアを閉めた。

 アトリエの中は景司の世界だった。

 この家に引っ越してきてから、自分の意思で、そして両親からの厳命でこのアトリエには入らないようにしていた。才能の差をこれ以上は知りたくなかったし、絵を描いている景司の姿など見たくはなかったからだ。

 だが初めて入ったアトリエの雰囲気に、合人の心は呑まれていた。

 絵を描いても良いんだ。好きなことをしていいんだ。エミリーのおかげでそう思えるようになった合人の目は、素直な気持ちでこの風景を捉える。

 キャンパスなどの画材がいくつも置いてある中でも整理整頓が成されているのは、普段から景司がそれを心がけているからだろうが、やはりここは絵を描くための空間だ。立っているだけで絵の具の匂いが鼻をつく。

 景司の世界。

 それは合人の世界とはまるで違う。

 特別なアトリエにキャンパスや絵の具等の画材。廃団地の壁床にチョーク。才能だけじゃなく、わかってはいたが環境までも正反対だ。

(・・・・・・羨ましいな)

 少し前までの合人ならきっとこの光景を妬んで、苛立ち、毒づいていた。でも今は素直にそう思う。こんな描くために理想的な環境で、好きなように絵を描くことを想像してしまう。

 だがそれは決して叶わない。

 ここは景司のために作られたアトリエで、景司が作り上げた世界だ。この空間に、合人の居場所はありやしない。

「・・・・・・」

 そう思うと無性に悲しさが込み上げてくる。目の前にある欲しいものに決して手が届かない悲しみを押し殺すように、アトリエのことを意識から外してもう一度しっかりと景司へ視線を送る。

 一瞬の、視線の交錯。

「・・・・・・――頼みがある!」

 言葉と同時に頭を下げた。

 床を見つめる視界に景司の姿は映っていない。しかし面食らっているであろうことが雰囲気から感じ取れた。

 だがそれは好都合だ。景司が言葉を失っている間に、言葉を交わして口論になってしまう前に用件を伝えたい。

「街外れの山の麓に、もう誰も住んでいない廃団地があるのを知ってるか? 今日この後、そこに来て欲しい」

 頭を下げたままそこまで言うと、アトリエの空気が僅かに張り詰めるのを感じた。

 景司は今よりももっと幼い頃からプロの画家として大人の世界で生きてきた。だから精神面での成長が合人や同年代の人間よりも早く、乱れた心を落ち着かせて平静を取り戻すことが得意だ。

 合人がここにきた理由、合人が頭をさげる理由。気になることはあるだろうが、それよりもまず、問う。

「どうしてだ?」

「それは・・・・・・」

 引き替え合人は、兄に、両親に、周囲に反抗し続ける子供だ。同じ双子でも育った環境が真逆なら、当然、成長の具合も異なる。

 思っていた以上に冷静な景司の質問に合人の心が乱される。

 そもそも本当の理由を話しても信じては貰えないだろう。合人自身が景司の立場であったなら、突然、兄弟に『吸血鬼の女の子のために』などと言われて二つ返事で了承などしない。

 むしろ『吸血鬼』などと本気で語られたなら、相手の頭がどうかしたのではないかと疑ってしまうだろう。だからここでエミリーの正体について話すことに意味はないし、話すべきではない。

(まずはなんとか誘い出して、エミリーに会わせる。そしてエミリーの正体を教えて、事情を話すしかない)

 言葉は信じられなくても、自分の目で実際に見たものなら信じられるはずだ。

 だが問題なのは景司がエミリーの正体を信じるかどうかではなく、そもそも景司が合人の話に頷いてくれるのかということだ。

 家族仲、兄弟仲の悪い二人は、顔を合わせればいがみ合っている。いくら頭を下げてお願いをしたところで、これが合人のなにかしらの企みではないかと景司が疑ってしまう可能性が――いや、普通はそう考えるだろう。

 だからまず景司には、エミリーのことよりも合人のことを信じてもらわなくてはいけない。でも景司に信じてもらうためにいったいなにをどうすればいいのかわからず、それをゆっくり考えている時間も余裕もない。

「事情は後でちゃんと説明する。だから今回だけでいい、僕のお願いを聞いてくれ。頼む・・・・・・。いや、お願いします・・・・・・っ」

合人にできることは頭を下げることだけ。ひたすらに頭を下げ、景司が信じてくれることを願うだけ。それでもだめなら土下座でもなんでもする覚悟でいた。

「わかった」

「・・・・・・え?」

 意外すぎる返事に、お願いした当の本人は素っ頓狂な声を漏らしながら顔を上げる。

「なに?」

「いや、こんな直ぐに受け入れてくれるなんて思ってなくて・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・。なんとなく、気が向いただけだ。息抜きも必要だしな。それともなんだ、やっぱり止めるか?」

「いや! 頼む、是非!」

「わかった。時間は? これから直ぐに?」

「少し待ってくれ。時間は、0時に」

 いつも吸血をする時間。その時間なら間違いなくエミリーは吸血鬼の身体に戻っているだろうし、その時間帯に他人が廃団地を訪れたことはほとんどない。加え、景司が両親の目を盗みやすいだろうという考えからその時間を指定した。

 時間を告げるとさすがに思っていた以上に遅い時間だったのか、景司は一瞬だけ動揺した顔を見せるが、すぐに真っ直ぐに合人を見て、

「わかった。・・・・・・合人は、また出るのか?」

「・・・・・・ああ。廃団地で、また」

 それ以上の言葉は交わさなかった。

 合人はアトリエを出て、廃団地へと向かった。

 景司の血が、エミリーを救えるものだと信じて――。

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