2-10
エミリーに血を与えて家に帰る。
最近では両親も合人のことを本当に見放したのか、帰りが遅いくらいでは口を出すことは少なくなっていた。しかしなにがきっかけで小言を言われるかわからないため、念のため静かに用心して家に入る。
息を殺してそっと靴を脱ぐと、帰宅の音に気づいたのか、それともたまたまなのか、アトリエから景司が出てきた。
「合人。またこんな時間に・・・・・・」
両親は確かに口うるさくはなくなった。だが景司だけは未だに顔を合わせれば両親以上の小言を口にする。
「合人。最近のお前の生活態度は今まで以上に目に余るぞ」
エミリーに吸血をさせる以上、そして二人で決めたルールがある以上、帰りが遅くなるのは必然だ。だがそんなことは知らない景司から見れば、合人がより一層、非行に走っているように見えるのだろう。
「なあ合人、聞いているのか?」
無言で視線を外す弟に景司は詰め寄る。
いつもならそんな兄の行動を煩わしく、鬱陶しく思うところだ。
しかし今の合人の頭の中には直前のエミリーの言葉があった。
普段なら絶対に口にしない言葉。合人は顔を上げて景司に問う。
「・・・・・・今、なんの絵を描いてんの?」
その言葉に景司の足が止まる。顔を見れば驚いたような表情で合人を見ていた。
「順調なわけ?」
言葉に困っているのか、だんまりの景司の事情など無視して続けざまに問う。
自分でもおかしいと思う。普段なら絶対に景司に対してこんな質問はしないし、しようものなら直後にそんな自分に腹が立っただろう。
でも今の合人は苛立つどころか平穏そのもので、純粋な興味として訊いていた。
だがそんな合人の言葉を訝しんだのか、
「・・・・・・お前が僕や絵のことに興味を示すなんて珍しいな。どうかしたのか?」
「別に。言葉以上の意味なんてないよ。今、景司がどんな絵を描いているのか。順調なのか。それが少し気になっただけだ」
景司のことや絵のことは、家族や周囲にバレないために興味がないフリをしてきてはいたが、もちろんそんなことはなく気にはなっていた。だから合人の言葉に嘘はないのだが、それでも意図的に一つ黙っていたこともある。
エミリーの言葉が何度も何度も脳内を駆け巡る。
興味や関心がないわけじゃない。それどころか絵を描くのは好きだ。だから絵を描きたいと思う。でも周りがそれを認めてくれなかったから。だから合人は隠れて絵を描き続けてきた。バレないように、絵に興味のないフリをし続けて。
でもエミリーは言った。好きなことをするのに特別である必要はないと。理由はいらないのだと。
なら自分は絵を描いてもいいのだろうか。描いてもいいのならもちろん描きたい。今まで絵を描いてきたことを告白して、なんのしがらみもなく絵を描きたい。
だがそれが現実的ではなく、否定されるであろうことは理解している。そんなに簡単な話でないことも。だからこうして悩んでいる。前に進めず葛藤している。エミリーの言葉と現実がせめぎ合う。
でもだからこそ、たった一人でいい。誰かが背中をちょっとだけ押してくれれば、合人は前に進むことができるような気がしていた。もちろん誰でもいいわけではない。自分のことを強く否定し続けてきた誰か。自分との違いを明確に示してきた誰か。その誰かの後押しさえあれば、他の誰になにを言われてもきっと逃げ出すことはないだろう。そんな風に思っていた。
(・・・・・・言うのか?)
目の前の双子の兄に。天才画家に。自分も絵を描いていいかと、そのたった一言を。
汗が滲み、喉が渇き、正直吐き気すらある。でもそれほどまでの緊張せざるを得ないのが現状なのだ。
景司の後押しがあれば絵を描くことができるかもしれない。でももしも否定されてしまったら、関係は今以上に壊れるだろう。かろうじて家族と認識している存在が、きっと無関係な他人に――いや、もう敵として合人は認識してしまうかもしれない。
諸刃の剣のようなものなのだ、景司への告白は。
危険がある。むしろ危険のほうが大きい。
だがそのリスクを理解して尚、欲望や願望というものは叶えたいと思うものだ。
「――景司、実は僕も――」
「なにをしている」
意を決したその瞬間だった。最悪のタイミングで父親が姿を現した。頬は赤く上気していて、近づくにつれて酒の匂いが鼻をつく。
「父さん」
「おお、景司。絵はどうだ、順調か?」
「うん、そうだね。予定日には完成すると思う」
「そうか。今回の絵も頼むぞ。大口の客がつきそうだからな」
「・・・・・・わかっているよ、父さん」
景司の言葉に満足したように父親は笑顔を見せ、その肩を優しく叩いた。次の買い手はよほど羽振りでもいいのか、機嫌までに絵が完成すると聞いて父親はとても上機嫌な様子を見せる。
――が、それはあくまでも景司に対してのものでしかない。
「・・・・・・それで、お前はこんなところでなにをしている」
「・・・・・・」
打って変わって鋭い目が合人を射貫く。
「またこんな時間まで遊び歩きやがって。絵も描けず、非行に走り、ほとほとお前には呆れ果てた」
「・・・・・・っ」
久しぶりに聞く父親の棘のある言葉に奥歯を噛みしめて耐えた。今までと同じだ。なにも変わってはいないと、自分に言い聞かせて父親の言葉を聞き流す努力をする。
「チッ、また無視か。しまいには親の言葉すら無視するとは、本当にロクでもない息子だ。どうしてこうも双子の兄と弟で違うもんかね」
耐える、耐える。
本当ならこの男の顔面に一撃お見舞いしてやりたい気分だが、そんなことをしても意味はないしなにも改善されない。むしろこれまで以上にこの男からの目が厳しくなり、嫌がらせを受けるようになるだけだ。
「いいか、合人。もうお前がどこでなにをしようと知らん。だがな、お前の行動で家や景司の評判が貶められるマネだけは絶対にするな。大抵のことなら目を瞑ってやる」
(・・・・・・なにが目を瞑るだ。無関心なだけだろう)
「だが一つだけ言っておく。絶対に絵を描こうなどとは思うな。お前の下手くそな落書きは景司の絵の評価に悪影響しかない」
「・・・・・・っ」
わかっている。わかっていたはずだ。両親がどう思っているかなど。それに今までも言われ続けてきた言葉だ。今更言われたところで気にする理由にはならない。最初からこの男に期待などしていない。この男に認めてもらおうなどとは思っていない。
(ただ僕は、一人だけに・・・・・・――)
「・・・・・・そうだな、合人。お前は絵を描く必要はない」
「――っ!」
その言葉に思わず顔を上げて景司を見た。
その瞳には父親と同じような冷たい光が宿り、まるで虫でも見るかのような視線が突き刺さる。
(ああ、そうか・・・・・・)
理解した。全て理解した。
やはり最初から無駄だった。期待するだけ無意味だった。
景司に。こいつらに認めてもらおうなどと思うほうがおかしかったのだ。
認めてくれるわけがない。今まで散々、合人のことを見下し、貶めてきたのは他ならぬ家族だ。絵を描くという自由を奪ったのは他ならぬこいつらだ。
なにを期待していた。なにを求めていた。なにを望んでいた。
なにもない。最初から、なにもなかった。認めて貰える要素など、どこにも。
同じでいい。今までと同じでいい。
あの廃団地で絵を描く。場所がなくなったら探せばいい。今度は誰にも見つからない秘密の場所で、自分のために。そしてたった一人、合人のことを認めてくれたエミリーのためだけに絵を描く。
それでいい。それでいいじゃないか。
そう。それで、いい――。
「・・・・・・わかってるよ」
そう言った合人の視界の中に、もう父親も景司の姿も映ってはいない。
合人の中で確かに変わったのだ。この家にいるのはもう家族ではない。同じ場所で寝起きする人間。決して合人とは相容れない、そんな存在。
二人の間をすり抜けて合人は部屋へと向かう。その背中にまだ父親がなにかを言っていたが、もう合人の耳には入らない。
訊く必要がない、価値がない、意味がない。
家族という存在はもう、合人の中から消え失せたのだから。
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