2-8
葛藤はあった。
しかし合人は杏華の誘いを断った。
杏華はきっと合人のことを悪いようにはしないだろう。付き合いなんて半日にも及ばないが、伊庭杏華という人間のことを少しはわかったような気がしていた。
ただ単純に彼女は合人に絵を描いて欲しいと思っている。
彼女の気持ちは嬉しい。ありがたくもある。
でも彼女は景司と繋がりがある。それもたぶん、それなりに深く。
そんな彼女の庇護の下で絵を描くことは、自分のしていることが景司に露呈する危険が高いし、嫌でもまた比較されてしまうことを意味している。
願望とリスクを秤にかけて、圧倒的にリスクのほうが大きいと合人は考えた。
やっと嘲笑を無視することができるようになった。隠れて絵を描くことで一応の平穏を保てるようになった。この仮初の楽園を壊すだけの勇気は、合人にはないのだ。
「合人の絵はとっても上手だと思うよ」
杏華が去ったあと、なにをするでもなく合人とエミリーは廃団地に残った。これから絵を描く予定の部屋の真ん中に二人で座り、ただ無言で時間を潰しているとエミリーがポツリと言った。
エミリーの言葉がお世辞でも気遣いでもないことはわかる。でもどうしてもその言葉を素直に受け取ることができない。
「・・・・・・そんなことは、ないよ」
圧倒的なまでの実力と才能の差。
景司との違いを誰よりも理解し、感じているのは他ならぬ合人だ。だから他人になにを言われても、いくら褒められても、どうしても自分と兄のことを比べてしまい、そしてその差に愕然とする。コンプレックスが、邪魔をする。
「ねぇ、合人の言う意味ってなに? お金? 評価? 知名度? 特別ななにか?」
「それは・・・・・・」
「合人の求める特別って、なんなの?」
「僕の求める、特別・・・・・・」
特別になりたかった。景司のような特別に。
「僕はただ、見て欲しかった。絵を描くことを、許されたかった」
たぶんそれは誰もが当たり前に、そして簡単にできることだった。
でも合人だけは、それができない。
いつでも隣には景司がいた。天才の兄が。特別な兄が。周りは常に景司を基準にものを考えた。景司の絵のレベルで判断した。そのレベルに追いつけない双子の弟は、及ばないのなら必要ないと断じられた。
景司が特別だったから。そのレベルに到達していないと絵を描けないのなら。
それなら、合人も特別になるしかなかった。
「お世辞で良かった。景司に向けるものとは真逆の、ただの気遣いでよかった。たった一言、子供のときに描いたあの絵を『上手だね』って、お世辞でいいからそう言ってもらえれば、それでよかった。期待なんてされなくていい。ただ僕は、好きなように絵を描ければよかった」
そう、それこそただの価値のない落書きであっても。
特別に、なりかたった。
でも絵の実力だけは景司に及ばず、追いつけないとわかっていたから。だからなんでもいい、自分が自由にできるなにかを得るために、認めてもらうために、どんなことでも構わないから特別ななにかになりたくて、それで――。
「上手だよ、合人の絵」
「・・・・・・」
「嘘じゃない。お世辞じゃない。心の底からわたしはそう思ってる」
「でも、僕の絵は景司の絵と比べると・・・・・・」
「特別じゃない?」
合人は頷く。
「特別じゃなくても、いいじゃん」
「え?」
「特別じゃなくていいよ。合人は特別じゃないと絵を描いちゃいけないって思ってるみたいだけど、そんなことない。だいたい、どうして絵を描くのに特別である必要があるの?」
「それは、景司と比べて・・・・・・」
「そこがそもそもおかしいよ。合人のお兄さんがどれだけ特別でも、合人が絵を描くことに関係なんてない。お兄さんが特別なら特別で、それでいいじゃん。合人は合人で絵を描けばいい」
「でも、僕が絵を描けば誰もが景司と比べる」
そして評価し、見下し、言うのだ。
――特別な兄とは違い、才能がない、と。
「無視して」
「は?」
「周りの言葉も、評価も、全部無視して。それは合人が絵を描くのに邪魔なもの。合人に絵を描かせないようにする悪の言葉。わたし嫌い。だから無視して」
エミリーは拗ねたように頬を膨らませる。遙か年上の女性とは思えない、外見よりも幼く見えるそんな行動に合人は若干、毒気を抜かれて気が緩む。
「無視してって、そんな」
当然、今までも無視しようと試みたことはあった。それでも嫌でも耳に入ってくるのだ。そして心に刻まれてしまう。
「いいから、無視して!」
ついには駄々っ子のように怒り始めた。その幼さの残る言動が可笑しくて、合人はついに小さく吹き出し、それを見てエミリーはまた膨れる。
「どうしても合人が周りの評価を無視しきれないって言うのなら、わたしが合人に評価をあげる。合人の絵は、特別。ここに描かれた絵は、とっても特別なもの」
「ここの、絵が?」
「そう。だって合人がここで絵を描いていたから、わたしたちは出会えたんだよ。合人に出会えたからわたしは人間になることができた。合人のおかげで、わたしは今がとても楽しくて幸せなの。だから、特別」
「あ・・・・・・」
「わたしは念願叶って太陽の下を歩いて、したいことをすることができた。合人がいてくれたからそれができたの。そして、わたしと合人を引き合わせてくれたのは、合人が描いたこの絵だよ」
確かに絵を否定されていなければ、今の環境にいなければ、合人はたぶんここで毎夜絵を描くことはなかっただろう。そしてここで絵を描いていなければ、当然エミリーと出会わなかったし、彼女に血を与えることもなかった。
エミリーに出会えたこと。それを思えば、確かにここの絵も特別に思えた。ここの絵にも意味があるような気がした。
「好きなんでしょ、絵を描くの」
無言のまま頷く。
「だったら、描こうよ。好きに描こう。周りなんてどうでもいいよ。好きなことをするのに理由なんていらないよ。周りの言葉なんて意味ないよ」
言って、エミリーは笑った。
夜の支配者、不死者の王。
そう形容される吸血鬼とは正反対の、彼女が焦がれた太陽のような笑顔で。
「好きなことをするのに、自分が特別である必要はないんだよ」
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