2-7

「おぉ、おおっ。これはこれは!」

 結論から言えば、合人の思惑はまったく通じず、問答無用で廃団地まで連れてこられてしまった。まあ、抵抗して誤魔化す端からエミリーが真実を暴露していたのでどうしようもなかったのだが。

 現地へ到着してしまってはもう誤魔化しようがない。絵を描いていることを誤魔化すことよりも、このことをどう秘密にしてもらうか、その方法の模索に合人は頭を悩ませ始めた。

 そんな合人の気持ちなど気づかずに、杏華は一部屋ごとに描かれた絵を念入りに観賞しては感嘆の声をあげていた。そしてどういうわけか、それに対して本人よりもエミリーのほうが誇らしげに胸を張っている。

 まるで展覧会でも見るかのように杏華は時間をかけて合人の絵を眺める。

 最初こそ爛々と輝いて見えた杏華の瞳は、部屋を変えるごとに無表情に、いや、真剣なものへと変わっていき、口数もめっきりと減った。

 その雰囲気は怖いくらいに静かで張り詰めていて、自分のことのように自慢していたエミリーですら杏華の雰囲気に呑まれて静かに彼女の後ろに立っていた。

 この廃団地にある部屋のほぼ全てに絵が描かれていることはすでにエミリーの口から杏華に伝わっている。部屋の数は合人ですら正確には把握していないが、外から見ただけでもかなりの部屋数があることは理解でき、その分、時間がかかることも容易に想像ができる。

 杏華の絵を見るペースはこれがもともとのものなのか、それとも部屋数を考慮してのものなのかはわからないが、それでも一階にある部屋の半分を見るのに一時間以上を要した。

「素晴らしいじゃないか、弟くん」

 とある部屋を出た杏華が振り向き合人へと視線を向ける。

 その瞳には、今まで向けられてきたものとは違う光が輝いている。

「これだけの絵が描けるなんて、景司からは聞いていなかったよ」

「・・・・・・言ってませんからね。ていうか、絶対に誰にも言わないでください」

「どうしてだい? こんな環境で、チョークで、そしてこれだけのものが描ける弟くんの実力は相当だと思うが」

(僕の実力が、相当なもの・・・・・・?)

 杏華の言葉に悪意はないように思う。それは今まで悪意を感じ取り、隠されないものも隠されてきたものも読み取ってきた合人にできる特技の一つだ。

 そんな合人の直感が言っている。

――伊庭杏華の言葉に嘘はない、と。

 杏華は本当に思っているのだ。合人の絵は素晴らしいと。相当な実力があると。

 嘘でもなく、本人も絵を描いている杏華の言葉だ。勘違いということでもないのだろう。普通ならそれは嬉しく感じるのかもしれない。

 でも――。

「・・・・・・景司の絵と比べても、同じ事が言えますか?」

 言葉の中に嫌な感情が交じったことに気づいた。そしてそれは杏華にもきっと伝わっている。

 合人の言葉に杏華は表情を消し、しかし真っ直ぐに合人の目を見て答える。

「描いているものが違う。まったく同じものを描いているわけではないから、二人を正確に比べることはできない。・・・・・・だがそれでも、弟くんの絵と景司の絵には実力の差があると私は思う」

「――っ。そんなこと――」

 杏華の言葉に即座に反応したのはエミリーだ。

 エミリーは景司の絵を見たことがない。だからこんな風に反応したのだろうが、合人からすればその答えはわかりきったものだ。

「エミリー」

 名前を呼んで、静かに制した。

「わかっていますよ、僕だってそれくらい。実力・・・・・・景司のような才能が僕にはないことくらい」

「才能、というのなら景司の才能は確かに凄い。驚愕に値するものだ。天才という言葉は伊達ではない」

「はい。景司の絵は誰もが見る。僕の絵は誰も見てくれない。景司の絵は評価される。僕の絵は評価されない。景司の絵には価値がある。僕の絵には価値がない。景司は特別だ。でも僕は特別じゃない」

 言っていて相変わらず卑屈だと思う。

 それでも言葉は止まらず、感情は爆発したように溢れる。

「誰も見ず、評価せず、価値もなく、特別じゃない僕の絵は、絵なんてものじゃなくて落書きだ。ただの落書きに、意味はない」

 これだって散々言われてきた言葉だ。

 親から、画家から、画商から、顧客から、教師から、同級生から――。

 合人と景司のことを知っている人間全てから。

 そして、自分自身から――。

 心の声が聞こえることがあるのだ。絵を描いているとき、描き終わったとき、次の絵の構想を練っているとき。そんな落書きをする意味があるのか。時間と労力の無駄ではないか、と。

 落書きになんて意味はない。でもそんな自分の心の声を認めてしまうのが嫌で、その幻聴を振り払って絵を描いてきた。でもそれは自分一人だったから絵を描くことができたのだ。

 誰かにこのことを知られてしまって、同じことを口にされてしまったら、きっともう絵を描くことはできない。これ以上、自分の心から滲み出る声が大きくなったら絵を描くことがより怖くなってしまう。

 だからここへは誰も連れてきたくなかったし、誰にもこのことを知られたくはなかった。特に景司に近しく、また絵に関係している人間は。

 杏華のことが怖い。彼女の口からこれ以上の言葉を聞きたくない。

 廃団地でのことを他言しないと約束し、黙ってこの場から去って、二度と自分に関わらないで欲しい。

 そう、願った。


「――そんなことないよっ!」


 しかしその場の静寂を切り裂いたのは、合人の卑屈でも、杏華の言葉でもない。

 絵についての知識も技術もなにもない、中島家の家庭事情にだってそれほど明るくない一人の吸血鬼の言葉だった。

「意味がなくなんてないよ。だって合人の描いたものは落書きなんかじゃないから」

「いや、エミリー。僕の絵なんて・・・・・・」

「はいそこ、『なんて』とか言わない!」

 エミリーの人差し指が眼前に突きつけられる。合人が黙り込むと、エミリーは腕を下ろして続ける。

「わたしはここに描かれてる全部の絵を見たよ。わたしは絵を描けないし、詳しくもないし、評価できるほどの目なんてもってないけど、それでも合人の絵を落書きだなんて思わない。だって、楽しそうだもん!」

「楽しそう・・・・・・?」

「うん。もうここには誰も住んではいないけど、部屋の中にいるだけで家族の声が聞こえてきそうだった。ここに誰かが住んでいたときは、きっとこんな生活を送っていたんだろうなって思った。まるで私が、ここの家族になったような気分になった」

 そっと目を閉じたエミリーの顔はなにかを懐かしむように見えた。

 かつての自分の家族を、生活を、人間として生きた時間を思い出しているのかもしれない。

「私はあーだこーだってそれっぽいことを並べ立てて褒めることはできないけど、でもこんな暖かい気持ちにしてくれる合人の絵がただの落書きなわけないよ。意味がないなんてことは絶対にない」

 言って、閉じていた瞼を開いたエミリーの瞳にはとても強い意志が宿っていた。その瞳から、彼女の口にした言葉が彼女の本当の気持ちであり、嘘偽りがないことが感じられる。

「合人」

 優しく手が握られる。その手は吸血鬼のイメージと違ってとても暖かい。

「絵を描くことに意味が必要? 意味がないと絵を描いちゃいけないの? 誰がなにを描いたって、別に構わないでしょ?」

「それは・・・・・・っ」

 開きかけた口が閉ざされる。言い返すことができない。

 わかっている。わかっているのだ。

 本当は絵を描くことに意味なんて必要ないってことくらい。

 でも景司がいたから。隣に特別な存在がいたから。どうしても求めてしまうから。

 だから――。

「ねぇ、弟くん。キミは少し、景司のことを特別扱いしすぎなのではないか?」

 それまで黙っていた杏華が口を開く。前に出て、エミリーの隣に並んだ。

「だって、そうでしょう。あいつは、特別で・・・・・・」

「確かに景司は天才だ。才能があり特別だ。それは認めよう。でもエミリーちゃんが言ったように、それが絵を描いてはいけない理由にはならないと私は思うがね」

「それは・・・・・・あなたがなにも知らないから・・・・・・」

「確かにね。私はキミらの家の事情に明るくない。でもそれがなんだって言うんだ。キミの家の事情と、キミが絵を描くこと。それになんの関係がある? 描きたければ描けばいい。このようにね」

 そう言って杏華は上へ向けて両手を広げて廃団地全体を示した。その隣ではエミリーが笑顔で頷いている。

 二人の言葉は正しいのかもしれない。でもだからといって簡単に割り切れるようなものでもない。今までのスタイルがそう簡単に変わるわけがない。

 染みついているのだ。景司の才能も。自分の無能も。周りの評価と言葉も。いろいろなものが、心の隅々まで。

(そんな簡単に、できるわけがない・・・・・・)

 思った気持ちは言葉にはならなかった。ただ俯き、理想と現実の間で葛藤した。

「ねぇ、弟くん。一つ提案なのだが」

 そんな姿を見かねたのか、杏華が言う。

「私と一緒に絵を描かないかな。是非キミにはちゃんとしたキャンパスに絵を描いてもらいたい。場所も道具も、全部私が用意しよう」

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