2-3
「あの、合人・・・・・・。ごめんね・・・・・・」
景司から少しでも離れたくて夢中で歩いた。
明確な目的地があったわけではないのだが、気づけば足はあの廃団地へと向かっていた。敷地内に入り一息ついた頃、申し訳なさそうにエミリーがそう言う。
「いや・・・・・・。いいんだ、別に」
「良かったの・・・・・・?」
心配そうに訊ねるエミリーの顔を見ると、自分の家のことで心配や迷惑をかけて逆に申し訳ない気持ちになる。
合人からすれば景司とのやりとりや周囲の反応など日常茶飯事のことで、確かに今日はエミリーのこともあり多少、感情的になったかもしれないが、いつまでも気に病むようなことでもない。
しかし中島家の事情を知らないエミリーからすれば、自分の行動のせいで合人と景司がケンカしたように見えているだろう。景司のこと、家のことでこれ以上、彼女にいらない心配をさせて表情を曇らせてほしくはなかった。
「僕の家はさ、もともととても貧乏な家だったんだ」
「え?」
突然の合人の言葉にエミリーは戸惑った顔をするが、構わずに続ける。
「父親もあまり仕事が長続きしないような人で、収入が安定しなくてね。今にも壊れそうなボロアパートに家族四人で暮らしてた。両親は仕事で、僕はいつも景司と二人で遊んでた」
その頃のことは今でもちゃんと思い出せる。そしてそれが、合人にとって景司や両親と家族として過ごした最後の思い出でもあった。
「八年前、まだ六歳で小学生になったばかりの頃、家にゲームなんてないし家もボロいしで友達も呼べなくて、僕と景司はいつも二人で遊んでいたんだ。そのときに学校でもらったプリントの裏に二人で絵を描いたことがあって、仕事から帰ってきた両親に見せたことがあったんだ」
そのときのこともよく覚えている。そして、景司の絵を見たときの両親の表情も。
「両親はとても驚いていた。僕も景司も初めて絵を描いたんだけど、景司の絵はとても六歳の子供が描いたものじゃなかった。絵に関しては素人だった両親ですら、レベルの違いに気がつくくらいに」
もしもの話だ。
もしもあのとき、両親が景司だけでなく合人の絵も褒めていたら。お世辞でもたった一言「上手だよ」と言ってくれていたら、もしかしたらここまで家族の関係が拗れることはなかったかもしれない。
(・・・・・・まあ、今更か)
あったかもしれない未来を一瞬だけ想像し、しかしすぐに振り払う。
「それからすぐに絵画コンクールがあって、両親は景司に絵を描かせて応募した。そこで景司の絵は評価されて、異常なほどに注目されて、六歳の子供の描いた絵に何百万という値がついた」
あのときはただ凄いという感想しか浮かばなかったが、今にして思えば本当に異常だったと思う。
いくら景司の絵が凄くても、六歳の子供が描いた絵にそれだけの価値がつくなんて普通はありえない。いや、それだけ景司の絵が凄かったということなのかもしれないが。
「それから僕らの生活は一変した。両親は景司に絵を描かせ、それを売っていった。両親はそのときの仕事を辞めて、景司の絵を売る画商の真似事を始めたんだ」
生活の変化は目まぐるしいほどだった。景司の描いた絵が何十万、何百万という値で売れていき、中には何千万という大金を出す者まで現われた。
そして両親はそのことに味を占め、大金を手にして人が変わり、お金にものを言わせるような生活を始めて、今に至る。
「景司は、景司の絵は金のなる木だった。両親はその木をもっと実らせようとした。その木の価値に溺れていったんだ。その頃からだよ、両親が物事を価値でしか、お金でしか判断しなくなったのは」
確かに元々、特に父親の正確はそういう面が見え隠れしていた。しかし今ほど露骨な態度はとっていなかったはずだ。だが景司の絵が売れ、景司の絵に価値を見出し、それが自分たちの利になるとわかると、それを隠していた薄膜は簡単に破れて中身が出てくる。
「でも、子供の価値はお金なんかじゃ・・・・・・」
ここまで話せばエミリーにも大方の察しがついたのだろう。この先の展開だってわかっているはずだ。でもそれはあまりにも酷く、辛い現実で。だからわかっていても簡単に認めることができなくて、こんなことを口にしたのはきっと彼女の優しさだったのだと思う。
その優しさは嬉しいし、ありがたい。でも誰になにを言われ慰められたとしても事実が変わるわけではない。今までの人生がかわるわけじゃない。
「うちの親にとって、子供の価値は、価値があるのは景司だけ。あいつの絵だけだ。景司は絵を描くことを望まれてきた。でも僕に景司ほどの才能がないとわかると両親は僕に興味をなくした。絵が描けない僕は、なにも持っていない僕は、両親にとって邪魔でしかないのさ」
「そ、そんなこと・・・・・・」
「ありがとう、エミリー。でも事実だよ。現に両親に言われたことがあるんだ。『売れる絵が描けないのなら二度と描くな、お前のその落書きは景司の絵の価値を下げる』ってね」
きっとあのときからだったと思う。
合人が両親になにかを求めることをしなくなったのは。合人が景司のことを妬むようになったのは。
合人の言葉を聞いて今度こそエミリーは黙り込んでしまった。
ただでさえ他人の家庭の事情なのに、こんな重い話をされたら誰だって言葉に詰まるだろう。
嫌な話を聞かせてしまった。困惑させて心配させてしまった。申し訳ないことをしてしまった。だから、というわけではないが、合人は俯くエミリーの手を取って真っ直ぐに彼女を見つめる。
手を握られ顔を上げたエミリーと目が合う。その瞳を見つめたまま、笑顔を向けた。
「嬉しかったんだ。特別でもなんでもなく、特別じゃなければ価値がないと僕は言われてきたから。だからエミリーが僕のことを特別だって言ってくれたとき、本当に嬉しかった。こんな僕でも、誰かに認められて、必要とされているんだって。ありがとう、エミリー。エミリーだけなんだよ、僕のことを認めてくれたのは」
「合人・・・・・・」
「だから僕はキミのためだったらなんでもする。学校をサボってなにか嫌みを言われるくらいなんでもないんだ。学校に行くよりも、家族の機嫌を窺うよりも、僕はエミリーが楽しく笑ってくれるようななにかをしたい。なんでも言って欲しい。僕に遠慮なんてしないでほしい」
合人がしたいことはエミリーのしたいことだ。合人の価値はエミリーあっての価値なんだ。
兄も、両親も、周囲も、なにも関係ない。誰になにを言われようが、見下され笑われようが、エミリーが合人に価値を見出してくれただけで合人の心が傷つくことはきっとない。
「わたしは・・・・・・」
「エミリーは人間になりたかったんだよね? それで僕の血を吸って人間になることができた。なら、人間になったらやりたいことがまだまだあるんじゃない? 今日一日で全部ってことはないでしょ?」
十五歳で吸血鬼になってから昨日まで、エミリーは多くのものを我慢して諦めてきたはずだ。その何十年にも及ぶ我慢と切望がたった一日で満たされるわけはない。
「そりゃ、やりたいことはいろいろあるけど」
「ならそれをやろうよ。僕と一緒に」
「・・・・・・でも、わたしと一緒にいたらまた合人が怒られたり」
「言ったよね? そんなことなんでもないんだ。家族とはエミリーのこと関係なしに仲が悪かったんだから、今更エミリーが気にすることじゃないよ。正直、苦痛なだけなんだ。だったらエミリーと一緒にいたほうが僕にとっても幸せだ」
「ぅ・・・・・・」
語るうちに余計な熱が籠もっていたのか、半ば強引に迫るように求めていた。エミリーは多少、困惑し、視線を逸らしながらもチラチラと合人を窺う。
やがて、合人の気持ちに負けたのか、諦めたのか、エミリーは小さく息を吐き出すと頷いた。
「・・・・・・それじゃあ、わたしに付き合ってくれる?」
「もちろん!」
世界が明るくなった気がした。
今までは泥沼の底で、藻掻いても藻掻いても這い出ることは叶わなかった。泥が重油のように絡みついて浮かぶことができなかった。
でも一筋の光がその泥を溶かし、合人を照らし、その隙間から合人は這い出ることに成功した。
その光を掴み、その暖かさに心奪われ、そして誓う。
もう二度とこの光を離しはしないと。この光を守るためだったらなんでもすると。
この光以外、もうなにもいらず、望まないと。
「じゃあ、明日も今日と同じ場所、同じ時間に」
「うん、わかった。また、明日」
エミリーはまだ少しだけ申し訳なさそうな表情をしていたが、それでも最後にはちゃんと約束してくれた。
周囲がどれだけ暗くても、彼女という光があれば歩いて行ける。
この手を離さないように、決して見失わないように。
彼女が取り戻した時間を、今度は二人で生きていく。
そのためにはなんでもするし、なんにでも耐える。
エミリーだけが、隣にいてくれればそれでいい――。
――しかし、翌日。
エミリーが約束の場所に現われることはなかった――。
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