2-2

「明るい世界で遊んでみたいっ!」

 という、そんななんでもない願いを、まるで小さな子供のような笑顔で宣言したエミリーに手を引かれ、合人は一日中、彼女のお願いに付き合った。

 その願いは本当に小さなもので、彼女と同年代の(実年齢はかけ離れているが)子供なら放課後や休日に当たり前のように過ごす時間だ。

 でもエミリーは十五歳で吸血鬼になってから夜の世界でしか生きられず、合人が今までなんとも思っていなかった『当たり前』を知らない。だから合人にとってのその『当たり前』が、エミリーにとっては目新しく、新鮮で、衝撃的だったのだろう。

 休むことすら忘れてエミリーははしゃぎ回り、それに振り回されるうちに合人も楽しくなってきた。

(誰かと遊ぶなんて、何年ぶりだろう)

 景司の才能が開花してからというもの、日ごとに合人の周囲は変わり、彼に関わる全てが敵のようになっていった。誰かと遊ぶことはもちろん、誰かの隣に立つことすら合人にはなくなったのだ。

 楽しい、という感情なんて久しく忘れていた。

 笑顔を浮かべるなんて、もうないような気さえしていた。

「次! 次はなにしようかっ、合人!」

 本当に子供のように先を行くエミリーが笑顔で振り向きながら言った。

 ふわりと舞い上がった長い金髪が太陽の光を反射してキラキラと光る。その光がなにかの粒子のように彼女の周りに舞い散るような幻覚すら見えた。

 そんな彼女の姿はとても綺麗で、魅力的で、人間離れしていて。この一瞬を自分で描きたいと思った。今感じているこの感動を一枚の絵にして永遠に留めておきたいと思った。

 たとえ自分には景司のような才能や実力がなくても、それでも今の自分にできる精一杯の力でエミリーのこの姿を残しておきたい。

 きっと今の合人では、合人自身が感じているこの感情を全て表現することはできないだろう。でもいつか、誰にも認められなくても、何年かかってもいい。今この瞬間のエミリー・ニールの姿を残したい。

 だから合人はエミリーの姿を見つめた。

 この一瞬を忘れないために。

 いつか、この一瞬を絵にするために。

「そうだね。エミリーはなにを――」

 思う存分エミリーの好きにさせてあげよう。そう思って光り輝く彼女の元へ駆け寄って、そして見た。見えてしまった。

(――景司・・・・・・っ)

 街中の雑踏の中に、血を分けた双子の兄。景司の姿が。

「どうしたの、合人?」

 足は自然と止まり、直前までの晴れやかな気分が曇天のように覆われる。

 目の前に歩み寄ってきたエミリーの輝きでさえ、分厚い雲に覆われて見えなくなってしまった。

 この場から消え去りたい。早くこの場からいなくなりたい。

 そんな想いが溢れ、感情の濁流に押し流されるように一歩後退った。

「・・・・・・合人」

 しかしふいに景司の視線が動き、二人の視線が交錯した。

「合人っ」

 名前を呼び、景司が近づいてくる。

 逃げ出したい。なのに、足は動かなかった。

「お前、今日どうして学校に来なかった。連絡も無視して」

 学校を無断でサボれば連絡がいくくらいはわかっていた。両親にも、景司にも。だからあえてスマホの着信は無視していたのだ。

 苛立ちを見せたまま景司が近寄ってくる。そしてけっきょくこの場から逃げることができないまま、二人は手を伸ばせば触れ合えるほどの距離を開けて相対する。

「答えるんだ、合人。今日はどこでなにを」

「合人? その人は・・・・・・? って、うわ、顔そっくり! もしかして、双子?」

 エミリーの声にはっとする。合人の心を覆っていた雲は、気持ちと一緒にエミリーの存在すら隠してしまっていた。一瞬でも彼女のことを忘れていたことを後悔する。

「初めましてー、合人の双子の・・・・・・お兄さん? 弟さん? わたしは――」

 フレンドリーに自己紹介をしようとするエミリーの姿を隠すようにして、合人は景司の目の前に立った。

 考えての行動じゃない。反射的に、本能的に、合人は動いた。

「合人?」

 その合人の行動を、さすがに不審に思ったのかエミリーの困惑した声が背中から聞こえ、その声で合人は我に返った。

 顔が熱い。身体中が熱を持っていた。

 と、同時に気づいてしまった。

 自分の行動の理由も、身体が熱をもつわけも。

 会わせたくなかったのだ。

 自分よりもなにもかもが優れている兄に、やっと合人のことを特別だと言ってくれた少女のことを。

 それに気づくと自分の小ささとか、兄への劣等感とか、そういったものが溢れてきて恥ずかしくなる。

「・・・・・・合人お前、もしかして学校をサボって女の子と遊び歩いていたんじゃ」

 景司の語気がキツくなる。

 平日の昼間に学生が学校で勉強をするのは当たり前で、なにもかもが優等生でお手本のような景司からしたらそれが許せなかったのかもしれない。

 景司は勉強もスポーツもできて、人望もあって絵の才能にも恵まれている。だが合人には景司にあるものが何一つとしてない。景司に勝るものがなにもない。

 全ても持つ兄となにも持たない弟。景司から見たら合人は、『中島景司』に傷をつける要因でしかない。完璧な兄が完璧であり続けるためには、さぞかしこの出涸らしの弟の存在は邪魔だろう。

「合人!」

 景司の手が伸び、肩を掴む。

 一触即発の空気に周囲にも緊張が走る。――が、横から手が伸び、その手が景司の手首を掴んだ。

「よしたまえ、景司」

 落ち着いた、というよりは、覇気がなくどこか浮いているような女性の声だった。

 その声に視線を向けると一人の女性が立っていた。

 年の頃は合人や景司とそう変わらなく見えるが、彼女の着ているのが近場の高校の制服で、最低でも一つは年上の高校生らしいことはわかる。

「杏華さん・・・・・・」

 杏華と呼ばれた彼女の言葉に落ち着きを取り戻したのか、景司は合人から手を離す。それを確認すると杏華も景司から手を離し、

「初めまして、で良かったかなぁ? 私は伊庭杏華。歳はキミらの一つ上だ。よろしくね、弟くん?」

 そう言って握手を求めてくるが、杏華の表情は微塵も動かない。よろしくとは言うが本当は合人のことになど興味がないようにしか見えない。

(・・・・・・この人は景司と一緒にいた。景司に興味はあっても、僕になんて興味は少しもないだろうし)

 景司に気に入られようとして、仲良くする気もないのに合人に近づいてくる輩は少なからず存在する。顔は笑っているのに内心では見下し、嘲笑っている。そういった裏表のある人間と比べれば、杏華のように表情で語ってくれたほうが合人にとっては有り難い。

 一瞬、差し出された手をとろうかとも思ったが、特別仲良くするつもりも必要も感じないので視線を逸らすことで拒絶した。

「おや、フラれてしまったよ、景司」

「合人、失礼だろう」

「うるさいな。どうだっていいだろう、別に。とにかく、僕たちはもう行くから」

 これだけ騒げば周囲は興味を持ってその中心にいる合人たちを見る。そして景司の姿を確認すれば、誰しもが良くできた兄が不出来な弟を叱っている、という風に捉えるだろう。

 景司と一緒にいて下に見られ、バカにされることには慣れている。だが、だからといって心がまったく傷つかないというわけではない。それに一人でいるときと比べて、景司がすぐ側にいるのも心の防御が脆くなる要因だ。

(直接に比較なんてされてたまるか・・・・・・っ)

 合人は踵を返してこの場から去ろうとする。

 しかしその直後、視界の隅で起こった光景に足を止めた。

「ごめんなさい」

 そう言って頭を下げていたのは、エミリーだった。

「わたしが無理を言って合人に付き合ってもらったの。だから学校を休んだのはわたしのせいで、合人は悪くなくて。だから、ごめんなさい」

 突然の光景に合人も景司も面食らって黙り込み、周囲はさらにざわめきを増した。

 衆人観衆の奇異の目がエミリーに集まる。だが彼女はそんなことは意に介さずに頭を下げ続けていた。

「――よ、よせ、エミリー」

 先に我に返った合人がエミリーの肩を掴んで起こすが、当のエミリーは申し訳なさそうな顔を崩さずに、

「でも、わたしのせいだし」

「別にエミリーのせいってわけじゃないよ。学校に行ったって、僕は――」

 学びたいことがあるわけじゃない。親しい友人がいるわけじゃない。学校に行ったところで景司と比較され、クスクスと笑われ、心を殺す時間が続くだけだ。

 だったらいっそのこと学校なんて行かず、今日みたいにエミリーと一緒にいたほうが何倍もマシだった。

 だから合人は気にしてはいない。むしろ久々に楽しくて感謝したいくらいだ。

 だが景司は、そうじゃない。

「どんな理由があるのか知らないが、キミだって僕らとそう歳は変わらないだろう。なのに学校に行かず、うちの弟を連れ回したりして。少し非常識なんじゃないか?」

 責めるような、いや、事実としてエミリーの行動を責める景司の言葉が刺さる。エミリーはその言葉にしょんぼりと項垂れてしまった。

 でもそれは仕方がないことだ。

 彼女は吸血鬼で、人間とは違う枠の中で生きていて、長らく人の常識の範疇から外れてきたのだ。そして今、懐かしんだ人の時間を取り戻したことで心は浮かれ、多少とはいえ周りが見えなくなっていた。

 でもエミリーが吸血鬼であることなんて口外するわけにはいかない。したとしてもいったい誰が信じるというのか。

 景司の言葉は正しくもっともだ。

 だがそれでも、なんの事情も知らず、ましてや初めて自分のことを特別扱いしてくれたエミリーのことを非難されるのは、合人にとって我慢できなかった。

 双子の兄の言葉に苛立ち、一瞬だが理性のたがが外れる。そしてその一瞬の間に言葉は口から飛び出ていた。

「景司だって女子と遊んでるだろ」

「合人?」

「優等生で天才画家のお前がそんなことしてていいのかよ。絵はどうした、描かなくていいのか? 年上の女子高生を口説いて遊んでるのはお前だって同じだろ」

「いや、私たちは決してそういう仲ではないのだが」

 それでも表情乏しく割って入る杏華の言葉は合人の耳には入らない。

「お前には才能があるだろ。特別なんだろ。僕とは違って! だったら黙って絵を描いてろよ。父さんと母さんの言いなりになって絵を描いてろよっ!」

 苛立ちと嫉妬が入り交じった言葉が飛び出る。そしてその飛び出た言葉と一緒に、熱に浮かされていた気持ちも静まっていった。

「・・・・・・っ!」

 エミリーの、杏華の、そして景司の顔が目に入った。

 自分の放った言葉を思い出すと、その場に立っているのが辛くなる。

「・・・・・・行こう、エミリー」

 返事を待たず、合人はエミリーの手を引いて歩き出した。

 背後からなにかを叫んでいるような声が聞こえたが、その内容をあえて聞かないようにして、声が届かなくなってもまだ、合人は歩き続けた。

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