2-1

 朝、学校の制服を着て家を出た。

 しかし合人の向かった先は学校ではなく駅。そこのトイレで制服から私服に着替えを済ませ、制服を詰め込んだ通学カバンをコインロッカーに押し込む。そして待ち合わせ場所である改札前まで行き時間を確認する。

 待ち合わせの十分前。もう少し時間的な余裕はあるが周囲を見渡して待ち人の姿を探した。

 通学通勤時間と重なっていることもあり、駅は学生やスーツ姿の大人が多い。そんな中で明らかに子供である合人が私服姿で立っていれば少なからず目立つ。奇異の目で見られることには慣れているが、変に目立って補導などをされるのは避けたかった。

 合人は改めて人混みに目を向ける。するとその中に見知った顔を発見する。

 太陽の光を受けて輝く金髪と白い肌。瞳は黒く、人間として不自然なところなんてなにもない一人の少女。どこからどう見ても合人と同い年くらいの外国の少女が、合人のことを見つけて笑顔で手を振りながら駆け寄ってきた。

「おはよ、合人。早いね」

「別に。今来たところだから、エミリーと大して変わらないよ」

 と、事実を事実のまま伝えただけなのだが、エミリーはニヤリと笑うと、

「お、デートの定番のセリフだねぇ」

 口元に手を当ててニヤニヤする。

 エミリーとしてはそんなことを言って慌てる合人の姿が見たかったのだろうが、冷たい世間の評価と家族の中で生活してきた合人の心は年齢にそぐわないほどにスレているので、エミリーのあからさまな冷やかしに冷ややかなは視線を返すことで対抗した。

 それにそもそも今日はデートなどという浮かれたものではなかったはずだ。

 昨晩、エミリーの身体に変化が訪れた少し後に彼女が口にした言葉を思い出す。

「・・・・・・それで? 今日は『実験』するんでしょ?」

 そう、エミリーは言った。実験をしたいと。だから今日一日付き合ってほしいと。

 今日は平日でもちろん学校に行かなければならないが、今更サボったところで嫌みを言われるだけで誰も合人の存在なんて気にもしない。嫌みについても言われ慣れているのでこちらも今更どうでも良かった。

 それなら吸血鬼の言う実験とやらに付き合ったほうが遙かに面白うだったのだ。

「ちぇ。少しはドキドキとかしてくれないとつまんなーい」

 唇を尖らせながらエミリーは不満げな表情を浮かべる。

「そういうのはもう少し成長した女性になってから言ったら?」

 なんらダメージなんて受けてはいないが、からかわれたことへのお返しとしてそんなことを言ってやる。合人の予定ではここでエミリーが憤るはずだったのだが、当の本人はまるで気にした様子もなく言う。

「えー? 吸血鬼に成長とか求めちゃう?」

「え?」

 駅のホームでアナウンスが流れ乗客が入れ替わる。乗り込んだ人間と同じくらいの人間が下車し、それぞれ改札に向かってくるのが見えた。

「話してなかったけど、吸血鬼って成長しないんだよね」

 ぞろぞろと人の波が押し寄せる。

 しかしエミリーは気にした様子もなく淡々とそんなことを言うが、さすがにこんな話を人通りの多いところでするべきではないと思う。

 それにここに立ってもう十分以上。電車に乗るわけでもなくこんなところで私服姿の子供が二人で話しているとさすがに駅員に声をかけられる。そうなったらこの実験とやらもできなくなる。

「エミリー、ちょっとこっち」

 話途中のエミリーの手を引いて、合人は下車した人混みに紛れて駅を離れた。

 人の波に乗って歩き少しずつ目立たないようにフェードアウトすると、自然と人通りの少ない商店街へと行き着いた。商店街は近くに大型のショッピングモールやスーパーができてからというもの経営に苦しみ、営業を取りやめた店も少なくなく、人通りも減っているため人目を避けるには丁度良いかと思ったのだが。

(・・・・・・でもまあ、金髪の外人と僕の組み合わせだとさすがに目立つな)

 この町で合人のことを、というよりも中島家のことを知らない人間はほぼいない。なにせあの天才画家である景司の家族なのだ。本人はもちろん、景司の出涸らしのような合人のことも街中では広まっている。もちろん、良い意味では決してないが。というより、双子で顔が同じなのでどうしてもセットで覚えられてしまうのだ。

(次からは僕だけでも帽子でも被って顔を隠そう)

 エミリーにもできれば変装してもらいたいが、この長い金髪を隠しきるのは難しい。今の季節が冬ならば着込んで髪を隠すこともできたかもしれないが、今は七月の半ば。もうすぐ夏休みが始まるという季節だ。

「でも僕と二人でいるよりは目立たないか・・・・・・」

「ん? なにか言った?」

 合人の独り言に反応したエミリーが振り向くが、合人は首を振って歩き出す。

 とにかく目立ちたくないのならこの場を離れたほうがいいかもしれない。どうせならあえて人の多いところに行って紛れてしまうのも手だと思う。

「それで、実験っていうのは?」

 昨日の夜からずっと気になっていたのだ。その場で訊いてもエミリーはもったいぶって教えてくれなかったので、歩きついでにもう一度訊いてみる。

 するとエミリーはニマニマしながら答える。

「ここでクイズです! 人間は吸血鬼に血を吸われると吸血鬼になってしまうのはなぜでしょう?」

 突然のクイズに意識を僅かばかり思考へと向けるが、そもそもこの問題には答えが存在しないことに気づく。

 なぜならエミリーが自分の口で言っていたからだ。

 人間は吸血鬼に血を吸われても吸血鬼にはならない。

 彼女は確かにそう言っていた。だからこのクイズには正解が存在しない。しかしあえて答えを見つけるのなら、

「そういう設定だから、じゃないの?」

 合人も含めた人間のほぼ全てが思い描く吸血鬼像。それはフィクションであり、人間が作り上げた設定らしい。だからこの問いの答えは、存在しないか設定のどちらかだ。

「正解です。だってさ、変じゃん」

「・・・・・・なにが?」

「吸血鬼に血を吸われたら、人間はただ血を吸われただけだよ? なんで血を吸われると人間の身体が変わるの? 吸血鬼の血を飲んだ、とかならまだわかるけど」

「唾液とかが体内に入るからじゃ?」

「だったらわざわざ血を吸わなくてもいいじゃん。キスとかでだって唾液が体内に入るでしょ?」

 言われて見れば確かにそうか、なんて思いながらエミリーの言葉についつい目線が彼女の唇に向いてしまう。そんな気はまったくないが、それでもなんだか恥ずかしくて、それに少し後ろめたくて気取られないように視線を逸らす。

「つまりなにが言いたいのかって言うとね」

 逸らした視線を追うように、エミリーの瞳が合人を見据える。真っ直ぐなその瞳に見据えられるとなんだか直前の気持ちを見透かされそうで僅かに視線を下げた。

「人間が血を吸われて吸血鬼化するのはなんだかおかしくて、吸血鬼の血が体内に入って人間が吸血鬼化することがありえるかもしれないのなら、その逆もまたありえるかもしれないってこと!」

「逆?」

 自信満々な表情で言うエミリーに視線を戻しながら訊き返した。

 そもそも人間の吸血鬼化なんてものは物語上の設定に過ぎない。そしてその逆である人間の体内に吸血鬼の血が入ったら吸血鬼化するなんていうのは、その設定の中でも存在するかどうかのマイナーなものだ。

 では、エミリーの言う『逆』とは、なにか――。


「簡単だよ。人間の血を吸血鬼が吸えば、吸血鬼は人間になるかもしれないってことだよっ!」


「え・・・・・・?」

 エミリーの言葉は耳に入っているが、その意味を理解するのに僅かばかりの時間を要した。

 吸血鬼が人間の血を吸い、その人間が吸血鬼化するというのはよくある設定だ。しかしメジャーすぎるが故にその設定は定番化していて、それ以外の吸血鬼にまつわる設定を合人は聞いたことがない。

(ましてや、人間の血を吸った吸血鬼が人間になる・・・・・・?)

 吸血鬼という存在の設定の逆。言葉にすれば簡単で、単純にして明快な答えではあるが、そんな話は一度も聞いたことがないし、合人自身、考えたことすらなかった。

「こんな話があるんだ」

 合人の表情を見て困惑していることを察したエミリーが静かに語り出す。

「わたしたち吸血鬼の間に流れる噂話。都市伝説のようなもの」

 エミリーは合人から視線を外すと、想いを馳せるように遠くを見つめ続ける。

「合人たちが知っている吸血鬼の伝説。設定と実際のわたしたちは違う。太陽の光を浴びても灰にはならないし、魔法も使えない。でも太陽の下に出れば肌は焼け焦げて痛いし、魔法みたいな万能で凄い力はないけど、相手の目を見れば簡単な暗示をかけることはできる。人間と比べて便利ではあるけれど、不便なこともやっぱりあるんだ」

 そう語り出した彼女の瞳は、真っ直ぐに太陽へと向けられているように見えた。

 灰になって消滅することはないにしろ、太陽の光を浴び続ければその肌は焼け、爛れていくのだろう。日焼け程度の火傷ですら痛みを感じるのに、太陽の下にいる限り肌が焼かれていく痛みは想像することすら苦痛だ。

 しかもエミリーの話によれば吸血鬼は人間と比べて回復能力が格段に優れている。焼かれる端から身体は再生し、そしてまた焼かれていく。その痛みと苦しみは太陽の下にいる限り延々と終わることはなく、だからこそ彼女ら吸血鬼は太陽の下で生活することができない。

「吸血鬼ってね、もちろん生まれたときから吸血鬼なんだけど、生まれてすぐは人間と変わらないの」

「そうなの?」

「赤ちゃんとして生まれて、人間と同じように成長する。そして個人差があるけど、一定の年齢に達すると身体の成長が止まってあとは一生その姿のまま。わたしは十五歳のときに身体の成長が止まって、それからはずっとこの姿のまま生きてきたんだ」

 合人の知る吸血鬼の設定。その中に吸血鬼は不老不死というものがある。吸血鬼は年老いず、同じ姿のまま永遠を生きる。

 吸血鬼は不死ではないとエミリーは言っていたが、不老という点では人間側の設定と共通しているようだ。

(・・・・・・ん、ということは)

 そこでふと疑問が過ぎる。

「・・・・・・じゃあエミリーって、今いくつ?」

 見た目が同じくらいということと、喋り方や立ち振る舞いが見た目通りで老成していないように思えたので、とくに疑問を感じることもなく実年齢も同じくらいだと思っていた。

 だがエミリーの口ぶりから察するに、彼女は吸血鬼になってそれなりの時間が経過しているみたいだ。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・きゅうじゅうきゅうさい」

 エミリーは太陽に向けていた視線を地面へと逸らし、恥ずかしそうに告げた。

 きゅうじゅうきゅうさい。

 九十九歳。

 最初に彼女を見たときは同い年くらいかと思った。そして今の話を聞いてもう少し上なのかと考えを改めた。――が、エミリーの口から出た数字は、合人の考えの遙か斜め上を行く数字で・・・・・・――。

「もう一ヶ月もしないくらいで、ひゃくさい・・・・・・」

「――――バ」

「――は?」

 思考停止した率直な意見が口から飛び出そうになるが、直後にエミリーから向けられた殺気混じりの視線と言葉にその先を呑み込んだ。

「・・・・・・わたしの歳はどうでもいいでしょ、今は!」

 とにかく! と、エミリーは語気を少しだけ荒げて話の方向を軌道修正した。

 だがエミリーの実年齢が思っていた以上に衝撃的で、正直、直前になにを話していたか頭から抜け落ちていたので大人しく話の続きを待つ。

「――吸血鬼は成長が止まるまでは吸血鬼としての力がとても弱いから、普通の人間と変わらないの。吸血鬼としての力が使えない分、太陽の光を浴びてもなんともない。だから十五歳のあの日。わたしが吸血鬼になった日。その日までわたしは、合人と同じように太陽の下を歩いて、生活してた」

「じゃあ、こうして太陽の光を浴びるのは」

「うん、初めてじゃない。太陽の眩しさや暖かさも、人の溢れる風景も、音に満ちた喧騒も、全てわたしがかつて体験したこと。とても懐かしくて、もう二度と感じることがないと覚悟していた世界」

 でも彼女はそれを手にした。

 もう失ったと思っていた世界に存在している。

 合人が感じるこの世界の景色も、音も、感触も、合人にとっては日常でそう簡単に失われないものだ。だが一度は体験し、生きた世界を彼女は失い、また手に入れた。

(今エミリーは、どんな気持ちなんだろう)

 エミリーの横顔をのぞき見る。

 でもたった十四年しか生きていない合人では、百年近くを生き、その大半を吸血鬼として過ごしてきたエミリーの気持ちを表情から読み取ることは難しい。

「吸血鬼として生まれたことが嫌だったわけじゃないんだ。不便なことや嫌なことももちろんあったけど、これはこれでわたしの人生だし、吸血鬼で良かったって思えることだってちゃんとある。でもさ、人間と変わらずに生きていたあの十五年の記憶を忘れることはやっぱりできないんだ。もう一度、あと一回。それだけでもいいから、人間と同じように生きてみたい。いつしかわたしはそうやって思うようになったの」

 もう二度と手に入らない。もう二度と戻ることはできない。

 そういう想いがあったからこそ、エミリーは焦がれた。

 かつての十五年に、今までの人生からみれば大した時間ではないかもしれない、生まれてからの十五年に、彼女は想いを馳せてきた。

「そんなときにね、知り合った吸血鬼からこんな話を聞いたの。それは眉唾な、信じられないような話だったけど、でもわたしはそれに一つの希望を見出した」

「それは・・・・・・?」


「『吸血鬼は、人間の血を吸えば人間になることができる』」


 それは噂。都市伝説。

 でも合人はその言葉で合点がいった。

 エミリーが今日という日を実験と言ったことも、唐突だったクイズの意味も。

「今までにも人間の血を吸ったことはあったの。・・・・・・あっ、もちろん合意を得たうえでねっ!?」

 慌てて取り繕うようにエミリーは言う。あの晩と同じように、可愛らしく吸血をお願いする彼女の姿が浮かんだ。

「でもその話を証明することはできなかった。誰一人、わたしを人間にしてくれる人はいなかった。でも――」

 言って、エミリーは合人を見る。その瞳は輝き、頬が赤らんでいる。

 まるで恋する少女のような眼差しに合人はドキリとした。

 中島景司の出来損ないの弟。出涸らしの弟。そんな風に言われ続け、嘲笑と見下した視線しか受けてこなかった合人にとって、このエミリーの瞳は毒にも匹敵するほど強力なものだ。

 ほんの僅かな時間の視線の交錯。しかし合人にとってそれは何時間かと錯覚してしまうほどに長い。

「合人は、合人の血は違った。今までは誰も信じなかった吸血鬼を人間にできる血を持つ存在。合人はその証明だった。噂は本当だった」

 ぎゅっと手を握られる。感極まったエミリーも、自分がなにをしているのかわかっていないかもしれない。

 商店街を離れ歩きながらまた人の中に紛れて隠れていた。でも人の往来のある場所で立ち止まってそんなことをすれば嫌でも目立つ。

 でも今の二人にそんな周囲のことは関係ない。目がいかない。

「いろんな場所に行って、いろんな吸血鬼に話を訊いて、それでもダメで。だから条件が必要なんだって思ったけど、それがなんなのかもわからなくて。吸血鬼を人間に変えるほどの力を秘めているのなら、特別な血じゃないといけないんだって思った。誰でもいいわけじゃない。特別な誰かじゃなきゃいけない。だから合人じゃなきゃダメで、合人が特別だったんだよっ!」

「特別・・・・・・。僕が?」

「うんっ!」

 その言葉に合人は胸が温かくなるのを感じた。

 それはずっと求めていたものだった。絵でも、それ以外でも、なんでもいい。なんでもいいから一つだけ、特別なものが欲しかった。景司に勝るなにかが欲しかった。

 でもそれはどこにもなくて、全てにおいて景司に劣っていて、だから諦めて、でも諦めきれなくて・・・・・・。

 だけど今、合人は手に入れた。

 特別を。エミリー・ニールの、特別を――。

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