2-4

 エミリーが待ち合わせ場所に来なかったことは、とてもショックが大きかった。

 初めて合人のことを特別視してくれた人。初めて合人が求めているものをくれた人。

 彼女のためになんでもしたいと思ったことも、彼女の特別であり続けたいと願った気持ちに決して嘘はない。

 だがそれ故に、合人のエミリーを求める気持ちや、エミリーへの依存心は自分でも気づかないうちに大きいものになっていた。

 エミリーは決して裏切らない。エミリーは味方でいてくれる。

 心のどこかで勝手にそんなことを思っていたのだ。

 しかしよくよく考えればエミリーの目的は人間になることで、人間になって明るい世界へ戻ることだった。そしてその目的は合人の血によって達成され、エミリーは人間になった。

 ならばもう、エミリーがここにいる理由はない。合人と一緒にいる必要はない。

 彼女の目的は達成されている。自由な世界が、彼女の目の前には広がっているのだから――。

「・・・・・・っ」

 合人は今日も廃団地で絵を描いた。

 エミリーと出会ったことで中断していた絵の続きを描いていく。しかし不思議なことに、描かれる絵は描き手の心情を読み取っているかのように荒々しく、刺々しく、ドロドロとした感情に塗れていた。

 学校をサボって延々と絵を描いていた。嬉しくもなんともないが、こういうときに限って筆の乗りはよく、絵が進む。

 そして空が暗くなり、虫の鳴き声が当たりを埋め尽くす頃になって完成したその絵は当初のものと違いケンカする家族を描いたものになっていた。

 誰もが幸せに暮らせるわけじゃないことは合人が誰よりも理解している。リアルを追求するのなら、こういった絵があってもおかしくはない。だが合人が求めていたものはそんなものではなく、むしろこの絵のような世界から逃れたいがために、自分が理想と思い描く世界をこの廃団地に描いていたのだ。

「・・・・・・」

 完成したその絵を見て溜息を吐く。いつもは絵が完成すれば納得いくいかないに関わらず少なからずの達成感が生まれるが、今日はモヤモヤとした感情だけが合人の中には渦巻いていた。

(こんな絵が描きたかったわけじゃないのに・・・・・・)

 チョークを仕舞い部屋を出た。

 これ以上、絵を描いても納得いくものは決して生まれないだろう。気分を変える必要があった。

 部屋を出た合人の足はあの場所、自分の不注意で落下し、エミリーに助けられたあの場所へと向かう。

 本当ならエミリーのことは忘れて気持ちを切り替えないといけないのに、そう簡単に割り切れるほど合人は成熟していない。未練を引きずったままあの場所に立った。

 見える景色はあの日となんら変わらない。なのに合人の気持ちはすっかり落ち込み、溜息ばかりが漏れていく。

「・・・・・・はぁ」

 そして何度目かの溜息。

 気分も乗らないしここにいても思い出すだけなので、もう家に帰ってさっさと寝てしまおうかなんて珍しいことを考えていた、そのときだった。

「・・・・・・合人」

 か細い声で、しかし確かに自分の名前を呼ぶ声がした。

 慌てて声のしたほうへ視線を向ける。すると、初めて彼女の姿を捉えた物陰に、求めていた彼女の姿があった。少しだけ顔を覗かせた彼女は沈痛な面持ちで合人のことを見ている。

「エミリー・・・・・・」

 どうして今日来てくれなかったのか――。

 聞きたいことはもちろんあった。しかし顔を覗かせるエミリーの視線を真っ直ぐに見据えて、そして気づいた。

「エミリー、その目・・・・・・」

 人間になったはずのエミリーの瞳は、初めて出会ったときと同じように赤かった。

「・・・・・・うん」

 指摘されエミリーも観念したのか、ゆっくりと物陰から出てくる。

 輝く長い金色の髪、病的なまでの白い肌、そして深紅に染まる瞳と、背中から生える黒い羽。

 吸血鬼としてのエミリーの姿がそこにはあった――。

「あのね、わたし。・・・・・・なんか、戻っちゃったみたい。吸血鬼に・・・・・・」

「戻った・・・・・・?」

「うん。だから今日行けなくて・・・・・・。ごめんね・・・・・・」

 しょんぼりと、申し訳なさとショックが入り交じった複雑な表情を浮かべたままエミリーは謝ると、ゆっくりと浮かび上がり合人の下へ降り立った。

 近くで見ても変わらない。

 人間としての姿はそこにはなく、吸血鬼としてのエミリーがそこにいる。

「あのね、昨日、合人と別れたあと直ぐくらいに身体がおかしくなったの。そしたら少しずつ身体が吸血鬼に戻っていって・・・・・・。九時くらいにはもう完全に吸血鬼に戻ってて・・・・・・」

 昨日はあの後、今日の約束をした後は珍しく早く家に帰っていた。これは景司との一件や学校をサボったことでこれ以上、合人と家族の仲を悪くしたくないという(とは言ってもすでに家族仲はこれ以上拗れることはないくらいに険悪なのだが)エミリーの願いだったためだ。

 だがまさか、別れてからすぐにこんな事態になっていたなんて。

「なんで、どうして・・・・・・?」

「わからない」

 エミリーは首を横に振りながら答える。

 そもそも吸血鬼が人間の血を吸うと人間になれるということ自体が、吸血鬼からしても眉唾的な都市伝説だ。吸血鬼ですらその噂の真偽や詳細を知らないというのに、最近まで吸血鬼の存在を知らなかった合人に答えを出せるわけがない。

 二人はそれきり黙り込んだ。

 特に人間になって明るい世界で生活することを強く望んでいたエミリーのショックが大きいのは彼女の様子を見ればすぐにわかる。合人も少なからずショックを受けていたが、解決策を提示することができない以上、適当なことを口にすることはできない。

「・・・・・・やっぱり嘘だったのかな」

 消え入りそうな声でエミリーが呟く。その声色は今にも泣き出しそうに聞こえて、合人の胸は締め付けられた。

 本当に嘘だったのだろうか。ただの噂だったのだろうか。

「・・・・・・いや、そんなことは、ないと思う」

「え?」

「だって現に昨日は人間になれていた。太陽の下でもちゃんと遊べていたじゃんか。だからその都市伝説の全てが嘘だったなんてことは・・・・・・」

 ない、と断言できるほどに情報があるわけではないが、それでもここで「嘘だった」なんて口にすることは合人にはできない。

(・・・・・・なにか、僕に・・・・・・)

 エミリーに出会って数日。しかし彼女のことを(自覚はなにしろ)誰よりも大切だと合人は思うようになっていた。だからこんな沈んだエミリーの顔は見ていたくないし、もう一度エミリーが太陽の下を歩けるようにしてあげたい。

 昨日は一日中遊び回った。

 でもエミリーにはまだまだやりたいことがあるはずだ。今まで我慢してきた分、これから思う存分に漫喫してもらいたい。

 なにか方法があるはずだ。

 現に一日は合人の血で人間になれていた。

 だからきっと、なにか方法が――。

「・・・・・・そっか」

 ふと思いついた。

 いや、見落としていたものを見つけたと言ったほうが正しいだろう。

 合人の言葉にエミリーは顔をあげる。

 そう、簡単なことだったのだ。

「僕の血を吸えばいいんだよ!」

「合人の、血を? でも・・・・・・」

「違うよ、エミリー。一度血を吸っただけで一日だけ人間に戻れるのなら、毎日僕の血を吸えばいい。そうすれば、キミはずっと人間でいられるじゃないか!」

 簡単なことだ。

 合人の血を吸ってエミリーは確かに人間になった。でもそれが一日だけの期間限定なら、毎日、合人がエミリーに吸血させることで問題を解決することができる。

 たった一日だけ。それでも確実に一日は合人の血はエミリーを人間にしたのだから。

「それはっ、そうかもしれないけど・・・・・・でも・・・・・・」

 歯切れが悪いのは合人に遠慮しているのだろう。

 毎日血を吸うということは、合人をエミリーに縛ってしまうということだ。それを日課として行う以上、合人の行動はエミリーへの吸血を中心に動くことになり、少なからず制限されてしまう。

 そんなことはエミリーだってわかっている。だからこそ、合人の提案を受け入れることが彼女にはできない。

「エミリー」

 でも合人からすれば、エミリーのそんな懸念は無用のものだ。

 出会ってからの時間も関係ない。エミリーのことをどれだけ知っているかなんて関係ない。彼女が吸血鬼だって関係ない。

 エミリーがなんであれ、彼女だけが合人を特別だと言ってくれた。彼女だけが合人を特別な存在にしてくれた。彼女だけが、合人のことを受け入れてくれた。

 だから、合人はエミリーのことが大切なのだ。大切だからこそ、毎日、血を吸われるくらいなんの苦痛にもなりやしない。

「それで、エミリーが人間として生きられるのなら」

 それで、エミリーが喜んでくれるのなら。

 それで、エミリーが笑顔でいてくれるのなら。

「――僕は、構わない」

 強い決意を込めた瞳でエミリーを見据える。

 彼女の不安げな瞳を見つめ、自分が本気であることを伝える。

 エミリーはそんな合人の言葉を聞き、視線を交差させ、なにかを言おうと口を開きかけるが、それでもすぐに口を噤んで俯いてしまう。きっと合人への遠慮がまだ勝っているのだろう。

 自分のために合人を拘束してはいけない――。

 そんな想いがあるのだろう。

「エミリー。キミは僕のことを特別だと言ってくれた。今まで僕は特別な兄と比較され続けて、無能のレッテルを貼られて、自分は価値のない無能なのだと暗に言われて生きてきたんだ。でもキミは言ってくれた。僕は特別だったって。嬉しかったんだ。絵でもいい、勉強でもいい、スポーツでもいい。なにか一つだけでも景司に勝てるものが欲しかった。なにか一つでも景司を上回る特別になりたかった。それをくれたのがエミリーだったんだ。だから僕は、キミの力になりたい」

「で、でも・・・・・・わたしのために、そんな・・・・・・」

 どうもエミリーは合人が自分のためにリスクを冒し続けることを危惧している。

 毎日の吸血行為はもちろんだが、家族との関係、そしてなにより合人の身のことを案じている。一度だけの吸血とはわけが違うのだ。

(なら・・・・・・)

 が、合人だって引かない。

 ここまで言ったのだ。覚悟も決めた。決意した。ならあとは、エミリーを頷かせるだけだ。

「・・・・・・僕は、特別でありたい。それが僕の願いなんだ。エミリー。僕を、特別でいさせてほしい」

 もちろんこれは本心だし、それとは別にエミリーのことを考えての提案であることは間違いない。でも『エミリーのために』では彼女の心は動かない。ならば言い方を変えるまでだ。

 あくまでも合人自身のために――。

 毎日の吸血行為がエミリーのためではなく、合人自身のためなのだ。そうエミリーが思い込んだほうが、彼女の罪悪感も薄れるうえ、エミリーも断りづらくなる。

(ずるいな、僕は)

 そういう自覚はあった。

 でも自分自身のため。そしてエミリーのため。卑怯な言い回しをしてでもエミリーの首を縦に振らせたかった。

 もともとエミリーは人間になりたいという願望が強い。だからこそこうして海を渡って真偽がはっきりしない都市伝説に縋った。その願いはちょっとやそっとでは消せはしないし、諦めることもできない。

 そこに加えて明確なエサと、そしてエサとなる合人が合人自身のために、と懇願すればエミリーとしては断る理由が極限まで薄くなる。

 あとはもう、エミリーの心が傾くのは時間の問題だ。

「・・・・・・本当にいいの?」

「もちろん」

「ずっと、わたしの側にいてくれるの?」

「――っ、うん、もちろん」

 エミリーの言い方に少し照れくさくなるが、必死に表情を固定して頷く。

 少し不安げな赤い瞳が合人を見る。合人もその瞳を正面から見返し続けた。

 決して逸らさない。それが合人の決意なのだ。

 やがて――。

「・・・・・・うん。わかった」

 根負けしたように息を吐き出すと、エミリーは困ったような、でもちゃんと笑顔を向けて頷いた。

「ありがと、合人」

「――っ。ああっ!」

 エミリーが受け入れてくれたことが嬉しくて、今にも飛び跳ねて喜びたい衝動に駆られる。でもぐっと堪えて合人も満面の笑みを浮かべて頷き返した。

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