暗澹
枝を切る。花を捥ぐ。綻び始めの柔らかな房を篭に集めていく。空は白く、日は暖かく、ざあざあと吹く柔らかな風が露を落とす。シリケートの土にまばらな粒が浸みていって、日の差す中にあってなお暗い色をより暗いものへと変えた。
嵐は去った。ここには何もない。いっそ厳かですらある空気の中、脚立を掛け、枝を払う。折れた枝を集め、落ちた葉を集め、木々の剪定を進める。温室は静かで、声の一つも聞こえない。全くの元通りだ。地面の上の落ち葉達は変わりゆく季節を思わせる。箒を手に取り、千切れ飛んだそれらを掃いて、網篭に積んでいく。いささか量は多いが、慣れたものだ。混沌は清浄に戻っていく。気分が良いと、そう、思った。
◆
花の世話をしている。この温室において、花の担当は自分だからだ。木の世話をしている。この温室において、管理者というのは自分を置いて他には存在しないからだ。
鉈を振るって枝を切る。手篭を持ち、花に鋏を入れる。パチン。パチン。規則的に刃は閉じる。パチン。枝は積もり、篭は満ちる。ふかふかとした球体はそれ自体がなにか価値あるもののようだ。山と積まれたうちの一つを口へ入れて囓り取った。ころころと転がる芽は水っぽく、柔らかで甘い。手篭を戻し、集めた枝の中から綺麗なものを選別する。乱れた断面を削げば、嗅ぎ慣れた樹皮の匂いがした。水にさらして土へ植え替えれば根付くだろう。年のサイクルの中で葉を赤く染める木だ。これでいい、と思った。花に頼らずとも、樹木は様々なシグナルを出す。これでいい。
◆
川は滔々と流れている。水面には丸い葉が揺蕩う。自分は岸辺を覆う落ち葉を掃き集め、枝を拾った。不要になったそれらは砕いて乾かし、土に漉き込む。木に咲こうとする花たちを、俺は日毎に落としていく。温室は元の姿を取り戻しつつあった。雨を降らせずとも、あの黄色い靄が出ることはない。鋏を入れたつぼみを摘まみ取り、割りほぐして色を見れば、袋状になった花弁の中に粉が包まれていた。これがあの靄の正体であり、関知できないなにかに作用しているのだということはわかっていた。俺は奇妙な気持ちの悪さを感じて、手についたそれを服の裾で拭った。そうして水を弾くコートには黄色く指の跡が残った。
暖かい。涼しい。暖かい雨は肩を濡らす。冷たい雨は川へ波紋を広げる。花の世話に不備はなく、温室は変わらない。雨は降る。木々からは新しい芽が出て、編み目のような葉脈は柔らかくほどけていく。季節の変わり目なのだ、と思う。今はきらきらと光を透かすこの薄い葉も、厚みを増しながら樹木を彩る一枚になるのだろう。移ろいに目を細めて、摘み取った今日の分の花の芽を囓れば、やはり甘く柔らかい。木の芽とは違うのだ、と思う。中に含まれる茎のようなものは、包まっている粉とともに払い落とし、捨てた。
安寧はここにあった。花を摘む。嵐が来ることはない。膨らむ果実をもぐ。果実からは同じ木が生える。土を潤す柔らかなシャワーは慈雨である。強い雨で押し流さねばならぬような憂いはもうどこにもない。花の世話は順調で、温室は管理下にあった。そこに一分の乱れもない。今日も木々に水をやる。温かい雨が丘を濡らす。窓を開ければ、遠く、さざめきが聞こえた。吹き込んできた風にカーテンが揺れる。ここには何もない。地面へと植え替えられた挿し木は、切り取られた元の枝と同じ表情でしなやかに伸びていく。何も問題は無かった。新しく花が咲けば、他の木々と同じように世話するだけだ。それで良かった。心配など何一つ無く、季節はまた移り変わっていく。
◆
憂いなど無い。安寧はここにある。温かいと寒いが交互に来る。それだけだ。それが真実であった。上から通信が入るまでは。
質問の内容は、要約すれば『種は出来たか?』ということだった。種。温室の木々は挿し木で増える。種。タネ。たね。しばらく呆然とした後にその意味に気がついて、自分は背中が冷たくなるのを感じた。種。つまりそれはあの交雑は意図されたものであったということだ。俺は書きかけの報告書を握りつぶした。それは花のシグナル的役割の流れを受け、色づく葉の有用性を説いた嘆願書だったからだ。かわりに震える手でタイプのキーを押す。パチパチ、パチ、パチ。
なんと言おうか。考えを巡らせ巡らせ、種というものがつくのを見たことがない、花は咲くが、繊細なあれらは雨に流れてしまうようだ、と、そのようなことを書いた。たったそれだけ書くのに随分時間が掛かってしまった。恐ろしさに身を竦ませたまま送信し、何かの間違いであって欲しいと切に願った。
◆
返信は無く、あれは上の気まぐれであったのではないかさえと思い始めた頃、再び通信が入った。随分と間の開いた返信には、慣れないであろう職務へのねぎらいと、花の健全な維持には養分が要る旨、その対策方法についてや、交配の器を介した生殖の仕組みなどが事細かに記載されていた。それと、花は繊細であるので水やりは少しずつ高頻度でやるように、とも。
それを見て、ああ、と思う。間違いではなかったのがわかってしまった。もう花を切ることもないのだ、と理解する。種をまけ、変化を受け入れろ。望まぬ変化を自ら手配してやらねばならないのだと気づき、胸が悪くなった。あの様々な形を取るマーカーから生まれてくる異形の子供達を、自分は慈しみ世話を見てやらねばならないのだ。奇妙な子は育ちゆき、そしてまた新しい命を生むだろう。
交わらざるものから生まれ落ちた不浄の一族が汚れた胤を広げていくのを、じっと見ているしか出来ないのだと知った。それ以外に何があろう。自明。自明だ。それこそが上の意図したことだ。この通信が送られたときから、いや、作成された時点で、それ以外のアクションをとることはタブーであり、反逆だ。そういうことになった。なってしまった。嵐は来ない。こさせてはならない。自分は詳細な助言に対する感謝の言葉をどうにかつなげ、二度読み上げておかしなところがないか確かめてから送り返した。
◆
土を耕す。ねじ曲がった幹のために。肥料を漉き込んでやる。どんな姿で生まれてくるかもわからない次世代のために。蜜がにおい、黄色の粉が砂埃染みた息苦しさを連れてくる。膨らんだ粒を摘み取り、水を与える。硬い粒を割りひらき、少しずつ大きくなっていく芽が、それぞれ似て非なるものであると気付いたとき、手に持っていた鉢を取り落としてしまった。一つのサイクルで取れる種は頭ふたつ分ある篭に少し足りないくらいだ。大半は芽を出さないが、植えた数は相当数になる。それが全部違う個体だという。これまで一体いくつの種をまいた? 数えようという気にもならなかったが、足下を見て、少なくとも総数から一つ減ったのだと知った。
温室内の分布はめまぐるしく塗り替えられていく。密集した木陰の隙間に若木が生えているのを見つけた。若木というにはいささか大きく、最初の交雑の取りこぼしであるようだった。シャベルを持ってきて掘り起こそうとした。排除しなければ、と思った。見慣れた木々の中で浮いて見える若木が恨めしかった。土を払い、根を残さないように隙間を埋める土だけを慎重に除いていく。しかし、すでに根は複雑に絡み合っていて、どうしようもないことだけがわかった。諦めてシャベルを放り出す頃にはあたりは暗くなっていた。根の隙間に腰を下ろし、樹皮にもたれかかる。ゴツゴツした手触りはなじみ深く、ささくれだった心を僅かに落ち着かせた。
これからどうなるのだ、と考える。この頃は気に入っていた丘にも足を運ばなくなった。丘の上に立てば、温室内の変化が嫌と言うほどわかるからだ。どうしろというのか。上はどうしたいと思っているのか。温室は変わっていく。まかれ続ける種によりなじみ深い配置は崩れ、しなやかで美しい枝も、逞しい幹も、凜とした葉の一枚一枚でさえ、その釣り合いの取れた端正さを失っていくようだった。均衡は崩れていく。どうすれば良い、と思う。上の考えていることはわからない。それでも降りることは許されなかった。
◆
果実をもぐ。見慣れない色と馴染みのない形。落ちた葉に似た知らないにおい。固い皮に切り込みを入れ、種を除けてかじりつけば、舌を潤す水分には喉を刺す刺激がある。様々な色味と食感を持つ種由来の果実を記録する。鼻をつく臭い。種が多い。逆に少ない。小さい。大きい。水分が多い。硬すぎる。柔らかすぎる。甘い。湿っている。乾いている。腐敗が速い。腐ってもいないのにネバネバしている。それらをひとつひとつ言葉に残す。温室はもはや見知った場所ではなくなっていた。知らない場所で日毎記録をつける。今日収穫した分は潰れやすく、頬と指先にそれぞれ赤い跡を残した。放っておいたらかゆくなったので、川で水をくんで顔を洗った。水面に映る顔は険しく、見慣れないもののように感じられた。
◆
雨の中を歩く。操作パネル近くの挿し木につぼみがついていた。樹皮をなぞれば懐かしい手触りが返る。前に見たときより幹はずいぶん太くなっていて、ちょうど顔のあたりにちいさな花の芽が出ていた。これももうそんなに成長したのだな、と形のない落胆の中にぼんやり思った。自分は幹の周りを目で測り、少し考えてから倉庫に戻り、枝を払う鉈を持ってきて根元から切り倒した。
株が残れば枝は出る。増えず、伸びゆくだけの個体をつくってそれを慰めとしよう。丘の上はいまや白い花弁で隙間もない。暖かい雨の降る季節に、緑の木漏れ日は望めない。気に入っていた景色はどこぬももうありはしない。季節は巡る。花は開く。温室は混ざり合う。諦念に満ちた胸の中で、頭上いっぱいに広がる葉を見ることが出来ないのがただ一つの心残りだった。しかしそれも仕方がない。仕方の無いことだったのだ。
◆
切り倒した幹から花を払い、小屋へと持ち帰る。余計な枝は切り落とし、ウッドチップに変える。残った芯は半分に割って小屋の隅に立てかけた。水が抜けたら削り出して何かを作ろう、と思った。何が良いだろう。パネルを操作すれば雨は止む。開けた窓から風が吹き込んで、芳醇な木の匂いを際立たせた。懐かしく心地よい香りに包まれて、俺はどんなものがふさわしいだろう、と考えた。小屋の壁にはすでに乾いた幹が六対あって、形が決まるのを待っている。
大雨で出られないSF 佳原雪 @setsu_yosihara
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