第27話 贖罪
実のところ“グレゴリー・スチュワード”という名前は、ごくごく平凡と言っても良い名前だ。
それだけに同姓同名の可能性はある。
その可能性に賭けて、ヨーイングは発禁になる前に、
「教皇レオニダスⅢの秘められた功績」
を入手した。“グレゴリー・スチュワード”が
――この時、すでに話がおかしくなっているのは言うまでもない事だ。
「スチュワード」という人物は、ヨーイングの取材行に同行させるために、教会から派遣された司祭のはずだ。
それなのに、そのヨーイングが「スチュワード」について問い合わせても、教会の広報担当――なのだろう――は引きつった笑顔を見せただけで、それ以上の反応は見せなかった。
例の
まるで、ヨーイングの取材の事など何も知らないかのように。
だが、その教会からの返答によって、ある意味ではヨーイングはとどめを刺されることになってしまう。
――グレゴリー・スチュワード司祭は、教会に五十年前から在籍しており、ここ半年あまりは皇都から出るという申請も行われていない。
それだけならば、ヨーイングの良く知る“スチュワード”が申請をサボっていただけ、という可能性もある。
だが「教皇レオニダスⅢの秘められた功績」の著者の近影は――何処からどう見ても、ヨーイングの知る“グレゴリー・スチュワード”では無かったのである。
何処にも、あの鷲鼻のなごりさえ無い。近影を見て、ただ印象に残るのは、ねじ曲がったへの字口だけ。
しかし“スチュワード”は、「教皇レオニダスⅢの秘められた功績」を自らの著作物だと――確かに認めていた。
大いなる矛盾だ。
そしてその矛盾を糺そうとするなら、必然“への字口”スチュワードを基準に考えざるを得なくなり――何しろ五十年前から実在の記録が残っている――そうなると“鷲鼻”スチュワードは……消えてしまう。
跡形も無く。
教会からの返答を聞くために、わざわざ大聖堂まで行った帰り。
“スチュワード”の消失を悟らざるを得なくなったヨーイングは、フラフラと皇都の中心にある、チョーラング公園に彷徨い込んでしまった。
春の日差しが新緑の葉に透けて、まるでステンドグラスに彩られたような公園内部の並木道。陽気に誘われた皇都の人々が、春めいた装いに身を包んで、ヨーイングとすれ違ってゆく。
そのうちにヨーイングは、人々からはじけ飛ばされるように――あるいは、逃げ出すように、目の前に現れた白いペンキで塗装されたベンチに腰を下ろしてしまう。
身だしなみを整えたりはしていない。無精髭。よれよれのシャツ。上着も着ないままでさまよい歩いていたから、ボタンが取れ掛かったチェック地のウェストコートを隠すこともままならない。
……いや、隠そうという意識も持ってはいなかったのだろう。
春なのに、というべきか、春だからと言うべきか。
公園に訪れた人々も、自然とヨーイングを避ける。するとヨーイングの周りには人間で形成されたカーテンが出来上がることになり……
「…………!」
そんなカーテンのような人波を、茫洋と見つめていた
「お久しぶりです、ヨーイングさん」
まるで何事も無かったように。
“スチュワード”がそこにいた。見知った聖職者の出で立ちで。鷲鼻をひくつかせながら。
「ああもうバレてるんですよね? 聖印も
“スチュワード”が微笑みながら、首にかけられた
「――まさか、本物があの様な嗜好をお持ちだったとはね。それがわかっていれば、選びはしなかったんですが。私は別に全てを知っているわけでも、全てに
二人の間には、まだ十メートルほどの距離がある。それなのに“スチュワード”の声は確かにヨーイングに届いていた。
さらに不思議な事に、周りの人々がその声に反応する様子も無い。
「これは言い訳なんですが……『教皇レオニダスⅢの秘められた功績』については、本当に私が書いたんですよ。それを、あの老人が書いたことにしただけ。本人もそう思い込むように。そういう細工をしなければ、私は“こちら側”に長い間とどまれない……体質、という言葉が一番近いかな?」
「す、スチュワードさん」
助けを求めるように――いや、何かに吸い込まれるように、ヨーイングはその名を呼んだ。
「やぁ、その名で呼んでくれるんですね。では引き続き、私は“スチュワード”ということで」
スチュワードの翡翠の瞳が嬉しそうに細められた。
「実は、私の目的は達成されたんですけどね。となれば、それを他の方に伝える必要も無いんですが、さすがにヨーイングさんにはお伝えしなけば、と考えまして」
「目……的?」
「“クラインが死を選んだ理由を知る事”ですよ。私は最初から、それが目的。何しろアンニャロがさっさと隠してしまいましたから」
説明を――受けた方が良いのか悪いのか。
いや説明して欲しい部分と、説明されたくない部分が、ヨーイングの中で綯い交ぜになっている。
「私も横にかけても?」
「え……ええ」
だからこそ、そんな普通のやり取りが出来たことにも安堵を覚えてしまう。
ヨーイングは慌てて横にずれて、スチュワードがベンチに座れるだけのスペースを作り上げた。
「どうも――実はまだ謎が残っている部分があるんですが、その辺りは割愛と言うことで」
「それは?」
「アブドが去った後に、クラインが戻ってくるに至った動機ですよ。実際あのタイミングでクラインが死を選んでいたなら、私も納得していた……もっとも、今となってはそれにも首を傾げていたでしょうがね」
今までと同じようなスチュワードとのやり取り。それが成立することに、ヨーイングは不思議に違和感を感じなかった。
「それはつまり……クラインの本質が見えてきたから、ということですか?」
顎を一撫でするヨーイング。無精髭が恥ずかしく思えてくる。
「そうですね。クラインは臆病者であった。それはレベッカさんの証言だけで無く、他にも傍証があります」
「ニナの存在ですね」
「ええ。英雄と振る舞う……いやクラインを英雄として振る舞わさせるためには、どうしても彼女の助けが必要だった。おそらく動くことも出来なくなっていたクラインを帰還させるために、アブドはニナの名を告げて『彼女の死を無駄にするのか?』ぐらいは言ったのでしょう。それで、帰還するまでの気力だけは何とかつなぎ止めた」
ありそうな推測ではある。ヨーイングはそれを認め、深く頷いた。
だが、それだと……
「……帰ってきてからは? 人間側の領域に帰還して後は?」
「はい。そこに重大な齟齬がある。そして、この時期にクラインの周りに起こった変化とは何でしょうか? ――謂わばプライベートな事柄なのですが」
「カリエンテールさんとの婚姻、ですか?」
「表面上はそうです。しかし、私はこれを教会側の策謀だと捉えます」
聖職者の出で立ちであるのに、スチュワードは堂々とその推測を口にした。
「正確には枢機卿フェランチェスト・アグバーの策ですね。何しろ帰還したは良いが、クラインの心は完全に折れてしまっています。魔法も――さぞ掛かりやすかったことでしょう。こうしてアグバーは、操り人形に出来る英雄、という得難い駒を手に入れたのです。帰還の後、クラインへ慰問に訪れたのがアグバーだったわけですが、それが偶然だったのか、それとも策謀があったのかは……ああ、そう言えば、その辺りは聞いてませんでした」
そう説明しながら、スチュワードは肩をすくめた。翡翠の眼差しでヨーイングを見つめながら。
「魔法……そんな事が?」
「教会は、その手の魔法を使うことについては慎重ですから。時には禁じていた時代もあります……結局、魔族に対抗するために、それは撤回されたんですけどね。そして皮肉なことに、禁じるために集められたがゆえ“精神に影響を与える魔法”の研究が進んだのも――やはり教会なんですね」
その話は……実は公然の秘密でもある。心を癒やすために、そういった魔法が聖職者によって使われることもある。だが、それを応用してしまえば――
「……そして、こういった魔法は時間が経てば効果が薄まってゆきます。ですからクラインの壊れ方によっては、かなり頻繁にそういった魔法をかけ続けなければならなかった可能性が高い」
「まさか……」
そのヨーイングの反応に、スチュワードは笑みを深くした。
「カリエンテールさんですね。彼女自身が術者では無く、触媒、あるいは中継ぎという形ではあったようですが、そういった理由で、彼女はクラインに
「それは……」
そんな証言だけを教えられても、扱いようが無い。それに、これで死の謎が解けたとは……
「それで、一度は傀儡にしたのですから、最後までやりきれば良いのに、今度はアグバーさんの心が折れた。クラインという“かわいそう”な男を利用することに良心の呵責を覚えたのでしょう。もっとも操り人形と言うよりは、クラインの身のまわりの認識に手を加えただけのようですが。でないと、戦術指揮の冴えまで失われる――どちらかというと、この高度な術を維持することが負担になったのでしょうね。戦乱の気配も遠のいたことですし……」
アグバーの事情だけを言えば“娘”を他の場所で使う必要が出てきたのだろう。戦乱が遠のけば、今度は政治の世界が主戦場になる。であれば、美貌の“娘”の使い道はいくらでも出てくるものだ。
「“白の婚礼”についても認めましたよ。もっとも、それもまたアグバーさんは『贖罪』の材料にしていましたがね。――そんな酷いことを続ける事に、もう自分は耐えられない! とまぁ、こんな風に形が整えられるわけです」
――確かに、本音でもあったような感じでしたが。
と、スチュワードが最後に付け足したのは、いかなる意図があってのことか。
「それで……魔法が解けたことでクラインは絶望を思い出し、死を選んだ――そんな展開なんでしょうか?」
そう言いならも、ヨーイングはその推定に首を捻った。スチュワードも、それに同意のようだ。
「いえ。実のところ
「では、魔法をかけられていたことも原因では無いと?」
「ええ。それでは説明出来ない。何しろ、魔法から覚めたクラインに見える景色とは、平和で、繁栄している皇都です。そして自分の環境も物質的な面では、何ら問題があるように見えない。これでは――自ら死を選ぶ可能性は低い」
――何しろ臆病者ですから。
スチュワードが、馬鹿にした様子も無く、かと言って無感情でも無く――近い感情を探すのなら、それはやはり“憐れみ”が最も近い感情なのではないか?
だが、そういった自らの感情を振り払うように、スチュワードは表情を改めて、こう告げた。
「やはり……行った方が良いんでしょう」
「え? なんですか?」
「ジンバル村です。やはり、そこに行かなければならないようです。準備をお願いしますよ」
――そして、二人の最後の取材行が始まる。
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