第26話 グレゴリー・スチュワード
ついに皇都グリンネルは冬の厳しさから解放された。
街路樹は芽吹き、肌を撫でる風にも優しさが感じられる。街を行き交う人々の表情にも笑顔が増えた。
その分、喧噪は深く、そして明け透けな響きを伴っている。春の訪れと共に、その開放感が人々の心を侵蝕したようだ。
冬の間、人々が蓄えてきた慎み深さも、早々に使い切ってしまったらしい。
しかしそれも、クラインが平和をもたらしたからこそ――
ヨーイングはそう考えることが出来るはずだったし、そう考えなければならない立場でもあった。
何しろ「“人間”クラインの苦悩」を
しかもそれは、ヨーイングの望みでもあり、そういった仕事に取りかかれることに、彼は喜びを感じなければならないはずなのである。
しかし現在、ヨーイングの調子は良いとは言えなかった。
理由は複数ある。
まず編集長、さらには皇帝からも記事の進捗の問い合わせが、矢継ぎ早に舞い込んでくることだ。それが当たり前にプレッシャーとなっている。
皇帝からの催促には検閲の含みも――もちろんある。
その上で急がせるのだから、ヨーイングにはさらにプレッシャーが襲いかかってくるのも自明の理だ。
しかし、皇帝はこれまでの取材行の大きなスポンサーであり、編集長は金を会社から引っ張りだし、さらには自由に動ける環境を整えてくれた。
――真っ正面から文句を言うことは、道義的に許されない。
ヨーイングはそう考えてしまい、まず彼自身が自分を追い詰めていたのである。
それならそれで仕事に没頭すれば良いはずなのだが、もう一つの“原因”が、その筆致を鈍らせていた。
その“原因”とは言うまでも無く、スチュワードである。
遺されたクライン邸。その用具室の前で別れたきり――一体、どれほどの時間が経過したのか。手帳を見れば正確な日数もわかるだろう。
しかし、それに意味は無い。
それほど大した時間は経過していない事はわかっているし――なにしろ春は通り過ぎてさえいない――そもそもの問題は、ヨーイングがスチュワードとどう接すれば良いのかを見失っていることだからだ。
それをより正確に言うのなら――ヨーイングはそれ以上、知りたくなかったのである。恐らくは、スチュワードが到達してしまった真実まで含めて。
その予感――いや、知ることへの恐れが今、ヨーイングを苛んでいた。
さらに実務的な面から考えると、
――「“人間”クラインの苦悩」という記事を、根底からひっくり返されるのではないか?
そういった具体的な恐怖もある。
ではスチュワードと共に、さらなる取材を続ければ良い。そんな明確な答えが、ヨーイングの前に転がっている。
これもまたプレッシャーだ。
だが、その選択肢を選ぶことを……スチュワード自身が拒否したのでは無いのか?
では、今の事態はスチュワードが原因なのか?
……だがそれを、ヨーイング自身が否定してしまう。
ヨーイングは自分でもわかっていた。恐らくはアールシュートにおいてレベッカがもたらした証言が、ヨーイングを臆病にしていたのだ。
これ以上詮索を続ければ、見たくない事実を目にしてしまうと。だからこそ、自身の推測通りの証言を寄こさないカリエンテールに、ヨーイングは苛立ったのである。
そして、スチュワードはそんなヨーイングの変化に気付き、離れていった……そしてヨーイング自身も、その推測の正しさを確信していた。
それはヨーイングの“記者”としての勘が、そう告げているのだから。
だが、それを認めたくない自分がいる。そのために記者としての自分の
そのプロットと、紀行文のように始まる導入については好評を博している。
だがロゼリアンヌについて、どう誤魔化そうかと、ペンが止まってしまった瞬間――
ペンを持つヨーイングの手に力が入らなくなってしまった。
それが、彼の
*
窓ガラス越しであるから、その穏やかな気候を肌で感じられるわけでは無い。それなのに、三階に位置するヨーイングの仕事部屋から見下ろす街並みは、弾むようにヨーイングを誘っていた。
だが、ヨーイングはその誘いに乗るわけにはいかなかった。
何しろデスクに積み上げられた白い原稿用紙が、真っ白な目でヨーイングを睨みつけているのだから。
すでに写晶機で撮影した、様々な写真は現像済みだ。途中から専門スタッフが派遣され、ヨーイングの注文通りの写真が出来上がってくるようになっている。
その写真が壁一面に貼られている状態は、まるで写真がヨーイングの進捗を監視しているよう。
そんな“視線”に囲まれたヨーイングは、無精髭を蓄え、ひたすらデスクにかじりついていた。社外に取材に出る必要が無いとヨーイングが気付いた時、彼は身だしなみに気を遣うことを止めてしまったのである。
会社に「缶詰」になっているだけ……という比喩表現は使わないように、ヨーイングは心掛けていた。
そして、やはり陽の光が麗らかなこの日――
「先輩、ちょぉっと、良いですか~」
妙に間延びした声で、後輩がヨーイングの部屋に顔を覗かせた。
以前、珈琲を持ってきた深夜に徘徊していた後輩である。実は現在のヨーイングと戦えるほどに、身だしなみが整っていない。
それというのも、彼が専従で追いかけていた舞台女優の
これが意外と言うべきか、予想通りと言うべきか、ますます混迷を深めていたのだ。
ヨーイングも自分の記事をまとめている間に、これらの
正直、これ以上は危ないのではないか? とも思っていた。
何しろ現在、記事の矛先が教会に向いているのである。これは横槍が入るのではないか? とも考えていたのだ。
それなのに記事の掲載が止められることも無く……どうやら皇帝派が、後押ししているらしい。
クラインの調査について、皇帝がスポンサーになったことで、マギグラフ社はどうやら皇帝派に組み込まれてしまったようだ。
もしかすると、スチュワードが離れたのはそれも原因の一つになるのではないか――とまで、ヨーイングは考えたが、これは穿ちすぎかも知れない。
とにかくそういった事情で、この後輩は……一体いつから帰宅できていないのか。その上で、外にも取材に出るわけで――
ヨーイングはそこで考えることをやめた。
人の心配が出来るような状態では無い。
せめてもの情けで、冷めた珈琲でも提供しようかと思ったヨーイングだったが、よく見れば後輩は湯気の立つ珈琲カップを携えていた。
「……時間なら確かにあるな。後輩の相談に答えるぐらいの余裕なら」
せめてもの見栄で、ヨーイングがそう答えると、後輩は微妙な表情を浮かべた。
「いや、相談というか確認なんですけど……」
「そっちの記事のことで、お前以上に知ってる奴はこの会社にはいないよ」
「それはそうだと思うんですが……あの、この前ここに居た――」
一瞬、ヨーイングの心臓が波打つ。
だが表情を動かさないように注意しながら、ヨーイングは慎重に応じた。
「……スチュワードさんがどうかしたのか?」
「ああ、やっぱりそういう名前ですよね。う~ん……」
しかし後輩が確認したかったのは、名前そのものであるらしい。さすがにヨーイングも訝しげな声を出す。
「一体何だ?」
「あ、えっとですね――」
そう答えながら、後輩は器用にカップを掲げ持ったまま何処か――自分の部屋であろう――へと消えて、次にはカップの代わりに原稿の束を持ってきた。
そして説明を続ける。
「例の
「神父……? いや司祭かな?」
写真は隠し撮りらしく、おかしなアングルで撮られたものだった。それでも、捉えるべき人物は、しっかり表情まで窺うことが出来る。
丸い眼鏡を掛けた、初老ほどの皺が刻まれた面差し。
強い印象を与えるのは、完全にへの字に曲がってしまっている口元だ。いかにも偏屈そうに見える。
だが、普通の神父よりも確かに装飾品が多い。
「ああ、はい。司祭なんですけどね。この人物がどうも児童に対して、手を出していたようで」
「それは……教会で世話をしている孤児、とか?」
「それもありますが、若い修道士にも手を出していたらしく」
特に記者ともなれば、闇に葬られた事件についても心当たりがあるわけで、この人物の悪行だけなら、どうと言うことも無い事件のはずだ。
――そう考えてしまえる事が、もっとも悍ましいことかもしれないが。
そういった感情にヨーイングが蓋をする間に、後輩が話を先に進めた。
「それでですね。今し方、この司祭の名前がわかったんですが。いや名前がわかったから、司祭ということもわかったんですが」
「おい……ちょっと待て」
ヨーイングは、後輩が目指しているゴールを察してしまった。
その流れが見えぬほど、間抜けでは無いつもりだ。
だが、それでは――
後輩は容赦なく、そして間違いようも無く、ヨーイングの“イヤな予感”を確実なものへと昇華してしまった。
「……“グレゴリー・スチュワード”って名前らしいんですよ。同姓同名なんですかね?」
ヨーイングの身体がグラリと揺れた。
――それでは……半年の間、自分と共にクラインの事績を追った男は、一体何者なのか?
さらに、その疑問はヨーイングの身体だけで無く――
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