第20話 バーナ
アールシュートという村は、漁船の休憩地が始まりであるらしい。言ってしまえば天然の良港、ということになるのだろう。ただし小型船に限って、の話になるが。
一時的な停泊であっても、人は船上でずっと生活できるものでは無いらしい。上陸の機会があれば、それを逃すことも無いようだ。
そうして人が集まれば、その船乗り相手の商売が始まり、人が増え、やがて農産物、あるいはアザラシから採れる脂などの集積地点となり――今のアールシュートが形作られた。
このように実務的には必要不可欠な村であり、栄えていると言えるかも知れないが、あまりに余裕がなさ過ぎる村でもある。誰も彼も、仕事に従事するためにアールシュートに住んでいるのである。
つまり、どこまでいっても仕事気分が抜けない、という状態になってしまうのだ。
だからこそ――
「酒場がすでに盛況だ――というわけですか」
予定通りに午後三時に到着早々、ヨーイングが呆れたように独りごちた。だが、それ以上は何も言わない。ある意味では皇都でも見慣れた光景であるとも言えるし、この村では他に娯楽も無いのだろう。
しかし村の入り口に、まず酒場が軒を並べているのは、潔すぎる風情でもある。潮風の影響か、扉の金具が随分と錆び付いているが、それを見窄らしいと観るか――風情と観るか。
「まさに主の思し召しです。それに話を聞くのに、ああいった場所は得難い空間であることは間違いないですしね」
ある意味では無責任な言葉を並べるスチュワード。これはこれで、荷馬車に揺られた影響があるのかも知れない。このまま酒場に乗り込む気配を見せている。
「まずは“網元”に挨拶に向かいましょう」
そんなスチュワードに釘を刺すように、ホールディが提案する。
「何しろ宿がありませんからね。網元の家にお世話になるしかありません。長く掛かりそうですしね」
網元――とは漁師達の元締め的な存在への、言ってみれば“尊称”だ。村長と言い換えても良いのだろうがアールシュートの成り立ちから考えると、そういう言葉の方がしっくりくるのだろう。
その網元の家は、いくらか部屋に余裕がある。今回、二人がアールシュートに逗留させて貰いたいという申し出に、網元は金銭的な保証を確認して了承した。これはホールディの交渉結果でもある。
もちろん、了承させたからと言って礼儀を欠くわけにも行かないのは当然のこと。二人もすぐにシャンとなって、ホールディの提案に頷いた。
この地方のクラインへの想いを感じたヨーイングはさらに表情を引き締める。
「では、私は荷物を……」
と言いかけたホールディの言葉が止まる。その様子を訝しんだ二人がホールディの視線を辿ってみると、その先にはドレスにエプロン姿の女性がいた。
随分背が高い。肌は浅黒く、黒目黒髪。浅黄色のドレス姿ではあったが、そのしなやかな肢体は、優美な柳を思わせる。
左手にバスケットを提げており、どうやら今は空のようだ。
「これは運が良い。彼女が男爵夫人のお世話をしている女性です」
「お手伝い……さんですか?」
ヨーイングの質問に、ホールディは頷きを返した。
「そのような立場であることに間違いは無いかと。酒場で食料を分けて貰いに来たんですよ。この村では、酒場がまず小売業の基本ですから」
「では彼女が定期的に……ああ、それで運が良いと」
そんな彼女のルーチンに、いきなり遭遇することが出来たのであるから。
男爵夫人邸に直接押しかける――という提案は当然検討されたのだが、やはりそのやり方はまずい、という結論に達している。
とりあえず使いの者がいるのだから、まずはそちらと接触しよう、という方針になっていた。
――男爵夫人が実在するのかどうか?
この辺りを確認するためにも、まずは使いの者と接触する必要があったのである。
しかし今は悠長に方針を確認している場合では無い。判断が必要であり――
「行きましょう。躊躇う理由はありません」
スチュワードが、そう言い切ると同時に、彼女へと向かった。
それに慌てて、ついて行くヨーイングとホールディ。
「彼女、名は?」
振り返ることも無くスチュワードがそう尋ねると、ホールディが慌てて応じた。
「バーナ、と呼ばれています。しかし彼女は……」
「上手く話すことが出来ない。聞いています!」
後半は怒鳴るようにヨーイングが返す。何しろ、彼女――バーナと酒場の従業員とのやり取りは順調なようだからだ。
今にも終わってしまいそうに見える。
「不自由だったのでは!?」
「もう、何度も行われているやり取りですよ!」
ヨーイングが非難するかのように声を上げるが、その行為は不毛の最たるものというべきだろう。その間にもスチュワードが距離を詰め――
「え? ああ、神父さん……だよな?」
接近に気付いた前掛け姿の従業員が、神父服姿と見知らぬスチュワードの顔に齟齬を感じ、戸惑いを覚えたようだ。
「初めまして。私はスチュワードと言います。この方に用があるんですが、ご紹介いただけますか?」
確実に矛盾した言葉を並べるスチュワード。もちろん、それを気付かせるような不手際はしない。勢いで押し込む。
「あ、ああ、彼女はバーナって言いまして……」
「なるほど。それで?」
「ちょっと外れた場所に建っている館に勤めてるんだ。それで、いいよな? ……って、こっちの言ってることはわかるみたいなんだけど」
「失礼」
そう断ってすぐに、スチュワードはバーナに向かって何事か話しかけた。
余人には意味不明な言葉で。
その言葉の響きは歌うように滑らかで、言葉の切れ目も窺えない。本当にこれで言葉になっているのか? いや、それ以前にスチュワードは何を考えているのか。
しかし、スチュワードの目論見通りと言うべきか、バーナもまた歌うような言葉を返してきた。
「……あなた、お名前は?」
一段落したところで、スチュワードが従業員に尋ねた。
「あ、ああ、ロナンだけど」
「では、改めましてロナンさん。バーナさんが、改めてお礼を言いたいそうですよ。日頃随分とお世話になっているのに、それを伝えることが出来なくて申し訳ないと」
「お、おお……いや、なんだ。あんた、そんな風に思っててくれたんだ。そうかそうか」
途端に相好を崩すロナン。スチュワードの“翻訳”については疑わないらしい。恐らくは普段のやり取りで、そういった雰囲気を察していたのだろう。
「スチュワードさん、一体何を……?」
「すいません。もうしばらくお待ち下さい」
ヨーイングの問いかけを保留にしておいて、スチュワードは再び、歌うようにバーナに話しかけた。今度は随分と長い。
スチュワードがそうやって語りかけている間に、バーナの顔色がドンドン曇ってゆく。そして……
「くらいん!?」
「そう、クライン」
ヨーイングにも理解出来る単語が、スチュワードとバーナの間で交わされた。途端に、バーナがパニックを起こしたように、大きな身体を大きく揺さぶって、中身を詰めて貰ったバスケットが慣性に任せて右往左往している。
ロナンが、それを宥めようとしているが、今度も効果を発揮したのはスチュワードの歌うような“言葉”だった。
丁寧な――恐らくは――スチュワードの言葉でバーナはやがて落ち着きを取り戻し、コクコクと頷いて、何度も頭を下げながらその場を去って行く。
「……申し訳ない、ヨーイングさん。勝手に話を進めてしまいました」
「一体何が……?」
「説明のためには落ち着いた場所が必要なんですよ。何しろ、随分辺鄙なところの方言でしたからね。私もこの場で説明は仕切れなくて」
「ああ、方言! そういうことだったのか」
そのスチュワードの言葉を聞いて、ロナンが納得したように声を上げた。そのおかげでヨーイングも気付いた。
この場で、スチュワードの説明を受けることは“不適切”だということに。
「ええ。私は、その辺りの勉強もしていたんですよ。主のお言葉を伝えるためにね。ロナンさんもバーナさんも主の御心に適うお心がけ。きっと主も喜んでおられることでしょう」
「そ、そうかい? そうだ神父さん達もウチに寄っていかないか?」
「お誘いは嬉しいのですが、先に網元にご挨拶に伺わねば。ね、ホールディさん」
「あ、そ、そうですね」
呆然としていたホールディが、反射的に応じる。それを聞いて、ロナンも納得の笑みを浮かべた。
「ああ、網元のとこに来るお客さんか。それじゃ、それが済んだら」
「そうですね。こちらが落ち着いたら、改めてご挨拶を」
如才なくスチュワードが応じる。そのやり取りの中で、ヨーイングは自分たちの来訪が、すでにアールシュートに広まっていることを知った。
迂闊な行動は、どうなるのか予想できるものでは無い。
――改めてヨーイングは気を引き締め直した。
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