第19話 アールシュートへ

 大陸の中央部から吹いていた風が、今は海からへと方向を変えていた。冬は終わりに近付いている。


 ジンバル村で焼け跡を見た頃が冬の初めと考えると、随分な時間が経過している。ヨーイングは、海からの風を感じることで、それを実感した。


 しかし、一冬しか経っていない、という考え方もあるだろう。英雄の事績を追うのであるから、時間がかかっても当然という考え方だ。


 さて、降り立ったニコ=デ=ゾンデで、いつまでも風を感じてはいられない。駅舎を出て、すぐさま海が見えるような立地であっても、二人はバカンスに来たわけでは無いのだから。


「ヨーイングさん。まずは、ここで一泊しましょう。旅の疲れもありますし、ここからもまた長丁場になる可能性が――」

「アールシュートへの手配は?」


 スチュワードの言葉を遮って、ヨーイングが確認する。


「予定通りになる……と思いますよ。何しろこちらの教区は、慢性的に人手不足ですから。魔導車については、恐らく使えないでしょうね。ですから、荷馬車を用意して、馭者を用意して……」

「……すいません。ここまで来て慌てても仕方ないですね」


 そんな風に謝意を示す、疲れた様子のヨーイングに、スチュワードが優しく微笑みかける。


「今までは、マギグラフ社のお力に随分お世話になりました。しかし、このような極東の地では、我ら教会を頼りにして下さい。ただ、規則正しい生活を送ることも、また信仰ですので……」

「わかります。私達の行動がイレギュラーに過ぎるんですね」


 それでも「ジェラースト男爵夫人」について僅かながらでも、情報を送ってくれたのは教会関係者であるのだ。この東の果てでは、やはり教会に頼るべきだろう。


 そう考えることが出来た瞬間、ヨーイングの肩から力が抜けた。


「そうですね。幸い、ニコ=デ=ゾンデでホテルも取れたことですし」

「ただまぁ、ホテルなんて名称が名前負けしている可能性もあるんですが」


 スチュワードが往生際悪く、そんな言葉で予防線を張るが、予約したホテル「アイスフリー」はギリギリ、ホテルと名乗っても良いぐらいの設備が整っていた。


 何より、足を伸ばして眠ることが出来たのだから、これ以上の贅沢は無いと、強弁することも可能ではあるのだろう。


 ――二人はこうして、ニコ=デ=ゾンデで一泊することになった。


               *


 翌朝、と言う程の時間では無かったが、一応は予定通りに手配の荷馬車が「アイスフリー」の前に停められた。

 予想外だったのは、馭者席に座る人物が、スチュワードと同じ出で立ちだったことだ。つまりは神父らしい。


「遅れてしまいまして。あちこちに運ぶ荷物も一緒に運んでしまおうと」


 そう言いながら御者台から飛び降りる姿は、いかにも俊敏そうだ。年の頃は四十前あたり。色素の薄い茶色の頭髪は、元々なのか白髪混じりなのか。

 酷いクセッ毛で、モジャモジャと頭の上でとぐろを巻いている。


 ただ丸眼鏡から覗く茶色の目はとにかく丸く、全体の印象としては何処かコミカルさを感じてしまう。


「私はアレン・ホールディと言います。この教区を巡回してるものです。教会はニコ=デ=ゾンデにあるんですが、あまりそこには居ませんね」


 自己紹介しながら近付いてくる、ホールディ。思ったよりも背の高い人物であることも判明した。ただ、よほど屈み慣れているのか、上半身を畳むことが習慣になっているらしい。


「度々お世話になっています。私はグレゴリー・スチュワード。こちらはマギグラフ社のヨーイングさんです」

「どうも、チャールズ・ヨーイングです」


 そして握手を交わし、滞りなく自己紹介は終わった。あいにくの曇天ではあるが、これから動くのに支障はないだろう。

 だがその前に――


「本当に、スチュワード司祭だったんですね! 拝読させていただきました。『教皇レオニダスⅢの秘められた功績』。デモンシャ公会議で猊下からも激賞されたと伺っておりますよ!」


 ホールディが興奮してしまい、しばらくは付き合わざるを得ないようだ。


「拙著、などと謙遜してしまうとお褒めいただいた猊下のお心を無下にしてしまいますからね――ここは、素直に自慢しおきますか。著述には大変な苦労もありましたし」

「さもありなん。精緻を極めた理論展開。お見事でした」


 スチュワードが如才なく相手をする一方、蚊帳の外のヨーイングも胸の内で頷いていた。


 ――どのような著作はわからないが、スチュワードがクラインの調査に派遣されたのも、そういった実績があったからなのか。


 と。


「しかし司祭。もっとお年を召した方かと……」

「おかげさまで、私の書く物は、いつもそのような印象を人に与えてしまうようで――理屈っぽい頑固なじじい、ぐらいには思われているのかも知れませんね」

「こ、これは失礼しました」


 途端に恐縮するホールディ。確かに、興奮のあまり少しばかりホールディは調子に乗りすぎていたようだ。

 この後は粛々と、出立の準備となったことは、幸いと言うべきだろう。


 ……とは言え、幌も無い荷馬車の何処に腰掛けるかが、また一問題であったのだが。それに二人のトランクの問題もある。


                 *


 馬車にも衝撃を吸収するためにバネは付いてあった。しかしそれ以上に、悪路が過ぎたのである。

 轍の上を辿る分にはまだマシなのだが、そこから外れてしまうと、腰が浮いてしまうほどの衝撃が襲いかかってくる。


 しかも、ヨーイングとスチュワードはそれなりに身だしなみを整えていた。司祭としての出で立ちであるスチュワードの違和感も尋常では無かったが、樽や木箱の隙間に入り込み、膝を抱えて座ることになってしまったヨーイングの状況もまた悲惨だ。


 今は人気のない海沿いの街道を進んでいるので、それが余人の目に触れられる事も無いが……アールシュートに到着してしまえば、恐らく悪目立ちしてしまうだろう。


 しかし、元よりこっそりとアールシュートに潜り込みたかったわけでは無い。これはこれで正解に違いない、とヨーイングは現状について無理矢理納得することにした。


「――それでどうなんでしょうか? クラインの死については?」


 ガタガタと鳴る馬車の騒音に負けない音量で、ホールディが尋ねてきた。アールシュートまでは半日近く掛かってしまう。

 その間、ずっと無言というわけにもいかないだろう。


 そして、休息の時は本気で休息を欲してしまうことになるだろう。確実に。


 ということは、この問い掛けに答えないわけにも行かず――などとヨーイングが計算していると、スチュワードが先に反応した。


「これがなかなか難しい話になってしまいましてね。こうして、男爵夫人に会わなければならなくなってしまったことで、お察し願えれば」

「私どもも噂の範囲ですが……それでも食料や生活用品を仕入れに来る使用人がアールシュートに現れるのも確実ですから」

「そ、そうなんですか!?」


 馬車の揺れで、姿勢を崩しながらもヨーイングが喜色の溢れた声を上げる。


「ですけど、買って帰ることは誰にでも出来ますから。我々も実在を確認したわけでは無いのですよ」


 それに対して、冷静な面を覗かせるホールディ。


「ですが、それを装う理由がわかりませんね。やはり男爵夫人は実在――というか生存しておられるのでは?」

「私どもも、そうであって欲しいと考えているんですけどね……何しろ、英雄クラインの姉君だ」


 ホールディの言葉からは、紛れもない敬服の感情が窺える。それに、ホッと胸をなで下ろすヨーイング。ここ最近、自分も見失っていた想いだからだ。


「皇都付近の方々は、魔族を追い払ったことでクラインに敬服なさっておられるんでしょうけど、この東ではね。むしろ国内を安定させてくれたことで、より大きな尊敬の念を集めているんですよ」


 御者台で、身を屈めながらホールディが続ける。


「魔族相手では無い、小規模な内乱でも、あれやこれやと引っ張り出されると、どうにもならないんです。実際のいくさにはならなくても、数を揃える必要があるということで」

「一応、その理屈はわかるんですが……そのしわ寄せが、この地方には深刻な影響があるんですね。例えば漁業など?」


 スチュワードが、そう尋ねてみるとホールディは首を横に振った。


「漁業だけではありませんよ。農作業に、あらゆる物資の運搬、いくらでも人手はいります。クラインが安定させてくれたことで、東方は日常を取り戻したのです」

「そう……だったんですね。いえ、それもクラインの功績として知られていましたが、どうも時間がなくて」


 ヨーイングが自嘲の笑みを浮かべながら告白した。


「いえ……皇都、引いては西の方々も魔族の侵入に悩まされていたのでしょうし。確実なことは、この国はクラインの手によって救われたということです」


 決してヨーイングを慰めるだけでは無い。その言葉にはホールディの、そして東方の「真実」があった。

 だからこそ――


「“クラインの死”の調査、期待させていただきます。“我々”もまた、今の風潮に眉を潜めっぱなしでしてね」


 そう告げるホールディの言葉もまた、本音である事に間違いは無いのだろう。クラインの事績は間違いなく、よってその栄誉も守られるべきだ、という想い。


 そんな想いを乗せ、馬車はさらに北へ。


 ――アールシュートへの到着は午後三時といったあたりだろう。

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