第12話 皇帝アレキサンドル
皇帝であるからには滅多に人前に姿を現すものでは無いのだろう。ヨーイングの様な一般の人間にとっては何かの式典などで遠目に見るのが精一杯だ。
あとは、それこそ新聞で見るぐらい。
黒髪を総髪にまとめ、瞳の色は鋼。ピンと横に伸びた口髭が何とも攻撃的であり、周囲に人を寄せ付けない。
その為人、峻厳と知られているが決して暴君の類いでは無い。その治世はあくまで論理的だ。
だが、こうして対面してしまうとそんな評価などものの役に立たない。ヨーイングはそれを実感していた。今、ヨーイングの前にはアレキサンドルが座っている。
ソファに深く腰掛ける形で。
ヨーイングが連行された先は最高級ホテル「ビーナッツ」のロイヤルスイートであった。皇宮では無いことをまずは喜ぶべきかも知れないが、逆に考えると、皇帝自らが乗り出し、しかもそれを表に出すことはしなという点を鑑みると、さらに厄介な事になる可能性を秘めていた。
――むしろ今、命がある事を不思議に思った方が良いのかも知れない。
ヨーイングは、そんな風に開き直った心境に達していた。となれば、色々と気がつくこともある。
皇帝はどうやら微行のつもりでもあったらしく、平服と呼んでも差し支えないような、仕立ては良いが地味なモノトーンの揃いの衣服。身体を鍛え続けているのか、体型も合わせて引き締まった印象だ。
遠くから見ている時でも、随分若く見えるという印象だったが、近くで見てもせいぜいが三十代にしか見えない。どうかすると背後に控えさせている近衛騎士の方が年嵩に見えるぐらいだ――もちろん、そんなはずは無いのだが。
室内の灯りは極端に落とされており、暖炉から漏れる火の明かりが、もっとも強いように感じられる。そう感じてしまうと、薪の爆ぜる音がやけに耳についた。
(実際、この時間は何なのか?)
そんな他人事のような文句まで、ヨーイングの胸の内には芽生えていた。皇帝の前でただ直立不動で立たされて――それ自体は当然ではあるのだが――かれこれ三十分は経過している。
一体――
「別に私が遅れたわけでは無いと思いますが。何しろ約束はしていませんし」
やはり、と言うべきか、それとも必然と考えるべきか。その声はスチュワードのものだった。ロイヤルスイートの別の部屋から、近衛騎士に連れられるようにして、鷲鼻で部屋の空気を切り裂くようにしてスチュワードが姿を現す。
「これはこれは陛下。ご尊顔を拝し奉り恐悦至極に存じ奉ります――ヨーイングさん。どうやら中々の情報を入手されたようですね」
皇帝に対してはあくまで儀礼的に。そして知人には親しく。不遜――と言えば確かにそうなのだろう。事実、近衛騎士達の指先が佩いている剣の柄を無意識に探っていた。
「良い」
瞳の色と同じような鋼色の声で、アレキサンドルは近衛騎士達を制した。実際、この状況ではスチュワードの対応に理があることは明らかなのだから。
まずこの場所が皇宮では無いこと。即ち、ここで畏まった儀礼は不要であると言外に伝えていることになる。それに加えてスチュワードは聖職者だ。
即ちスチュワードの“
そして指示系統が違うと言うことは、皇帝にさえスチュワードを除くことが不可能であるということになり、必然その協力者でもあるヨーイングもまた安心して構わないのだが、そこまでの説明を行うものはこの場にはいなかった。
その代わりと言うべきか、スチュワードはヨーイングに一体何が起こったのか? と言う説明を求めたのであるが……
「待て」
それに対してアレキサンドルは、再び待ったを掛ける。それを聞いたスチュワードが鷲鼻をひくつかせながら、同じように短く応じた。
「では?」
「ああ。騎士達よ、下がれ」
「ハッ! ……しかし」
「構わん」
重ねての命令に近衛騎士達もそれ以上の抗命は行えなかった。順番に退室してゆく。
「陛下。我々ももちろん、この場で表に出すなと仰られることまで暴こうとは思っていません。ただ我々は聖人クラインの名誉を回復したいという思いがあるだけなのです――そうですよね? ヨーイングさん」
「あ、ああ。そ、そのとおりです」
スチュワードの呼びかけに、ヨーイングは戸惑いながらも熱心に頷いた。
ロゼリアンヌの情報を拾ってしまったのは、あくまで偶然の産物なのである。
そして、そういった状況である事を思い出したヨーイングは、スチュワードに導かれるままに老婆との会合についての説明を始めた。
それはスチュワードとの情報のすり合わせであると同時に、皇帝への弁明であったのかも知れない。
「……なるほど。では陛下はその老婆のことをお知りになっていたわけでは無いと」
スチュワードがそう確認するが、ヨーイングにしてみれば何故そういった推測になるのかが不思議だ。そしてそれが、表情に出たのであろう。
スチュワードが笑みを深くして深く頷いた。
「元々、見張られていたのは私たちだったんですよ。そこに過去のロゼリアンヌ様の醜聞を知る者が出現したものですから……」
「ああ……私はあのおばあさんこそが、罠だったのではないかと考えていました」
「その点はご安心を。何しろ現在、信徒クラインの死によって世の中は揺らいでいます。それを何とか収めようと考えるのは陛下も、我々教会も同じ考えなのですから。そのために尽力なさっているヨーイングさんを罠に嵌める理由が無い」
理屈で言えば確かにそうなるのだが……ヨーイングにすれば、そういった説明で納得出来るような時期はとうに過ぎた、と考えてしまうのだ。
英雄クラインの実像自体が、揺らぎ始めているのだから。
「――しかし本当に、そのような結果に結びつくのか?」
「陛下。我々に必要な事は、まず誰よりも早く真実を掴むことです。ご息女についても同じこと。我々が動き出す前から、事実“噂”は流布している。それを押さえ込むには、どうしても真実は必要でしょう」
ロゼリアンヌの不行跡についてはすでに知れ渡っているのだ。今更どうしようも無いとスチュワードは無慈悲に宣告したのである。
次いでスチュワードは、こう告げた。
「この点は我々教会も同じ事なのです。クラインの死について、それが汚されることになれば教会としても困ったことになる。それはご理解いただきますようお願いします」
「それは……な」
アレキサンドルが何処か諦めたような、それでいて仲間を見つけたような安堵の表情を浮かべた。
「陛下。私からもよろしいでしょうか?」
ヨーイングが縋り付くような声を上げる。
「許す。この場においては、そのような気遣いは無用だ」
アレキサンドルは即座に応じた。
「陛下は当然ながらクラインと面識があったはず。その……為人というか……直接的に尋ねてしまえばクラインは死を選ぶような人物であったのでしょうか?」
「……随分と遠慮のないことを」
ヨーイングの問い掛けにアレキサンドルは苦笑を浮かべた。
「陛下。“だからこそ”であります。ヨーイングさんの望みは、クラインの名誉を回復することだけ、その一点。ご息女のことについては……」
「その点に関しては予もすでに諦めている。ただ、それがクラインの死に関わるような事があれば、と、な」
歯切れ悪くアレキサンドルが言い淀む。そしてその鋼の瞳をヨーイングへ向けた。そして始まるのは思い切ったような“告白”であった。
「実のところ、クラインと予はさほど交わったわけでは無いのだ。予はクラインの武才を愛し、引き立てもしたが、クラインもまた予と交わりを積極的に行ったわけでは無い。希に見る忠臣、また計り知れない有能さで仕えてくれはしたのだが……人物を知るほどには、な」
皇帝アレキサンドルにとっての戦場とは即ち政治の場であったのだ。切り札とも言うべきクラインが懐にあったとしても、全てをクライン頼りにしては、早晩押しつぶされてしまう。
つまり、何処にクラインを投入するか? あるいは投入しないのか? それを駆け引きに用い、人類は最小限の戦争で平穏さを取り戻したのである。
クラインが英雄であるならアレキサンドルもまた英雄ではあるのだ。
ただそれだけに長い間激務に向き合っていたことは間違いなく、アレキサンドルとクラインは和平のための両輪ではあったが、だからこそ交わる機会に恵まれなかったのであろう。
お互いの価値を認めつつ、だからこそ無闇に交わらなかった。その中心にいたのが“あの”ロゼリアンヌであるならば……わからないでも無い。
「やはり陛下も、クラインの死については見当もつかないと?」
明け透けにスチュワードが踏み込んで尋ねる。ある程度の確信を込めて。
「クラインとの交わりはそういったものであったから、な。予も本当のところを知りたくはあるのだ……」
ますます語尾を濁すアレキサンドル。さすがにそこから先を口に出すこと出来なかったらしい。
クラインの死によってアレキサンドルは窮地に追い込まれていると言っても過言では無い。武力についてはもちろんのこと、後継者としてもクラインに寄りかかっていたのだから。
クラインの死によって緩み掛かっているタガ。それに加えて、新たな後継者を選ばなければならない義務もあるというのに一人娘のロゼリアンヌが、あのような有様では、それもままならない。
であればこそ、皇帝アレキサンドルとしてもヨーイングとスチュワードの動きが痛し痒し、と言ったところなのだろう。
「陛下!」
「わかっておる。貴様らはロゼリアンヌとの面会を求めているのだな」
ヨーイングの切羽詰まった声に、アレキサンドルは疲れたように応じた。
「陛下……ご心配でしょうが、もはや避けては通れぬ道かと。繰り返しになりますがクラインの真実をいち早く掴む事こそが肝要なのです」
真実を知るからこそ、それを効果的に利用することも覆い隠すことも出来る。スチュワードの言葉には言外にそういう意味合いがある事は間違いない。
「そしてヨーイングさんは、クラインが変わらず英雄である事を信じておられる。私はその“想い”こそが事態を好転させるにちがいないと――そしてそれこそが主の御心に適うものであると信じているのですよ」
確かに、その言葉は敬虔な聖職者らしいものであったが……次に挑むべき相手に果たしてその敬虔さが武器になるのか。
むしろスチュワードが時折見せる、容赦のなさこそが必要であるのかも知れない。
そう感じたとき――誰かの喉がゴクリと鳴った。
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