Ⅷ-見下し癖がついているのは(1)

 

  

 あれから少し喋るようになった伊豆は、思った通りの人物だった。


 あの後帰ってから、顔見知り程度の人間を雰囲気のみから『普通』の人間だと決めつけるのは早計だった、と思い直した。しかしこれがどうしたことか、知れば知るほど、彼は私が漠然と思い描いてきた『普通の人』像にぴたりと当てはまる人間なのだ。


 つまりは、両親から人並み程度に愛されて育ち、どす黒く不健康な精神を抱いたまま何年も暮らすこともなく、人を好き人に好かれ、吐きそうなほどの葛藤や憎悪を知ることもなく──何より、『普通』とは何なりやと思い悩むことなく生きてこられた、そういう人間のことである。


 京子とは幾度となく『普通』の概念の話をしたが、あくまであれは定義の話だ。本当は皆どこかしら『普通』から激しく逸脱していて私のように思い悩んでいて、自分は普通じゃないとか普通なんてクソ喰らえだとか、そんなことを考えて暮らしているのではないか、大学生くらいの時はそんなことを──つまり、まるっきり『普通』である人間などいないのではないかと、そう考えていた。


 皆が皆、自分の『普通』じゃないと思う部分を隠蔽し合って、結果として残ったものたちが『普通』なのではないかと。自分が排斥されないために、自分たちで作り上げた幻覚なのではないかと。そう思っていたのである。


 しかし、こうも絵に描いたような『普通』の人間に現れられると──何も言えなくなってしまう。


 それとも、伊豆の方が稀有な例なのだろうか。世間が作り上げた『普通』の概念の範疇に、何も意識せずともぴたりと収まる、たまたまそんなふうに育った人間。そう考える方が救いがあるように思えた。しかし私には、世間が伊豆のような人間ばかりなのか、伊豆はやはり稀有な例なのかは、到底判断できそうになかった。その判断をするには、私の人付き合いの範囲は狭すぎる。


 ──人付き合いといったら、差し当っては考え事などせず、目の前で食事をしながら熱心に私に話しかける人物の話に多少なりとも耳を傾けるべきなのであろうが。


「それで天津さん、ミケってば酷いんですよ。僕の顔を踏んづけて弟の方に……って、聞いてますか?」


「ああ、ええ、勿論ですよ伊豆さん。飼い猫の話ですよね」


「聞いてないじゃないですか。ミケはうちの犬です」


 ……とんだ罠があったものだ。


 今日は伊豆に誘われ、職場の近くの店で夕飯を共にしていた。彼のせいで私は仕事終わりのいちご牛乳を飲めておらず、ちっとも仕事が終わった感じがしない。


 しかし、彼と夕飯を共にすることで、コンビニ弁当を食べながらインターネットを見ることはせずに済んだ──これは、少し有難いような気もする。


「……伊豆さん。どうして今日、私を誘ったんです?」


 会話の流れをまるっきり無視して、彼に尋ねる。


「え? いやぁ、その、折角プライベートで話せましたから……天津さんと仲良くなれたらなぁと……」


 ……まぁ、大方予想はついていたが。

 しかしこの伊豆太一という男、嘘が致命的に下手である。


「とんだ折角があったものですね。目、泳ぎまくりですよ」


「えっ、いや、それは……その」


 ますます盛大に目を泳がせる伊豆。

 嘘はいけないことだ。困っている相手は助けるべきだ。──そんな当たり前の教えを疑わずに生きてこられたのだろう。それは正しいことだ。嘘はいけないことだし、困っている相手は助けるべきだ。

 『普通』というか、世間知らずと言うべきか──いや、やはり『普通』か。物語にはよくあることでも、実際背負いきれない程の他人の事情を共に背負うことなんてそうそうあった話じゃない。気がする。少なくとも私にはない。そういう小説を文芸部で書いたことがあるだけだ。

 ただ、彼から見れば自殺未遂であろう私の事情──そんなものはないのだが──を共に背負って共に悩める、そんな自信を大した根拠もなく持っている伊豆の考えの甘さは、やはり腹立たしかった。

 それの重さも知らない癖に。


「大方この間の自殺未遂を心配して話でも聞いてやろうと思って私を誘ったのでしょう。自殺未遂じゃないってあれほど言ったのに」


「それは………………誤魔化しても仕方ないみたいですね。そうですよ。だっておかしいじゃないですか、なんで死にたくない人が線路に飛び込もうとするんですか」


 別に死にたくないとまでは言っていない。死にたいわけではないだけで。特に生き続ける理由が見当たらないだけで──

 ……今、私は何を考えた?


「おかしい? そうですね、うちのようなホワイト企業で給与も休暇も十分、上司もいい人ですし、そんな環境で特に理由もなく自殺未遂。本当におかしい・・・・話、異常な話ですね──伊豆さん?」


 八つ当たりだ。

 分かっていたが、止められなかった。

 この男を前にすると、どうにも苛立ちを内に留め切れずに要らないことまで喋ってしまう。


「えっと……その」


 何の脈絡もなく苛立ちをぶつけられて困惑する伊豆。それでも何故だか、申し訳ないとは思えない。


「その……あの、天津さん。もし良ければ、何でも話してみてください。話したら楽になりますから」


 悩みを抱えていそうな人間にかける言葉として、最もオーソドックスで普通の言葉。しかし私と伊豆はそれが成立する仲ではない。


 私は、伊豆に何を話したところで楽になどならない。


 だいたい、この伊豆という男と最もかけ離れたところに私の問題はあるのだ。それに、全ての人間が人に話を聞いてもらったからといって楽になるわけではない。

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